スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「もののけ姫」

チューリッヒ市立映画館を会場に「もののけ姫」の上映会があった。言わずと知れた宮崎駿監督のアニメーションである。1997年に作られた映画だから、今から25年前の作品になる。当時、少しのタイムラグはあったが、スイスでも公開された。その後ビデオなども発売されているが、今30歳以下の若い人たちで、この作品を映画館で観た人はほとんどいないだろう。やはり、この映画は大きいスクリーンで観たい。上映会には、学生さんなどの若い人たちの姿が目立った。

宮崎駿氏の作品にはいつも深いメッセージがあるが、この「もののけ姫」のテーマはことさらだ。人間文明と自然の共存は可能なのか、可能にするための方策はあるのか。人類が行ってきた環境破壊の結果が、21世紀になって顕著になってきた。このアニメ作品は、時代的には日本の中世を舞台にしているが、問うているのは現在の人類のあり方である。息つく間も与えずに、戦いの場面が展開していく。そういう意味では、「となりのトトロ」とは違って、小さい子供向きのアニメではない。私の好みから言えば、暴力的な描写がちょっと多いのだが、しかし考えてみれば、人類の歴史は戦いの連続だった。今現在も悲惨な戦争が行なわれている。プーチンのロシアが仕掛けたウクライナでの戦争は、許されざる行為だ。古い考えに固執した冷血な独裁者の姿を見る。そして、まかり間違えば人類全体に取り返しのつかない破壊をもたらしかねない。同時に、現代の戦争は最大の地球環境破壊でもある。

「もののけ姫」には、3人の象徴的な登場人物が配されている。アシタカ、もののけ姫、そしてエボシ。私の解釈では、もののけ姫は自然を象徴し、エボシは人類の文明と今までの意識、アシタカはこれからの人類が取るべき道と未来への希望だ。

人類は、エボシのように森を切り開き、動物たちを滅ぼしてきた。この物語は、善悪を描いているのではない。もののけ姫にもエボシにも、それぞれの立場がある。もののけ姫は、人の子でありながら、生贄として森に捨てられ、山犬に拾われて育てられる。そして、完全に自然と同化して育った。エボシは、人間が生きるために、森のそばの村にタタラ場を作り、鉄を生産している。けっして冷酷な女性ではない。売られた貧しい女性たちを引き取って、タタラ場という働く場所を与えているわけだ。だが、彼女は、自然を征服すべきものと考えている。もののけ姫は、自分も動物たちの一員として、森を切り開いて動物たちの生きる場を奪っていくエボシを憎しみ、闘いを挑む。エボシは、シシ神に象徴される自然の不思議な力を信じていない。ゆえに、不老不死の力を持つシシ神の首を奪う先頭に立つ。だが、エボシは権力に騙されている。朝廷の権力者は、エボシを利用して首を取らせた後には、タタラ場を自分の配下に置く目論見で、村を襲うのだ。

アシタカは、北東の地に住んでいた。ある日、人間によって満身創痍の身で森を追われ、祟り神になった動物に襲われて腕に深い傷を負う。その傷はやがて全身に広がり故郷の村に祟りを及ぼすという。それを厭い、癒しを求めて旅に出る。答えは西の地にあるという。そして、やがてエボシのタタラ場に行き着く。その地で、もののけ姫とエボシとの出会いがある。アシタカは、どちらの側の者も助けようとする。彼にとっては、共に生きることが大切なのだ。白か黒かではない。命を与え、癒し、また時が来れば奪う森のシシ神のもとで、自然と人間たちが共に生きる道を探す。ある理想があるとしよう。それを初めから「できない」と諦めるのではなく、「では、どうすればできるのか」と問う。できる道を探そうとする。探さなければ見つからないだろう。アシタカに「求道」の姿勢を見た。

久しぶりに見返した「もののけ姫」は、とても面白かったし、いろいろ考える機会をもらった。

 

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今あらためてしみじみ眺める地球の写真

今週のお題「デスクまわり」

テーマを受けて、自分の机の上や周りを見回してみた。まず、机の上を見てみる。目立つのは並ぶ辞書類。外国に暮らして、言葉に関わる仕事や活動をしている身には必須だ。独和辞典、和独辞典、英和辞典、和英辞典。それから、国語辞典に漢和辞典、カタカナ語辞典、アクセント辞典もある。ドンと置かれているのは分厚い広辞苑。今でこそ、電子辞書もあれば、それこそインターネットで何でも調べることもできるが、その昔は、紙の辞書は欠かせないものだった。

日常的にドイツ語の読み書きをせざるをえない環境にいるので、ドイツ語の辞書にはたいへんお世話になった。どれほどページを繰ったろうか、手垢がついて黒ずんでいるし、表紙にはセロハンテープも貼られている。もうだいぶ前になるが、一度日本に帰省した際にさすがに新しいのを買ってきた。だが、やっぱり使い慣れた辞書には愛着があって、何かあればそちらの方に手が伸びる。ありがとう、三修社の独和辞典。机の隣の本棚には、主に仕事関係で参照する本が並んでいる。その他の本は、また別の場所の本棚に並べてある。

机周りの壁には、写真やカードなどを貼っている。子供が小さかった頃の思い出の写真や、気持ちを励ましてくれる言葉や風景のカード。そして、一枚の古い地球の写真。アポロ8号の宇宙飛行士が、月の軌道上から撮った写真だ。これは「地球の出」と呼ばれ、人類の意識に影響を与えた写真と言われているらしい。人類が、自分たちの住む地球の姿を初めて外から見たのだ。当時の雑誌に載ったこの写真を切り抜いて、以来ずっと持ち続けている。今でこそ、宇宙の映像など山ほど見ることができるが、あの写真を初めて見た時は衝撃的だった。自分たちの存在を俯瞰する視点をもたらした映像。壁に貼ってあるので、部屋の一部となって自然と目に入ってくる。だが、今のような状況になって、もう一度じっくりと眺めなおしてみる。カメラ視点に同化して、我々の地球にしみじみ思いを致す。

太陽系の一員として、天の川銀河の中を気の遠くなるような時間の旅を続けている地球。そういうスパンで見れば、つい最近発生した人類だ。その人類は、それからあっという間に繁殖して、我が物顔で地球を乗っ取ってしまった。自然を征服し続けるだけでなく、発生以来、同じ種の仲間同士でも戦争を繰り返している。もちろん、人類は好戦的な種と、一口では括れない。平和的な属性を持った者も多いはずだ。そういう人間たちは、困難が降りかかった時、知恵を絞って共存のための道を探そうとする。資源が限られているなら、どうやってそれを分け合うか、あるいは、技術開発によって解決していくか。そう考えるのは、人類の中の成熟した者たちだ。だが、未熟な者たちは自分だけ生き残ろうとする。使う手段は、脳みそではなく腕力だ。暴力の前には、思考や言葉は成す術もないのか。人間の肉体は、暴力の前には極めて脆い。

だからこそ、その一歩手前に出番となるのが知性と想像力だ。こうやって暴力を振るったらどうなるのかと考える力。他者の痛みに思いを致す感性。自分の思い込みでひた走る狂信の危険性には、どんなに警鐘を鳴らしても鳴らしたりない。人類にとっては、この地球は唯一の生存可能な星である。だから、なんとしても人々が共存する道を考えるしかないのだ。戦争の時代には、この21世紀で終止符を打たなければならない。

 

独裁者を生まないために

身辺が落ち着かなくて、ここしばらくブログから遠ざかっていた。コロナはまだ収束していない。しかし、オミクロンなどは感染力が強くても、軽症で済む人が多いらしく、人々は次第にこの状況に慣れつつある。ところが、今度は新たに、世界を揺るがす衝撃的なことが起こった。ウイルスではなくて、人が仕掛けた戦争である。

ウクライナにプーチンのロシア軍が侵攻して3週間以上になる。前々から緊張は伝えられていたが、一般人にはまさかの出来事だった。いくらなんでも、大国の大統領が隣国を一方的に攻撃するという暴挙に出るとは考えなかった人が大半だろう。これは侵略戦争だ。気に入らないからといって、相手を殴り倒す個人の喧嘩とはわけが違う。まさか、この21世紀のヨーロッパで、自分の思うようにならないからと言って、政治的・外交的解決の努力を放棄して、一国が他国を侵略するとは思いもよらなかった。専門家でも、そこまでの予測をした人はほとんどいなかったようだ。つまり、今回の暴挙は、まさかいくらなんでも!であり、合理的には説明できないものなのだ。プーチン側はいろいろ理由付けをしているが、どんな理由をもってしても、平和に暮らしていた人たちの国を突然爆撃し、戦車で蹂躙するなど許されざる行為である。ロシア軍がウクライナ国境に集結しだしてから、ニュースなどではこれが紛争に発展するかどうか、よく報道されてはいた。国境を守るウクライナの兵士たち、キーウの街の人たちへのインタビューもあった。あの時は、まだ美しいキーウの町並みの中で人々が生活していた。不安を感じながらも、冷静を保ってインタビューに答えていた人たち。オリンピックの観戦もしていただろう。それが、終わった途端の侵攻だ。週末を跨いで、ウクライナ人の生活は一変してしまった。インタビューやその時の町の様子を思い出すと、本当に胸が痛む。

なぜこんなことが起こってしまったのだろう。NATOだ、クリミアだ、大ロシア構想だ、米露の対立だ、などなど専門家はいろいろ見解を述べたてる。だが、私は、なぜここまで一国のトップが権力を一身に集中することができたのかが知りたい。なぜ冷血な人間が国の代表になれたのかが知りたい。すべては人間の頭の中、心の中から始まる。ある個人的な意図を持った人間が、着々と権力掌握へと歩を進める。この21世紀は皇帝たちの時代ではないから、たいていは選挙によって上り詰めると考えていいだろう。野望を持ちながらも、はじめは国民受けを狙った政策を掲げる。そして、選ばれたら、徐々に批判を封じる方向に向かっていく。利害関係が一致して迎合する人間たちで脇を固める。権力を掴むまでは、国民へ甘い餌を与えることも忘れない。揺るがざる頂点に上り詰めてからは、言論を弾圧し、刃向かったらどうなるかの恐怖を植え付けていく。選挙は行われても、反対派はすでに弾圧されているから、自分が勝つに決まっている。すでに、議会とは名ばかりで、権力者に都合のいい法律が次々と作られていく。独裁政治の完成である。20世紀に散々見てきたことだ。時代が進めば人間の意識も進化していくかと思いきや、この21世紀になっても、なくなるどころではない。

そうならないためには、どうすればいいのか。芽のうちに摘むことだ。選挙の時はよく考えて選ぶ。威勢のいいことを言っている人物には気をつける。熱狂には距離を置く。右とか左とかではなく、その人物が本当に国民のことを思っているのか、実は自分の利益と野心のために国民を利用しようとしているのか目を凝らして見つめる。そして、斜めに構えていないで、自分の投票権をきちんと行使する。ニュースにはリテラシーを持って接する。これがなかなか難しいのだが、ひとつのニュースを多角的に見るようにする。ニュースを伝えるジャーナリストに要求されることは、何よりも真実を伝えようとする姿勢である。日本ならば、憲法によって保障されている言論の自由を行使する気概だ。自ら萎縮すれば、どんどん追い詰められて行って、気がついたときには、すでに時遅し。言論の自由を保障する法律さえなくなっているかもしれない。その時に声を挙げても遅いのだ。というか、声さえ挙げられなくなっているのだ。今のロシアを見ればいい。ウクライナについて政府の見解と違うことを述べた人には、厳しい刑罰が待っている。国内の反対の声を見越して、そういう法律が議会で通ってしまった。戦争反対と言うことさえできない。そんな中で、ロシアの国営テレビのアナウンサーの後ろで抗議の声を挙げた編集者がいる。とてつもなく勇気のいることだ。あのような状況で、それができる人間は多くない。あとに続くジャーナリストや有名人がいるかどうかが、今後の鍵となるだろう。数は力である。ものすごい数の人たちが立ち上がれば、すべてを投獄することなどできなくなる。だが、そこまでになるには、たいへんなエネルギーが動かなければならない。今のロシアの状況では、それは並大抵のことではない。だから、選挙がある国ならば、独裁者が国を支配する前に、国民は目を見開いて政治家を選んでいかなければならないのだ。そして、そのためのジャーナリズムの果たす役割は大きい。それを改めて目の当たりに見せつけられた思いがする。

この侵略がもたらしたものは、ヨーロッパに住む者にとっては、第2次世界大戦以来の身近な戦争だ。プーチンは核の使用をも仄めかしているから、そうなれば、世界の滅亡にさえつながる。そうでなくても、この戦争によって、コロナで疲弊した世界経済はさらなる大打撃を受けている。一握りの人間たちによって我々の運命が握られているなんて、ほんとうに口惜しいことである。起こってしまった今、何ができるのか。世界の有力な人たちには全力を挙げて、プーチンを止めるために動いて欲しい。普通の人たちができることは何か。ウクライナの人々の窮状を救うための寄付、平和への働きかけの署名などなど。こちらでは、避難民の受け入れも続々と行われている。実際的な行動だけでなく、祈りの輪も広がっている。毎日同じ時間に、世界中の人たちが平和を願う祈りを捧げるというものだ。暴力は破滅しか生まない。一握りの狂信者たちの暴力によって、世界を滅びさせるわけにはいかないのだ。暴力の応酬と連鎖に与するには、人々の命はあまりにも惜しい。今も亡くなっていく人々を悼み、この理不尽な侵略が一日も早く終わるよう心から祈りを捧げる。

 

 

 

 

 

 

 

静粛車両

今週のお題「復活してほしいもの」

すでにひとつ書いたのだが、復活してほしいものがもうひとつあった。

いつ頃までだったか、スイス連邦鉄道の長距離列車にRuhewagenというものがあった。日本語にすれば「静粛車両」とでも言えばいいだろうか。たとえば、8号車にそういう表示があったとしよう。それは「8号車では大きな声での会話や携帯の使用はお控えください」ということだ。最近は全く見かけない。もしかしたら、期間限定の試験的な試みだったのかもしれない。私としては、この車両を復活してほしい。

日本では、電車の中で携帯で話すのは控えるというのが常識になっている。ところが、スイスではそうではない。だから電車に乗ると、時には乗車してから降りるまでに、ひとつふたつの私生活の様子を聞かせてもらうはめになる。電話で話すときは、たいていの人は大声になるもの。全車両に声が響き渡るわけだ。ネタに行き詰まったハーレクイン小説家には、ヒントをもらうことありかもしれないけれど、はっきり言って普通人にはちょっと迷惑。真向かいや後ろの席で大声で喋られて、それでも本に集中できるほど修行も足りてない。

こちらに来たばかりの頃は、スイスの人たちの静かさが印象的だった。携帯などはもちろんなかったが、電車の中で大声で話している人はほとんどいなかったような気がする。ひとりで編み物をしている女性もしばしば目についた。人々のおしゃべりの声も控えめだったように思う。カフェの中も静かで、音楽もなく、話す人も小声だった。対して、私がいた頃の日本の街は、概して騒々しかったものだ。商店街ではいつも音楽、たいていは歌謡曲を流していたし、いつも何かしらの音がしていた。それで、そんな日本から来た私には、よけいスイスの街の静かさが印象的だったのかもしれない。

ついこの間のことだが、散歩のついでに夫と二人で小さなカフェに入った。午後のお茶の時間だからか、賑わっていた。幸い空いている席があったので座る。すると、後ろの方から、けたたましい笑い声が聞こえてきた。振り返ると、初老の男女が孫と思しき小さな子供の相手をしている。大声で何回も笑っているのは、その女性だった。孫も自宅の居間にいるように伸び伸びと動いている。祖父母は孫が可愛い一心なのだろう。自分の家だったら結構なことだが、カフェは公共の場所だ。静かにお茶を楽しみたい人もいる。子供たちに作法を教えるのは大人の役目だ。小さい時に躾けなくて、いつ躾けるのだろうか。大きくなってからではもう遅い。昔のスイスでは、他人の子供でも注意する大人がいたが、最近はあまり見かけない。

まだ「静粛車両」があった頃、大声で携帯電話で話している若い女性がいた。夫が注意すると、その女性は「なんか、うるさいおじさんに文句言われちゃって」と電話の相手に言いながら、こちらを睨む。あらら、お嬢さん、それはないでしょう。「この車両では携帯は使えませんよ」と注意を促しただけなのだが。こんな時は「あ、すみません、気がつかなくて」と答えるのが礼儀ですよ、と教えてあげたくなった。他の人のことも考えるというのは、社会の中の作法だと思う。

昔、幼稚園の先生から言われて面食らったのは、Ihr Sohn kann sich nicht wehrenという言葉だった。日本語に訳せば、あなたの息子は自己防衛ができない、とでも言おうか。違和感を感じたのはなぜか。人間にはもともと利己的な本能があるのだから、それを助長するのではなく、他の人のことも考えなさいと教えるのが躾けだと思っていたから。日本では、自己主張して争うのではなく「和」を重んじる。スイス人の親は、子供が自己防衛できると自慢する。この辺に関しては、2005年に出版されたマイヤー三四子さんの「スイス暮らし40年」にも、同じような体験が書かれている。

それにしても、こちらに暮らしていると、スイス的な考え方と日本的な考え方の双方を足して2で割ったらちょうどよくなるのになあ、と思うことが時々あるものだ。

 

 

人の温もりあるサービスが懐かしい

今週のお題「復活してほしいもの」

問い合わせしたいことがあって、あるところに電話した。呼び出し音のあと繋がる。話そうと思ったら、機械に吹き込んだ声が聞こえた。その声がいろいろ指示してくる。次のご用件のお客様は1番のボタンを、何々をお問い合わせの方は2番のボタンを、これこれしかじかは3番のボタンを、その他は4番のボタンを、などなど。ボタンを押すと、たいてい音楽が流れてきて、待たされる。直接聞きたいことだったので、しばらく待って、やっと電話の向こうに生身の人の声がした。電話サービスがこのような形になって久しい。

スーパーのレジも、自分でバーコードをスキャンして精算する機械が増えてきている。人のいるレジを利用している人もまだまだ多いが、やがては取って代わられていくかもしれない。こちらは日本と違って、客とレジ係の人が自然に話すこともある。孤独な老人も、買い物に行けば口をきく機会もあるだろうに、機械化はちょっと寂しい。

電車の切符も、窓口ではなくて、スマートフォンのアプリで買う人が増えた。また、そうせざるを得なくなってもいる。たとえば、駅の閉鎖。私が住んでいる町の駅の窓口がなくなってしまった。たぶん、人件費の問題だろう。電車が発着する駅はある。しかし、建物は貸店舗として使われている。閉めた代わりに、アプリの使い方説明会があったので、覗いてみた。私はすでにアプリを入れて、たまには使っているのだが、もっと深い説明があるのかと思って参加。見渡すと、参加者の大半は70過ぎの人たちのようだ。私の隣に座ったご婦人は、たぶん80歳を越しているようにお見受けした。お持ちのアイフォーンが新しいから、最近購入されたのだろう。説明を聞きながら、一生懸命画面をタッチしているのだが、どうもうまくいかないようだ。見かねて手伝って差し上げる。講師の説明は初歩的なものだったので、集中して聞かなくても大丈夫そうだ。老婦人は、助かったというように、画面に釘付けになっていた顔を上げて感謝してくれる。だいたい、タッチスクリーンというのは、年配世代には扱いが難しい。昔のメカニックのタイプライターは、タップに力を入れたのだ。スマホは、ちょっと触っただけですぐ勝手に動く。それに、画面が小さい。また、画面に出ている情報だけでなく、下にスクロールしていって初めて「次に」の指示が出てくる。少なくとも、わからなくなったときに聞ける子や孫がいる人はいいが、そうでない一人暮らしのお年寄りは、この時代を生きていくのは大変だ。

銀行もそう。最近、紙の収支報告には手数料いただくことになりました、との通知が来た。それだけでなく、昔は無料サービスだったものほとんどに手数料がかかるようなった。働く人は減らしているはずなのに、どこに余計なお金がかかるのだろう。銀行は、自分たちが赤字になりそうだったら、利用者へのサービスを削るか、手数料を値上げする。トップの給料を減らしたという話は聞かない。そもそも、銀行は何かを生産するのではなく、人のお金でお金を儲けているのだ。預かったお金があるからこそ利益も上げられるくせに利子もつけない。本来なら、お金を預けてくれる人にサービスしなければならないのでは?ああ、普通の庶民ではなくて、高額預金者には手厚いサービスをしているのかもしれないが。

何かを申し込むにも、コンピューターを使って自分で処理することが多くなった。わからないことが出てきても、ホームページに電話番号が書いてないこともあるから、簡単に聞くこともできない。メールで問い合わせするか、自分で調べなければならない。なんだか今の時代、お金を払っているのに、自分で手間暇かけて自分にサービスしているような気がしてくる。数年前のあるイギリス映画を思い出す。失業した年配の男性が仕事を探しに相談所に行くのだが、手続きはコンピューターでと言われる。彼は事務仕事をしたことがないので、やり方がよくわからない。それでも、相談受付はコンピューターのフォームで送ってから、ということで困り果てる。

それにしても、AIに取って代わられた従業員たちは、どこに行くのだろう?みんながみんな起業できるわけでもあるまいし。また、生活の全てをコンピューターに依存するようになった社会は脆弱だ。万一、電気の供給が止まれば社会活動も止まってしまう。ハッキングの危険とも隣り合わせだ。新しいバーチャルリアリティーが話題だが、人は自然の中で食物を生産して摂取し、それを消化してエネルギーに変えて生命活動している生物だということを忘れちゃならない。そして、人はリアルな人との関係性によって生きている存在だということも。

 

 

街角カフェでコロナのことを考える

目医者の予約があったので、久しぶりにチューリッヒの街に出た。最近はコロナのせいもあって、特に用事がなければ遠出もしなくなった。そんなわけで、久々の外出である。ということで、予定の時間より早く街に行ってみる。ちょっとカフェに入ってゆっくりしようという算段である。

街角に、なかなか洒落たカフェを見つけた。トラム(市電)のターミナル前の通りに面している。あそこに入ろう、と入り口に向かう。まだ朝の気配だが、勤め人はもう仕事を始めている頃だ。カフェの中には、年配のご婦人たちや、新聞を読んでいる男性などがちらほらと座っている。ちょうど真正面にトラムの通りが見える席が空いていた。予約の時間まではまだ30分ほどある。コーヒーとクロワッサンを注文して、ゆっくりと道行く人々を眺めることにした。

外を見ていて、様変わりしたなあと思うのは、道行く人々のマスク姿だ。スイスでは、外ではマスクをする必要はないが、建物の中に入るときには着用しなければならない。公共交通機関もそうだ。だから停留所や駅では、電車に乗る前でもすでに付けている人が多い。日本では、コロナ以前からマスクはなにも珍しいことではなかった。昔から風邪を引けばマスクをしたし、春になると花粉症でマスクも花盛り。しかし、こちらでは、大げさに言えば天地がひっくり返るほどのことだった。それくらい、マスクはスイス人に大きなライフスタイルの変化をもたらした。

注文を取りに来たサービスの人に、スマートフォンに入れているコロナワクチン証明と身分証明書を見せる。昨年の末にオミクロン株が広がってからは、ワクチン接種者か、感染して抗体証明を持っている人だけしか、レストランなどに入れなくなった。その前は、未接種者も事前にテストをして陰性であれはだいじょうぶだった。だが、ワクチンを接種していれば、万一感染しても重症化は少ないので、病院の集中治療室に入る患者はまずいないが、未接種者については重症化の可能性も高いと言われている。だから、屋内に集まって長く過ごすような場所は避けた方がいいということだろう。政府が一番憂慮しているのは、2年前に感染拡大が始まった頃のような病院への多大な負担と死亡率の増加のようだ。

2020年の春は、ヨーロッパは大変だった。2月の初め頃は、遠い中国の出来事と思っていたのが、まずイタリアに飛び火して、あっという間に広がった。スイスでも、とくにイタリアと国境を接しているティチーノ州は感染者が爆発的に増えた。あの頃は、未知のコロナウイルスに、政府も医療関係者も必死に立ち向かっていた。今でこそいろいろ分かってきたが、当時はワクチン開発に希望を託して、できるだけ人との接触を断つしか道はない状況に見えた。そして、ロックダウン。連邦政府は毎日記者会見を開いて、国民に推移する状況を説明するのに追われた。保健庁を担当している内務大臣のベルセ氏の心理的肉体的負担は大変なものだったと思う。対策を認める人もいれば、常に批判する人もいるし。今年で2年に渡る激務になる。お坊さんのような頭なのだが、うっすらとした髪にも心なしか白いものが増えたような気がする。

その彼も、先日の記者会見では少し明るい顔をしていた。感染者は減ってはいないが、ワクチン接種も進み、その多くは軽症者で病院の逼迫状況はないとのこと。そこで、連邦政府としては、徐々に措置の緩和に向かいたいとのことだった。在宅勤務の義務はなくなり、濃厚接触者の自己隔離期間も短縮。その他、コロナ証明提示義務をなくすことも検討されているようだ。いずれにしろ、2月17日の会見であらたな措置の緩和が発表される予定という。3年目の春は、どんな景色を迎えることになるのだろうか。

こうやって街を歩いている人たちも、この2年間いろいろな思いを持って過ごしてきたことだろう。ワクチンに対しても様々な見解があって、データに基づいた科学的な情報だけでなく、個人的解釈もユーテューブなどでたくさん発信されている。リテラシーという言葉があるが、誰でも発信できるこの情報洪水時代には、情報リテラシーを持って物事を判断することはとても大事なことだと思う。コーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。

 

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ドラマ「新聞記者」を見て思ったこと

今週のお題「現時点での今年の漢字」

1月も終わりに近い。冬至からひと月以上経って、徐々に日が長くなっていくのが嬉しい。これからまたひと月もすれば、だんだんと春の足音が聞こえてくる。そう思っただけで、ふっと沈丁花の花の香をかいだような気がした。

さて今週は、今年の漢字のお題である。年末に一年を振り返って、今年を漢字一文字で表せば何ですか、というコンテストがあるらしい。だが、これは年頭にあたっての質問である。つまり、今年への希望というか、抱負ということだろう。抱負というのは、たいてい自分自身がやりたいことを指すわけだが、いくつかあって一文字に収まりきらない。一文字とは書いてないが、「今年の漢字」と言われれば、どうも一文字の方がしっくりくる。それではと、今年への希望の方で探してみることにしよう。何だろうと考えた時、最近見たネットフリックスの「新聞記者」が思い浮かんで、「誠」という漢字がふっと降りてきた。

久しぶりに米倉涼子さんを見た。海外にいると、日本の芸能情報には疎くなる。 JSTV に加入していたり、あるいは、今は日本のテレビが見られるアプリもあるようだが、私はやっていないので。主演の綾野剛さんのことも、若手の横浜流星さんのことも知らなかった。吉岡秀隆さんは昔から子役で出ていたし、寅さん映画の甥の役で有名である。寺島しのぶさんや佐野史郎さんなどの演技派も出演する見ごたえのあるドラマだった。ネットフリックスでは、日本は韓国ドラマに押され気味の感があったので、このような質の高い社会派ドラマが全世界配信されるのはちょっと嬉しい。

まずは、ドラマの内容を簡単に見てみよう。ある学園への国有地破格の払い下げに総理夫妻が関与する。だが、国会で野党議員にそれを追求された総理は言下に否定し、もし事実であるならば総理も議員も辞めると強弁する。そして、総理の国会答弁に整合性をもたせるために、中部理財局の記録が改ざんされる。上から公文書改ざんを命じられた理財局の職員は、責任を押し付けられて自殺に追い込まれる。彼は真面目な人柄で、国家公務員は国民に仕える仕事だと誇りを持って働いていた。それなのに公文書改ざんという不正に手を染めざるを得なくなった彼の苦悩。吉岡秀隆の演技が心に迫る。妻を演じる寺島しのぶも上手い。この事件の真相を追求する東都新聞の女性記者を演じるのが米倉涼子。そして、亡くなった職員の義理の甥を演じるのが横浜流星。新聞配達のアルバイトをしている大学生の彼は、政治は自分とは遠い世界のことだと思っていた。しかし、伯父の死をきっかけにして、自分たちは政治から目を背けてはいけないのだと気づく。やがて、真実を追求し伝えようとする、米倉扮する女性記者の揺るぎない姿勢に尊敬の念を抱くようになり、自分も新聞記者を志す。一方、総理夫人の秘書として、財務省に国有地払い下げの大幅値引きの中継ぎをした官僚は、身を隠すために内閣情報調査室に配属される。それを演じるのが綾野剛。そこでは、SNSなどを使って情報操作もされていた。職務と良心の板挟みとなって苦しむ彼。話は展開していき、亡くなった職員の妻は、夫が残した手記をもとに法廷で真実を明らかにしようと決意する。

毎回、エンドクレジットにはフィクションである旨が表示されるが、数年前に起こった森友学園事件を彷彿とさせるドラマである。誰が不正値引きの本当の黒幕で、誰が公文書改ざんの本当の責任者なのかが曖昧にされたまま幕引きされた未解決事件だ。一連の経緯を見ていると、国の対応には「誠」のかけらもない。夫が死に追いやられたその真相が知りたいという、残された夫人の切なる思いも踏みにじられた。赤木夫人が真実を知るために起こした訴訟は、意外にも被告側があっさりと「認諾」する形で終わりになる。裁判が続けば証人喚問が行われるから、ある人たちをよほど証人として立たせたくなかったのだろうと、一連の報道を見ていると、そう勘ぐられても仕方のない幕引きの模様だ。その対応には、まったく「誠」の欠片も見つからない。

よく、政治なんてそんなもの、と知ったふうに斜めに構えて言う人もいるが、ほんとうにそれでいいのだろうか。私たちは、人の間で生きている。それが「人間」だ。日本語って、言い得て妙だと思う。人間は生を受けて以来、社会の中で生きていかざるを得ない。社会にはいろいろな人たちが暮らしている。生来の気質も違えば、育った環境も様々だ。そんな人間の集団がうまく機能していくための一つの政治形態が、民主主義だろう。誰かが言っていた「民主主義は他者と共に生きる知恵」という言葉が頭をよぎる。みんなで共に生きるためには、お互いの信頼が大切だ。だからこそ、昔から子供たちは、嘘をついてはいけません、約束は守りなさい、と教えられてきた。それは、「誠」を大事にして社会を存続させる、代々受け継がれた知恵であろう。

人と人の間に「誠」がなくなってしまったら、社会は機能しなくなる。「誠」という字を、手持ちの漢和辞典で引いてみる。解字の項には、こう書いてある。「形成文字。ことばと心が一致して違わない、言行が一致する意。」意味の項は「1.まこと。(ア)まごころ。偽りのない心(イ)真実。 2.まことに。まったく。実に。 3.まことにする。まことを実現する。 4.つつしむ(敬)。

そんな基本的なことが蔑ろにされる社会に未来はない。何事も信用で成り立っているのだから、そこがいい加減な社会は混乱に陥ってしまう。とりわけ、国の舵取りを任されている政治家にこそ、「誠」を大事にしてほしい。政治が社会を左右するからだ。

いろいろ考えさせられるだけでなく、「新聞記者」は、役者さんの表情や動きを捉えるカメラアングルなど、映像作品としても見ごたえのあるものだった。

 

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