スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

オンライン時代に思うこと

スイスではコロナ感染の第二波を受けて、特にコロナウイルスの変異種の広がりの懸念から、2月末までの期限で厳しい予防措置に入った。1月18日からは生活必需品を扱う店を除いて一般店舗の閉鎖。だたし、郵便、銀行、医療関係、美容室、園芸店、キヨスク、ガソリンスタンド、通信関係の店は、時間制限を課して営業可。すでに12月からなされていたレストランの閉鎖は2月末まで延長。文化スポーツ施設の閉鎖、イベントの禁止、集まる人数は5人まで。ただし、お葬式や政治集会は50人までの制限を設けて許可。可能な職種でのリモートワークの義務付け。小中学校は閉鎖しない。学校を閉めることは弊害の方が大きいから、感染が爆発的に広がらない限り閉鎖にはならないだろう。

欧米に比べると、日本では感染者は少ないようだ。ただ、コロナへの医療対策が遅れているらしく、感染を極力抑えるために、水際作戦を取っているらしい。ということで、今は日本への帰省もままならなくなっている。帰ることはできるのだが、2週間の自己隔離をしなければならない。まず、出国前72時間以内のテストで陰性の証明が必要、そして、日本入国時に唾液検査があって、テストの結果が陰性であっても、2週間は蟄居生活が義務付けられている。日本に到着してからは、公共交通機関が使えないから、国際空港から遠く離れた土地に帰省する人は、相当難しい。レンタカーを借りるにしても、北海道や九州・四国あたりに帰るのは困難だろう。そんなわけで、航空券が安くなってからは頻繁に帰省していた周りの日本人たちも、今は我慢の子である。私の場合は、もう親も亡くなって実家もないし、帰ると言ってもホテル暮らし、帰省というより日本訪問と表現する方がぴったりするようになってからは、通う足も少し遠のいていたので、友人たちほど影響は受けていない。しかし、日本はもちろん生まれ育った故郷に変わりはないし、いつもどこかで気になっている。

物理的にそこにいなくても、今の時代はオンラインであたかもそこに臨場しているかのような経験をする。また、日本のニュースもそうだが、インターネットに繋がれば、世界中の情報が瞬時に入ってくる。昔を知っている人間には、隔世の感がある。先日の米大統領の就任式も、リアルタイムでアメリカの番組を見ることができた。まるで、自分もアメリカのその場にいるかのように。凄い時代になったものだ。オンラインの集まりや講演会、イベントなどもこのコロナ禍を機に急速に進んでいるようだ。ただ、すべての物事には光と陰がある。このインターネットというものも、心して使わないとならない。

このデジタル化していく社会について、一度立ち止まって考えてみたい。特に、12年ほど前にiPhoneが世に出てからの社会の変化はすさまじい。5年ほど前までは所謂ガラケーを使っていたこの私でさえ、今ではスマートフォンを使っている。これからますますスマートフォンを持っていないと不便な世の中になることだろう。若い人たちは、これひとつで検索はもちろんのこと、交流から支払いまでしていて、これがない世界などもう考えられないのではないだろうか。そういう意味では、私が属する世代は、デジタル化した社会に生きながらも、アナログ時代を知っている最後の世代になるかもしれない。1995年に出たウインドウズ95は、世界のデジタル化の始まりだったと思う。今までは専門家の間でしか使われていなかったインターネットが、一般に普及するきっかけとなった出来事だった。その後、ウインドウズ98、ミレニウム、XPと、どんどん進化していった。当初は主にアーティストの間で人気が高かったアップルも、一般の人々に急速に広がる。アクセスも、最初は電話線、次にISDN、それからWi-Fiと進化していった。

人との交流の仕方で言えば、SNSの急激な発展と普及による変化には目を見張るものがある。初めはコミュニケーションの広がりが世界を良い方向に導いていくと歓迎されていた、と思う。しかし、どうやら陰の部分も大きくなってきたようだ。嘘の情報や憎しみの言葉が悪いエネルギーとして光を陰らせている。昔は、ものを書く時はよく考えて文章にしたものだが、今はツイッターなどでは、その時思ったことをあまり深く考えないで、パッと送る人も多いようだ。4年前にアメリカの大統領職にある人が、ツイートで簡単に政治的な発言をしはじめたのにびっくりした。政策的なことや政治判断は、じっくり検討して発表するものと思っていた。アメリカ大統領の発言は世界に大きな影響を与えるから。日本には言霊という表現があるが、一般的に、最近は言葉による表現力へのリスベクトがなくなってきているような気がする。自戒も込めてだが、言葉を使って他者に事実や思いを的確に伝えるというのは、本当に難しいことだと思う。だから、文筆家が職業になるのだろうし。けれども、今は誰でも気軽に公に発信できる。もちろん、それはいいことでもあるのだが、ペンは諸刃の剣で、人を救うことも傷つけることもできる。人々を精神の高みに導くことも、逆に蒙昧を助長することもある。11月からこっち、米大統領選挙が気になってよく見ていたので例に挙げるが、バイデン氏の諸々の演説を聞いていると、よく出てくる言葉があった。それはdecent。混沌とした時代に、一つの指針となる態度として心がけたいものだ。

さて、先にも書いたようにコロナを機にオンライン化が一気に進んでいる。光の部分としては、離れている人とも顔を見ながら交流できたり、居る場所に関係なく講演会に参加できたり。けれども、一抹の懸念がある。個人の自由の幅がどんどん狭められていく危険もあるからだ。デジタル化ですべての行動が個人の裁量下から離れ得る。何事にしても、悪用しようとする人間はいる。特に、オンライン化を進める人たちに我欲がある時は怖い。我欲はすべてにおいて曲者だ。インターネットの普及に尽力した当時の若者たちには、若い時の夢と創業の初心を忘れて欲しくないものだ。そして、権力者には支配の野望を厳に慎んでもらいたい。

ジェネレーションZという言葉があるらしい。1990年代後半から2010年の間に生まれた若者子供たちで、生まれた時からインターネットが当たり前のようにあった世代を指すのだそうだ。物欲が少なく、性別にも拘らない世代のようで、もしかしたら、この世代がインターネットをいい方向に発展させていけるのかなという希望もあるが。

いずれにしても、私たちは時代の転換点に立ち会っているように思う。後どのくらいこちら側にいるのかはわからないが、晩年を革命の時代に生きることになるのだろう。いや、すでにかなり前からそれは始まっている。

 

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