スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

孤独について考えてみる

このコロナ禍で、人との交流が難しくなっている。先日見たスイステレビの番組で、スイスの人の三人に一人が何らかの「孤独」を感じているという。すべてをコロナに帰することはできないと思うが、一年にわたる様々な「社会的距離」は人々の心に大きく影響はしているだろう。誰かと会って一緒に食事に行ったり、コンサートやイベントを訪ねたりする生活が普通だったのが、一年前を機に一転してしまったわけだから。また、スイスではリモートワークが推奨されて、というか、それができる職種はほぼ義務になって、職場で人と接触することもなくなった人が多い。オンラインの交流とリアルで人と会うことの違いは大きい。ある心理学者が、この自粛生活を巡ってコラムを書いていた。若者たちへの影響についてだ。成長過程にある若者たちは、自分がリアルな場で、人を見たり見られたりすることで、自分自身というものを確立していくから、今の状況はそういう意味でも憂慮されるということだった。また、高齢者の孤独の問題も看過できない。高齢者のホームでは、施設内の人とちょっとした交流はあるだろうが、イベントなどは中止だし、訪問者も受け付けていない。ましてや、一人暮らしの人は余計に寂しいだろう。

ただ、孤独の問題は、コロナに関わりなく常に人の一生に付き纏うものだとは思う。

それは、交流を求めて自分から動きにくくなる年齢になってくると尚のことだろう。ずいぶん前の話になるが、ちょっとしたエピソードがある。毎年、知人友人に年賀状を贈る習慣だが、3年ほど全く知らない同姓同名の人に送っていたという笑い話のようなストーリー。まあ、どうしてそうなったかの説明は省くが、ある日、一人の老婦人から電話が掛かってきた。「私は〇〇と申しますが、私たちは知り合いでしょうか?実は、2年ほど前から〇〇さんという方からカードをいただいているのですが、それはあなたでしょうか。ただ、どう考えてもどなたか思い当たらないのです。それで、3回目にいただいた今回、息子に頼んでそちらの電話番号を調べてもらってお電話差し上げたのです。」話を聞いてハッとした。それは、私が送るべき人と同姓同名の全く違う人物だったのだ。私はお詫びして事情を説明、そしてそれから知らない同士でも打ち解けて、一時間くらいお話しただろうか。聞けば、未亡人のその方は、仕事を辞めてから先のことを考えて、慣れ親しんだ土地を離れ、息子さん一家の住む地域に引っ越してきたのだという。お話では、息子の勧めもあっての決断だったそうだ。ところが、息子さんは時々訪ねて来てはくれるものの、お連れ合いの方、つまり義理の娘さんになるわけだが、ほとんど顔を見せてくれない。そんなことだから、息子も気を使っているのかあまり長く居てくれない、と寂しそうだった。溜まった思いを、全く関係のない私だからこそ打ち明けやすかったのかもしれない。その他、その方の人生のお話も少し伺った。人は誰かに話を聞いてもらいたいことがある。ひょんなことからだったが、お相手ができてよかった。私の住む地域にも、高齢者を訪ねてお話相手をするボランティア活動があるそうだ。

いずれにしても、孤独の問題は老若男女を問わない。ふと、ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」というシャンソンを思い出した。自分にはいつも寄り沿ってくれるものがある。だから一人じゃない、もう寂しくない、私には孤独という友がいるから。日本語訳の歌はそんな歌詞だったと思う。けれども、寂しくないわけがない。人間は社会の中の繋がりで生きる存在だから。このテーマについては、また書いてみようと思う。

 

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