スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

カズオ・イシグロ氏のインタビュー記事を読んで考えたこと

購読している地元の新聞をパラパラと繰っていたら、ある見出しに目を引かれた。アジア系中年男性の写真とともに、大きく「我々は根源的なところで孤独である」と書かれていた。ちょうど、ブログに「孤独について考えてみる」と題して文章に書いたところだったので、よけい目に飛び込んできたのだろう。

それは、カズオ・イシグロ氏へのインタビューだった。氏の新作「クララとお日さま」の紹介である。ドイツ語訳が出版されたことによるものだが、日本語訳もすでに出ているみたいだ。見出しの下に「ノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロが人工知能、個人の責任、そして彼の新しい小説について語る」とある。インタビューを読んで、ぜひこの新作を読んでみたくなった。

「クララには人々と孤独との関係がよくわからないようですが」と言うインタビュアーに対する応答が、この見出しの言葉だった。氏の答えをまとめてみる。ロボットのクララは、ティーンエイジャーのお友だちとして、孤独を慰めるようにプログラミングされている。だが、長らく人間たちと過ごすうちに、人間は非常に根源的なところで孤独なのではないかと思うようになる。巨大で複雑な世界がそれぞれの人間たちを取り囲んでいて、一人一人が自分のまわりに城壁を築いている。それがそれぞれをとても複雑で多面的で愛すべきものにしているのだが、そこに個々人が他者への関係性を築くことの難しさがある。それは、我々は根源的なところで孤独だという私(イシグロ)の確信に繋がる。他者へ橋を掛けるというのは、絶え間ない挑戦だし、それは長年共に暮らしている人たちに対してさえそうだ。人々がこの孤立の感情を和らげるために何をするのか。その全てを観察するのはとても興味深いことだと思う。と、まあ、そんなことを語っていた。

前回のブログにも書いたように、ここスイスではおよそ3人に1人が孤独を感じているという。今は特にコロナで人との接触があまりない。そういう意味での孤独感もあると思う。でも、イシグロ氏がいうような、人間に付きまとう根源的な孤独というものはあるだろう。生まれ出た時に母親の胎内から切り離されて、死ぬ時も独りだ。自我という言葉はひとつだが、この世には無数の自我が存在している。それぞれの自我の観点からすれば、それぞれが世界の中心ではあるけれど、無数の自我があるわけだから、どれもみな同時に等しく世界の一隅にある存在だ。「あなた」と「わたし」が出会う。ある意味、こうしてこの自我たちがこの時間と空間を共有していることは、なかなかに有り難いことかもしれない。そう思うとイシグロ氏の言う城の門を開いて橋を掛けずにはいられなくなる。根源的なところでは孤独であるということを前提としてこそ一層深まる交流があるのではないか。人々が孤立の感情を和らげるために何をするのかを観察するのが興味深いというのは、イシグロ氏の小説家の観察眼だ。その考察が「クララとお日さま」に書かれているのだろう。

もうひとつは、日本の雑誌のインタビュー記事。「カズオ・イシグロ語る『感情優先社会』の危うさ」というタイトルだった。タイトルを見ただけですぐ読んでみる気になった。簡単にまとめると、誰もが感じたいことを感じて、それが真実になってしまう危うさが社会にある。エビデンスではなく、感情や意見が幅をきかせるようになってしまった。科学の世界で行われている手法、最終的にはデータやエビデンスによって事実と向き合い、その上で間違いを修正しながら議論していく姿勢が大事だとイシグロ氏は語る。事実はこうでも私の感情はこうだと、感情を優先させてしまうと議論が成立しない。まずは、あなたの感情は棚上げして、客観的な事実を土台として相手と話しなさいよ、ということだろう。自分と違う世界があるという認識が必要と語っているが、それは納得する。生まれ育った場所や時代を引っ括めて、違う環境で形成された受け止め方を感情的に主張していては、一致点を見つけることは難しい。やはり、データやエビデンスによる事実を共有することが出発点だろう。

日本を離れて長年異文化の中で生活していて思うのは、人間の基本的感情に国による違いはないということだ。喜怒哀楽に関してはそう思う。そうでなければ、ある文化圏の文学作品が翻訳されて、異文化の人たちにも共感を得たりすることはないだろうし、映画も然りだ。ただ、ある行動への受け止め方や感情の表し方には、文化による違いがあると思う。日本国内だって、関東と関西は文化が違うと言われたりしている。その人が育った時代背景によっても違うだろう。だからこそ、感情論では問題解決のための建設的な議論はできない。イシグロ氏も触れていたが、先のアメリカ大統領選を巡っての混乱を見ても、トランプ氏は、自分は負けるはずはないし勝ったと信じているのだから勝ったのだと、データもエビデンスも出さずに、自分の感情だけで言い張っていたように見える。これは一例だが、ここ数年のSNS上で起きている様々な問題は、思い込みが検証なしに一人歩きしているところに起因しているようにも思える。

成熟した社会や文化とは何だろうか。昔、何でもかんでも物事を「私」の好き嫌いで測る同級生の女子がいた。「これ、好き。あれ、嫌い」で、すべて判断する。食べ物や音楽などの好みだったらそれもいいだろう。それが、人や考え方に対してもそうなので、聞いていてちょっとどうかなあと思うところがあった。自分の感性と向き合う成長過程においては、そういう段階も必要だろう。だが、年を重ねてもそうなのであれば、やはり未熟と呼ばざるをえないのではなかろうか。自分の主張を持ちながらも、人の立場も考慮できるようになることが、大人になることではないだろうか。社会もそれと違わないと思う。テクノロジーだけ発達しても、私たちの世界が子供返りしていないといいが。

世界には問題が山積している。ただ、インターネットが普及する前と決定的に違っているのは、ネットを通じてニュースが即時に世界中に共有されるということだ。昔は、世界のどこかで何かが起こっても、そのニュースが伝わるまでにはタイムラグがあったし、地理的に遠ければ、それは違う世界の出来事と言う感覚があった。一般の人は、たいていは自分が手の届く範囲の世界で暮らしていた。しかし、今のように即座にツイッターなどで情報が駆け巡る時代には、この空間を常にザワザワしたものが飛び交っていて、意識的にシャットアウトしないと心の安らぐ暇がないかもしれない。距離をおいてゆっくり考える余裕がなくなっている。熟考しないまま、何らかの発信が行われる。

物事を感じるのは即座のことだ。しかし、考えるためには立ち止まって観察する時間が要る。無機的な技術発展で瞬時に受発信ができるようになった世の中は、有機的存在である人間の本質とはどこか相容れないところがあるように思う。

  

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