スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

言葉の魔術

母語以外の言葉を使って生活していると、自然に言葉というものについて思いを巡らすようになる。言葉というものは面白いものだ。どこからか思いが湧く。その思いが頭の中に留まっている限りは、まだ言葉にはなっていない。もちろん、自分自身と対話することもある。その場合は、頭の中でも言葉を使っているだろう。ただ、言葉というものは、それぞれが自分の思いや考えを他者に表現する手段としてある。お互いに分かり合うことが目的だ。異言語間のコミュニケーションでは、双方あるいは片方が母語以外の言葉を使うことになる。そこがなかなか難しいところだ。習得の度合いにもよるが、思ったことを思ったとおりに表現できないもどかしさは、一つの言語の奥深さを考えれば、異語話者には常に付きまとう。母語だったらこのニュアンスをうまく伝えられるのに、隔靴掻痒とはまさにこのことである。そして、時にはお互いに理解したと誤解しあっていることもあるだろう。

日本人は往々にしてはっきりものを言わない。その昔、「男は黙ってサッポロビール」というCMがあった。沈黙は金という格言もあるが、多く語らなければ、相手が想像を巡らして理解しようとすることになる。これは、同じ文化背景を共有する人たちの間では、ある程度通用するかもしれないが、異文化間では無理である。たとえば、長年こちらにいて実感するのは、西欧の文化は己を語る文化、というか発言する文化だということ。それにドイツ語の構造は、曖昧に表現して相手に行間を読んでもらうようにはできていない。日本語社会から来て難しかったのは、いちいちはっきり言わなければ、相手に通じないということだった。日本流に、言わずとも相手に察してもらうというわけにはいかない。だがそれは、明確なコミュニケーションができるということかもしれない。察し合いは、誤解に繋がることもある。そして、この誤解というのは日本語を母語として話す者同士の間でもありうることだ。

あるキャンペーンのフレーズが思い出される。多く語らずに、聞き手に想像させる。説明せずに納得させる。あのキャンペーンは、言葉の魔術をうまく利用した典型的な例だろう。ことの良し悪しは別として、作者はそういう意味では、優秀なコピーライターと言えるかもしれない。それは、20年ほど前の郵政民営化選挙で盛んに連呼された「官から民へ」というフレーズである。日本人の中には、「官」と「民」に対して大きな誤解をしている人たちが少なからずいるように見受けられる。つまり、「官」はお上で、「民」は自分たち民草じゃないかと。だから「官から民へ」は、何だか郵便局がお上の所有から民衆の物になるかのような錯覚を起こさせた、と思う。選挙では当時の小泉首相が圧勝して、郵政事業は民営化された。だが、それはイメージとは裏腹に、郵政が国民の手を離れて一部の企業のものになったことを意味する。一般の民衆心理をくすぐる、誤解の余地ある簡潔で上手いコピーだった。より正確に内容を表現するなら、むしろ「国から私企業へ」だろう。だが、それでは言葉に目的通り人を動かす魔力がない。民主主義国では国民に主権がある。行政府は、権力を持った「お上」ではなくて、いわば国の管理人だ。マンションに例えれば、住人が安心安全に住めるように、管理費をもらって仕事をしているようなもの。つまり「官」営ということは、公務員が国民の財産を委託されて運営していることで、実質的には国民のものだということである。それに対して「民」営化とは、全体の財産だったものが一部の人のものになるということだ。ドイツ語では、その点はっきりしている。郵政民営化は、Post Privatisierung、ずばり、プライベート化である。国の手から離れて、一部の企業の所有になることだ。「官から民へ」のキャッチフレーズのもと、自分たち国民のものになるんだ、と誤解して投票した人もいるのではないかと想像してしまう。そういう人たちにとっては、後の祭りだった。

それにしても、言葉の力は大きい。人を精神の高みに引き上げることもできれば、堕落させることもできる。勇気付けることもできれば、傷つけることもできる。言葉は一種の魔力を持っている。言葉について考えを巡らすのはとても面白い。

 

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