スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

時間は逆戻りするのか

今週のお題「忘れたいこと」

最近、「時間は逆戻りするのか」(高水裕一)という刺激的な題名の本を読んだ。ブルーバックスなので、科学的アプローチの本である。今週のお題を見て、まずはこの本のことが頭に浮かんだのだ。「ホーキング最後の弟子」が究極の問いに答えるという謳い文句で、「宇宙から量子まで、可能性のすべて」という副題が付けられている。「はじめに」で、著者は「あのとき、ああしていればどうだったかなあ」と、自分がやらなかったことに後悔することはないかと問う。そして、著者個人としては、何かをやらずに後悔するよりも、やるだけやって後悔した方が、人生が豊かになる確率は高い気がすると書いている。時間は、過去から未来へと一方向に流れる。少なくとも、我々の常識ではそうである。その流れは過去から未来へであって、未来から過去へではない。しかし、果たしてその一方向だけなのか。そんな時間の謎を、相対性理論や量子力学の視点から探る興味深い本だった。以前読んだ、現代イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」も面白かった。私にとっては、いや、すべての人にとって、時間は永遠の謎であり、尽きぬ興味の源だろう。

ゲーテの「ファウスト」の中に「時よ止まれ、おまえは美しい」という有名な言葉がある。あまりに素晴らしい瞬間に、時間は止まってくれるのか。いや、時間はいかなるときも容赦なく過ぎていくのだ。この瞬間を心に留めておこう、と思っても時は過ぎゆきすべては忘却の彼方に消えていく。私は写真が好きだが、それは、流れる時の一瞬を切り取って留めてくれるからだ。10代の頃に、図書館で「パリの街角」(たぶんそういう題名だったと思う)という写真集を見つけて、とても気に入った。おそらく1950年代のパリだろう。カフェに座って談笑する人々や、若い女性のクローズアップ、恋人たちと思しき二人連れの笑顔。街の一角にある八百屋さん、パン屋さん。あの時生きていた人たちが、ここに永遠に留められている。私が生まれる前に、その時代を生きて生活していた人たち。とても愛おしく思った。以来、人々の時を留めた写真集を見るのが好きである。

誰しも、留めておきたい瞬間を持っていると思うし、また逆に、忘れてしまいたい、できたら消しゴムで消してしまいたい過去もあるだろう。ああ、あの瞬間をもう一度やり直せたら、と思うこともあるだろう。そんな時、時間が戻ったらどんなにいいかと思ったりするかもしれない。私にも、あの時点に戻ってやり直せたらと思うこともなくはない。ただ、年の功なのか、事実は変わらないのだが、そう思うことは少なくなった。運命論者ではないが、自分の人生に起こったことや起こらなかったことを受け入れられるようになったというか。時間を遡らずに過去を変えることはできるのか。「神」の領域に属することに関しては、今のところは無理だ。ただ、限られた領域であるならば、過去を変えることはできるかもしれない。違う角度から観てみることによって、過去は変わりうる。これからも生きていく以上、後悔するだけではこれから流れていく時間が無駄になるだけだ。今ここから始めるしかない。エディット・ピアフに「わたしは後悔しない」という歌がある。数年前に仲間のコンサートで歌った時に、日本語に超意訳をしてみた。

 もう いいの、もう 過ぎたことは

 今が すべて ここが 始まりなの

 そう いいのよ 過ぎた日々は

 時の 背中に みんな 預けてきた

この「時の背中にみんな預けてきた」の下りは、ずいぶん考えた。過ぎ去ったことへの思いを込めた、原詞にはない創作だ。時間が今のところ一方向にしか流れず、私たちが物理的にその流れを遡れないのなら、想念で逆方向に時間を進めて過去に遭遇し、決着をつけてこちらに戻って、今を生きるしかないのだろうと思う。まだ、コンサートで「マイウェイ」を歌う心境ではないが、いつの日かその時が来るだろうか。