スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

人の温もりあるサービスが懐かしい

今週のお題「復活してほしいもの」

問い合わせしたいことがあって、あるところに電話した。呼び出し音のあと繋がる。話そうと思ったら、機械に吹き込んだ声が聞こえた。その声がいろいろ指示してくる。次のご用件のお客様は1番のボタンを、何々をお問い合わせの方は2番のボタンを、これこれしかじかは3番のボタンを、その他は4番のボタンを、などなど。ボタンを押すと、たいてい音楽が流れてきて、待たされる。直接聞きたいことだったので、しばらく待って、やっと電話の向こうに生身の人の声がした。電話サービスがこのような形になって久しい。

スーパーのレジも、自分でバーコードをスキャンして精算する機械が増えてきている。人のいるレジを利用している人もまだまだ多いが、やがては取って代わられていくかもしれない。こちらは日本と違って、客とレジ係の人が自然に話すこともある。孤独な老人も、買い物に行けば口をきく機会もあるだろうに、機械化はちょっと寂しい。

電車の切符も、窓口ではなくて、スマートフォンのアプリで買う人が増えた。また、そうせざるを得なくなってもいる。たとえば、駅の閉鎖。私が住んでいる町の駅の窓口がなくなってしまった。たぶん、人件費の問題だろう。電車が発着する駅はある。しかし、建物は貸店舗として使われている。閉めた代わりに、アプリの使い方説明会があったので、覗いてみた。私はすでにアプリを入れて、たまには使っているのだが、もっと深い説明があるのかと思って参加。見渡すと、参加者の大半は70過ぎの人たちのようだ。私の隣に座ったご婦人は、たぶん80歳を越しているようにお見受けした。お持ちのアイフォーンが新しいから、最近購入されたのだろう。説明を聞きながら、一生懸命画面をタッチしているのだが、どうもうまくいかないようだ。見かねて手伝って差し上げる。講師の説明は初歩的なものだったので、集中して聞かなくても大丈夫そうだ。老婦人は、助かったというように、画面に釘付けになっていた顔を上げて感謝してくれる。だいたい、タッチスクリーンというのは、年配世代には扱いが難しい。昔のメカニックのタイプライターは、タップに力を入れたのだ。スマホは、ちょっと触っただけですぐ勝手に動く。それに、画面が小さい。また、画面に出ている情報だけでなく、下にスクロールしていって初めて「次に」の指示が出てくる。少なくとも、わからなくなったときに聞ける子や孫がいる人はいいが、そうでない一人暮らしのお年寄りは、この時代を生きていくのは大変だ。

銀行もそう。最近、紙の収支報告には手数料いただくことになりました、との通知が来た。それだけでなく、昔は無料サービスだったものほとんどに手数料がかかるようなった。働く人は減らしているはずなのに、どこに余計なお金がかかるのだろう。銀行は、自分たちが赤字になりそうだったら、利用者へのサービスを削るか、手数料を値上げする。トップの給料を減らしたという話は聞かない。そもそも、銀行は何かを生産するのではなく、人のお金でお金を儲けているのだ。預かったお金があるからこそ利益も上げられるくせに利子もつけない。本来なら、お金を預けてくれる人にサービスしなければならないのでは?ああ、普通の庶民ではなくて、高額預金者には手厚いサービスをしているのかもしれないが。

何かを申し込むにも、コンピューターを使って自分で処理することが多くなった。わからないことが出てきても、ホームページに電話番号が書いてないこともあるから、簡単に聞くこともできない。メールで問い合わせするか、自分で調べなければならない。なんだか今の時代、お金を払っているのに、自分で手間暇かけて自分にサービスしているような気がしてくる。数年前のあるイギリス映画を思い出す。失業した年配の男性が仕事を探しに相談所に行くのだが、手続きはコンピューターでと言われる。彼は事務仕事をしたことがないので、やり方がよくわからない。それでも、相談受付はコンピューターのフォームで送ってから、ということで困り果てる。

それにしても、AIに取って代わられた従業員たちは、どこに行くのだろう?みんながみんな起業できるわけでもあるまいし。また、生活の全てをコンピューターに依存するようになった社会は脆弱だ。万一、電気の供給が止まれば社会活動も止まってしまう。ハッキングの危険とも隣り合わせだ。新しいバーチャルリアリティーが話題だが、人は自然の中で食物を生産して摂取し、それを消化してエネルギーに変えて生命活動している生物だということを忘れちゃならない。そして、人はリアルな人との関係性によって生きている存在だということも。