スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

静粛車両

今週のお題「復活してほしいもの」

すでにひとつ書いたのだが、復活してほしいものがもうひとつあった。

いつ頃までだったか、スイス連邦鉄道の長距離列車にRuhewagenというものがあった。日本語にすれば「静粛車両」とでも言えばいいだろうか。たとえば、8号車にそういう表示があったとしよう。それは「8号車では大きな声での会話や携帯の使用はお控えください」ということだ。最近は全く見かけない。もしかしたら、期間限定の試験的な試みだったのかもしれない。私としては、この車両を復活してほしい。

日本では、電車の中で携帯で話すのは控えるというのが常識になっている。ところが、スイスではそうではない。だから電車に乗ると、時には乗車してから降りるまでに、ひとつふたつの私生活の様子を聞かせてもらうはめになる。電話で話すときは、たいていの人は大声になるもの。全車両に声が響き渡るわけだ。ネタに行き詰まったハーレクイン小説家には、ヒントをもらうことありかもしれないけれど、はっきり言って普通人にはちょっと迷惑。真向かいや後ろの席で大声で喋られて、それでも本に集中できるほど修行も足りてない。

こちらに来たばかりの頃は、スイスの人たちの静かさが印象的だった。携帯などはもちろんなかったが、電車の中で大声で話している人はほとんどいなかったような気がする。ひとりで編み物をしている女性もしばしば目についた。人々のおしゃべりの声も控えめだったように思う。カフェの中も静かで、音楽もなく、話す人も小声だった。対して、私がいた頃の日本の街は、概して騒々しかったものだ。商店街ではいつも音楽、たいていは歌謡曲を流していたし、いつも何かしらの音がしていた。それで、そんな日本から来た私には、よけいスイスの街の静かさが印象的だったのかもしれない。

ついこの間のことだが、散歩のついでに夫と二人で小さなカフェに入った。午後のお茶の時間だからか、賑わっていた。幸い空いている席があったので座る。すると、後ろの方から、けたたましい笑い声が聞こえてきた。振り返ると、初老の男女が孫と思しき小さな子供の相手をしている。大声で何回も笑っているのは、その女性だった。孫も自宅の居間にいるように伸び伸びと動いている。祖父母は孫が可愛い一心なのだろう。自分の家だったら結構なことだが、カフェは公共の場所だ。静かにお茶を楽しみたい人もいる。子供たちに作法を教えるのは大人の役目だ。小さい時に躾けなくて、いつ躾けるのだろうか。大きくなってからではもう遅い。昔のスイスでは、他人の子供でも注意する大人がいたが、最近はあまり見かけない。

まだ「静粛車両」があった頃、大声で携帯電話で話している若い女性がいた。夫が注意すると、その女性は「なんか、うるさいおじさんに文句言われちゃって」と電話の相手に言いながら、こちらを睨む。あらら、お嬢さん、それはないでしょう。「この車両では携帯は使えませんよ」と注意を促しただけなのだが。こんな時は「あ、すみません、気がつかなくて」と答えるのが礼儀ですよ、と教えてあげたくなった。他の人のことも考えるというのは、社会の中の作法だと思う。

昔、幼稚園の先生から言われて面食らったのは、Ihr Sohn kann sich nicht wehrenという言葉だった。日本語に訳せば、あなたの息子は自己防衛ができない、とでも言おうか。違和感を感じたのはなぜか。人間にはもともと利己的な本能があるのだから、それを助長するのではなく、他の人のことも考えなさいと教えるのが躾けだと思っていたから。日本では、自己主張して争うのではなく「和」を重んじる。スイス人の親は、子供が自己防衛できると自慢する。この辺に関しては、2005年に出版されたマイヤー三四子さんの「スイス暮らし40年」にも、同じような体験が書かれている。

それにしても、こちらに暮らしていると、スイス的な考え方と日本的な考え方の双方を足して2で割ったらちょうどよくなるのになあ、と思うことが時々あるものだ。