スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

独裁者を生まないために

身辺が落ち着かなくて、ここしばらくブログから遠ざかっていた。コロナはまだ収束していない。しかし、オミクロンなどは感染力が強くても、軽症で済む人が多いらしく、人々は次第にこの状況に慣れつつある。ところが、今度は新たに、世界を揺るがす衝撃的なことが起こった。ウイルスではなくて、人が仕掛けた戦争である。

ウクライナにプーチンのロシア軍が侵攻して3週間以上になる。前々から緊張は伝えられていたが、一般人にはまさかの出来事だった。いくらなんでも、大国の大統領が隣国を一方的に攻撃するという暴挙に出るとは考えなかった人が大半だろう。これは侵略戦争だ。気に入らないからといって、相手を殴り倒す個人の喧嘩とはわけが違う。まさか、この21世紀のヨーロッパで、自分の思うようにならないからと言って、政治的・外交的解決の努力を放棄して、一国が他国を侵略するとは思いもよらなかった。専門家でも、そこまでの予測をした人はほとんどいなかったようだ。つまり、今回の暴挙は、まさかいくらなんでも!であり、合理的には説明できないものなのだ。プーチン側はいろいろ理由付けをしているが、どんな理由をもってしても、平和に暮らしていた人たちの国を突然爆撃し、戦車で蹂躙するなど許されざる行為である。ロシア軍がウクライナ国境に集結しだしてから、ニュースなどではこれが紛争に発展するかどうか、よく報道されてはいた。国境を守るウクライナの兵士たち、キーウの街の人たちへのインタビューもあった。あの時は、まだ美しいキーウの町並みの中で人々が生活していた。不安を感じながらも、冷静を保ってインタビューに答えていた人たち。オリンピックの観戦もしていただろう。それが、終わった途端の侵攻だ。週末を跨いで、ウクライナ人の生活は一変してしまった。インタビューやその時の町の様子を思い出すと、本当に胸が痛む。

なぜこんなことが起こってしまったのだろう。NATOだ、クリミアだ、大ロシア構想だ、米露の対立だ、などなど専門家はいろいろ見解を述べたてる。だが、私は、なぜここまで一国のトップが権力を一身に集中することができたのかが知りたい。なぜ冷血な人間が国の代表になれたのかが知りたい。すべては人間の頭の中、心の中から始まる。ある個人的な意図を持った人間が、着々と権力掌握へと歩を進める。この21世紀は皇帝たちの時代ではないから、たいていは選挙によって上り詰めると考えていいだろう。野望を持ちながらも、はじめは国民受けを狙った政策を掲げる。そして、選ばれたら、徐々に批判を封じる方向に向かっていく。利害関係が一致して迎合する人間たちで脇を固める。権力を掴むまでは、国民へ甘い餌を与えることも忘れない。揺るがざる頂点に上り詰めてからは、言論を弾圧し、刃向かったらどうなるかの恐怖を植え付けていく。選挙は行われても、反対派はすでに弾圧されているから、自分が勝つに決まっている。すでに、議会とは名ばかりで、権力者に都合のいい法律が次々と作られていく。独裁政治の完成である。20世紀に散々見てきたことだ。時代が進めば人間の意識も進化していくかと思いきや、この21世紀になっても、なくなるどころではない。

そうならないためには、どうすればいいのか。芽のうちに摘むことだ。選挙の時はよく考えて選ぶ。威勢のいいことを言っている人物には気をつける。熱狂には距離を置く。右とか左とかではなく、その人物が本当に国民のことを思っているのか、実は自分の利益と野心のために国民を利用しようとしているのか目を凝らして見つめる。そして、斜めに構えていないで、自分の投票権をきちんと行使する。ニュースにはリテラシーを持って接する。これがなかなか難しいのだが、ひとつのニュースを多角的に見るようにする。ニュースを伝えるジャーナリストに要求されることは、何よりも真実を伝えようとする姿勢である。日本ならば、憲法によって保障されている言論の自由を行使する気概だ。自ら萎縮すれば、どんどん追い詰められて行って、気がついたときには、すでに時遅し。言論の自由を保障する法律さえなくなっているかもしれない。その時に声を挙げても遅いのだ。というか、声さえ挙げられなくなっているのだ。今のロシアを見ればいい。ウクライナについて政府の見解と違うことを述べた人には、厳しい刑罰が待っている。国内の反対の声を見越して、そういう法律が議会で通ってしまった。戦争反対と言うことさえできない。そんな中で、ロシアの国営テレビのアナウンサーの後ろで抗議の声を挙げた編集者がいる。とてつもなく勇気のいることだ。あのような状況で、それができる人間は多くない。あとに続くジャーナリストや有名人がいるかどうかが、今後の鍵となるだろう。数は力である。ものすごい数の人たちが立ち上がれば、すべてを投獄することなどできなくなる。だが、そこまでになるには、たいへんなエネルギーが動かなければならない。今のロシアの状況では、それは並大抵のことではない。だから、選挙がある国ならば、独裁者が国を支配する前に、国民は目を見開いて政治家を選んでいかなければならないのだ。そして、そのためのジャーナリズムの果たす役割は大きい。それを改めて目の当たりに見せつけられた思いがする。

この侵略がもたらしたものは、ヨーロッパに住む者にとっては、第2次世界大戦以来の身近な戦争だ。プーチンは核の使用をも仄めかしているから、そうなれば、世界の滅亡にさえつながる。そうでなくても、この戦争によって、コロナで疲弊した世界経済はさらなる大打撃を受けている。一握りの人間たちによって我々の運命が握られているなんて、ほんとうに口惜しいことである。起こってしまった今、何ができるのか。世界の有力な人たちには全力を挙げて、プーチンを止めるために動いて欲しい。普通の人たちができることは何か。ウクライナの人々の窮状を救うための寄付、平和への働きかけの署名などなど。こちらでは、避難民の受け入れも続々と行われている。実際的な行動だけでなく、祈りの輪も広がっている。毎日同じ時間に、世界中の人たちが平和を願う祈りを捧げるというものだ。暴力は破滅しか生まない。一握りの狂信者たちの暴力によって、世界を滅びさせるわけにはいかないのだ。暴力の応酬と連鎖に与するには、人々の命はあまりにも惜しい。今も亡くなっていく人々を悼み、この理不尽な侵略が一日も早く終わるよう心から祈りを捧げる。