スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「もののけ姫」

チューリッヒ市立映画館を会場に「もののけ姫」の上映会があった。言わずと知れた宮崎駿監督のアニメーションである。1997年に作られた映画だから、今から25年前の作品になる。当時、少しのタイムラグはあったが、スイスでも公開された。その後ビデオなども発売されているが、今30歳以下の若い人たちで、この作品を映画館で観た人はほとんどいないだろう。やはり、この映画は大きいスクリーンで観たい。上映会には、学生さんなどの若い人たちの姿が目立った。

宮崎駿氏の作品にはいつも深いメッセージがあるが、この「もののけ姫」のテーマはことさらだ。人間文明と自然の共存は可能なのか、可能にするための方策はあるのか。人類が行ってきた環境破壊の結果が、21世紀になって顕著になってきた。このアニメ作品は、時代的には日本の中世を舞台にしているが、問うているのは現在の人類のあり方である。息つく間も与えずに、戦いの場面が展開していく。そういう意味では、「となりのトトロ」とは違って、小さい子供向きのアニメではない。私の好みから言えば、暴力的な描写がちょっと多いのだが、しかし考えてみれば、人類の歴史は戦いの連続だった。今現在も悲惨な戦争が行なわれている。プーチンのロシアが仕掛けたウクライナでの戦争は、許されざる行為だ。古い考えに固執した冷血な独裁者の姿を見る。そして、まかり間違えば人類全体に取り返しのつかない破壊をもたらしかねない。同時に、現代の戦争は最大の地球環境破壊でもある。

「もののけ姫」には、3人の象徴的な登場人物が配されている。アシタカ、もののけ姫、そしてエボシ。私の解釈では、もののけ姫は自然を象徴し、エボシは人類の文明と今までの意識、アシタカはこれからの人類が取るべき道と未来への希望だ。

人類は、エボシのように森を切り開き、動物たちを滅ぼしてきた。この物語は、善悪を描いているのではない。もののけ姫にもエボシにも、それぞれの立場がある。もののけ姫は、人の子でありながら、生贄として森に捨てられ、山犬に拾われて育てられる。そして、完全に自然と同化して育った。エボシは、人間が生きるために、森のそばの村にタタラ場を作り、鉄を生産している。けっして冷酷な女性ではない。売られた貧しい女性たちを引き取って、タタラ場という働く場所を与えているわけだ。だが、彼女は、自然を征服すべきものと考えている。もののけ姫は、自分も動物たちの一員として、森を切り開いて動物たちの生きる場を奪っていくエボシを憎しみ、闘いを挑む。エボシは、シシ神に象徴される自然の不思議な力を信じていない。ゆえに、不老不死の力を持つシシ神の首を奪う先頭に立つ。だが、エボシは権力に騙されている。朝廷の権力者は、エボシを利用して首を取らせた後には、タタラ場を自分の配下に置く目論見で、村を襲うのだ。

アシタカは、北東の地に住んでいた。ある日、人間によって満身創痍の身で森を追われ、祟り神になった動物に襲われて腕に深い傷を負う。その傷はやがて全身に広がり故郷の村に祟りを及ぼすという。それを厭い、癒しを求めて旅に出る。答えは西の地にあるという。そして、やがてエボシのタタラ場に行き着く。その地で、もののけ姫とエボシとの出会いがある。アシタカは、どちらの側の者も助けようとする。彼にとっては、共に生きることが大切なのだ。白か黒かではない。命を与え、癒し、また時が来れば奪う森のシシ神のもとで、自然と人間たちが共に生きる道を探す。ある理想があるとしよう。それを初めから「できない」と諦めるのではなく、「では、どうすればできるのか」と問う。できる道を探そうとする。探さなければ見つからないだろう。アシタカに「求道」の姿勢を見た。

久しぶりに見返した「もののけ姫」は、とても面白かったし、いろいろ考える機会をもらった。

 

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