スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

和顔愛語

最近のことだが、ある人と人間関係や今の社会について話していて、ふと「和顔愛語」という言葉が頭に浮かんだ。これは、仏教で使われる言葉である。

もうずいぶん前のことになるが、ある日本人のお友達が言っていた。彼女の娘さんが「ママ、どうして人と会ったときに、理由もないのにニコニコするの」と聞くのだという。言われてみれば、我々の世代は、人と接するときには感じの良い顔をするように教わってきた。娘さんの父親はスイス人で、彼女はスイス生まれのスイス育ち。こちらの人を見ると、たしかに理由もなくニコニコはしていないかもしれない。今はもう気にならなくなったし、こちらの人の表情もすっかり読み取れるようになっているが、来たばかりの頃は、厳しい印象を受けた。

こちらでは、日本は「微笑みの国」とも言われてきた。日本人は、たしかにこちらの人に比べて、人と接するときに微笑むことは多かったかもしれない。息子がほんの小さかった頃、面白いことを言った。バギーに乗せて散歩していたときのことだ。「あ、あの人、日本人」と、ある人を指差す。でも、その人は、明らかにスイスの人だ。「どうして?」と聞くと、「ニコニコしているから」と、答える。彼の頭の中には、そうやって何人かのカテゴリー分けができていたのだろう。赤ちゃんのときから日本を知っている彼なりの見解だったわけだ。

日本社会もだんだん余裕がなくなってきて、人の表情も変わってきただろうか。欧米風の考え方も広がって、ほんわか感が薄れてきたところもあるかもしれない。今度行くときは、その辺をよく観察してみよう。感じのいい顔で人に接する「和顔」の心がけは、社会の潤滑油としてなくなってほしくないものだ。

また、「愛語」とは、優しい言葉、親しみのある心のこもった言葉、人々に対する慈しみの心から発せられた言葉だという。こちらに暮らしていると、自分を守るための言葉をよく聞くような気がする。欧米社会は自己主張し合う社会だが、ツイッターなどを見ている限り、日本も自己主張のネガティブな意味において、そうなっていっているのかと思ったりもする。それは残念なことだ。きちんと自分の考えを言うことと、相手の立場を思いやる「愛語」は矛盾するものではない。大切にしたい言葉だ。

とんでもない戦争が起きてしまって、世界の先行きに暗い気持ちを持ちがちになる日々だ。人間の業についても考えてしまう。「業」というのも仏教で使われる言葉だ。人が自分の主張ばかり通そうとするところに争いが起こる。けっきょくは戦争もそうだ。自分の縄張りを広げようとして侵略する。権力を持った者たちの利己意識から戦争が始まる。ウクライナでの戦争を機に、日本でも国防の意識が物理的な力へと傾く傾向が強くなっているようだ。でも、それは本当の解決策なのだろうか。ともに破滅する道ではないのか。

日本人の心には、無意識に仏教の言葉が入っている。いろいろな習慣も仏教に根ざしたものが多い。仏教は宗教というよりも、むしろより善く生きるための知恵として、我々に深く根を下ろしているようだ 。この先行き不透明な時代にこそ、日本人の身近にあり続けた仏教の知恵に、今一度思いを致してみたい。