スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

選挙について考えてみる

日本では、今週の日曜日はとても大事な日である。参議院選挙の投開票日だ。日本のこれからの命運を決する日と言ってもいいだろう。今回の選挙の後は、3年間国政選挙は行われないという。衆議院選挙は4年ごと、参議院選挙は3年ごとだから、確かにそうだ。衆議院選挙は、解散があれば4年を待たずにあるが、与党が安定多数を取れば解散はしないだろう。ということは、今回の選挙結果の与野党勢力図が、少なくとも3年は続くということである。与党にとっては、やりたい放題ということもあり得る。

民主主義の国には選挙がある。選ばれた議員たちが、国民を代表して国の運営をしていく仕組みだ。日本は間接民主制だから、国民は選挙の時しか声を挙げることができない。議員の仕事は法律を作ることだが、国会では多数決ですべてが決まる。ということは、下手をすると、選挙で多数を取った党が好きなように法律を作れるということだ。今までの政権与党のやり方を見ていると、国民のためというより、自分たちの都合第一で国を動かしてきたように見える。

ここスイスは直接民主制だから、選挙以外にも国政に国民の声を届ける機会がある。議会で通った法律に不服な場合は、5万筆集めてレファレンダムを提出し、国民投票にかけて賛否を問うことができる。また、新しい法律を望む場合は、10万筆集めてイニシアティブとして国民投票で提案することができる。それに、政府に与党も野党もない。主要4党から閣僚が入るのだ。つまり国民は、政治には自分たちの声が反映されるのだという感覚がある。

そういう意味でも、数年に一度しか国民が政治に関与できない日本での選挙の意味は大きい。だが、最近は毎回投票率が低いのだという。誠に残念なことだ。政治が生活と直結しているという意識があまりないのかもしれない。極端に言えば、政治に関心がないという人は、自分たちの生活がどうなろうがかまわないということだ。政治には自分たちの現在と未来の人生がかかっているとも言える。たとえば、どんなに将来に夢を描いていたとしても、国が戦争の道を選べば、動員されるし個人の生活はなくなる。まさに戦前がそうだった。

戦前の日本では、選挙権が制限されていたから、一部の人の意見しか政治に反映されなかった。特に女性には選挙権がなかった。男たちが決めた法律に従うしかなかったのだ。どんなにたくさんの母たちが涙を飲んで息子を戦場に送ったことだろう。だが、今の日本は違う。女性たちは声を挙げることができる。それなのに、選挙にも行かないというのは勿体無いを通り越して、無責任とも言えるだろう。未来の子供達への責任を果たさないということだから。各政党の政策もインターネットなどで調べやすくなっているし、街頭演説で肉声も聞ける。投票所だって自分の住んでいる地域にあるわけだ。

与党は政権を維持するために、選挙前はいかにも耳障りの良いことを言う。国民は、いわゆる公約よりも、今までやってきたことをこそ見なければならない。どんなに約束を反故にしてきたか、自分たちの利害のために立ち回ってきたかなど、投票の前にじっくりと思い起こす必要がある。野党にもいろいろあるから、よく目を見開いて判断するのが賢明だ。試金石は、誠実な候補者かどうか、国民のために役立ちたいから立候補したのかどうか。この20数年で凋落していった日本を救う行動ができる人なのかどうか。与党候補の場合は、個人的に誠実そうでも気をつけなければならない。その人を選んでも、けっきょくは採決の際の駒でしかなくなるからだ。党議拘束があるから、与党の上の方の意思に従うだけの人形になってしまうのだ。そんな人に一票を投じても、自分の声を託すことにはならない。議員でいたいがために立候補しているだけだから、あなたのために何かしてくれるわけではない。当選すれば選んでくれた人のことなど忘れて、「先生」の座に胡座をかくだけだ。

今回の選挙で一番危惧されるのは、改憲野党も合わせて改憲勢力が3分の2を占めるかどうかである。憲法9条の影に隠れているが、基本的人権の保障がもっとも大事だ。それが危うくなるのが緊急事態条項。これは打ち出の小槌で、これを手に入れれば政府は何でもできる。それは歴史を見れば明白だし、今も世界の独裁国家を見ればわかることだ。日本の現状では、数さえ手に入れれば問答無用で法律を通すぞという与党の心意気?は、この10年が示している。

とにかく、若い人ならば自分の将来のために、年配の人ならば子孫のために、必ず選挙に行って適切な人を選ぶことが肝要である。