スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

SFとファンタジー

今週のお題「SFといえば」

SFとかファンタジーとか、けっこう好きだ。

SFは、サイエンスフィクションの略だから、一応は科学的裏付けのあるフィクションと言える。昔は、カタカナ英語ではなくて、日本語で空想科学小説と呼ばれていたように思う。わからないながらも、科学的なことに興味があった私の本棚には、日本から折に触れて持ってきたブルーバックス系の本が数十冊並んでいる。 まあ、入門書の類だが、大まかな科学的知見を得るには分かりやすくて役にたつ。丸善エンサイクロペディアという大百科も昔々担いできた。科学的知識と論理的思考は大事だと思っている。

一方、ファンタジーは、日本語で言えば空想とか夢想とか幻想とかになる。論理的思考からは自由だ。こちらも好きで、子供の頃はお伽話を読んでは、よく空想に耽っていた。数年前に小学校の友達に会った時に、私の方ではすっかり忘れていたエピソードを話してくれた。彼女とは毎日一緒に学校から帰ったものだが、その道々よくあなたが作ったお話を聞かせてもらったのよ、と言う。そして、「じゃ、次は〇〇ちゃんの番ね」と振られて困ったのだそうだ。たしかに、親戚の家に遊びに行っても、大人たちが話している部屋の隅で、親戚のお姉さんの裁縫箱のボタンを貸してもらって、色取り取りのボタンたちのお伽話を作っては遊んでいた。今もファンタジーのお話を考えるのは好きである。

SFと言えば、私の中では、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークの名前が浮かぶ。アイザック・アシモフは生化学者でもある。アーサー・C・クラークは「2001年宇宙の旅」の作者で、スタンリー・キューブリックと一緒に映画を作っている。この映画は、映画史に残る名作となった。ヨハン・シュトラウスの音楽と映像との組み合わせが美しく印象的だった。小説の方は映画製作とリンクさせながら書かれたのだという。ジョージ・オーウェルの作品もSFのジャンルに入るだろうか。彼の「1984」は、ディストピア小説と呼ばれ、あまりにも有名だ。まるで予言のように、ある意味、現代の社会が彼の小説の世界に近づいて行っているようで、薄気味悪い。

日本では、大御所として小松左京や筒井康隆がいる。小松左京の「復活の日」「日本沈没」は映画化されている。「復活の日」は、若かりし頃の草刈正雄がなかなか素敵だった。1980年の作品だ。「日本沈没」は2本作られているが、草なぎ剛出演の映画を観た。この作品で、私は優れた役者としての彼を知った。「日本沈没」は最近ドラマ化されたらしく、ネットフリックスでも観られるが、今はどうも観る気になれない。このところの様々な環境問題を目の当たりにすると、現実感がある分だけ、娯楽として受け取るには重たい気持ちになりそうな予感がして。今ちょうど思い出したのだが、そういう意味では、2004年のアメリカ映画「デイ・アフター・トゥモロー」も、2022年になっていっそう現実感を持って迫ってくる。

ところで、筒井康隆の「時をかける少女」は、1983年に原田知世主演で映画化されて好評だった。その後、2006年にはアニメも作られた。アニメといえば、最近「シュタインズ・ゲート」という次元を超えて展開するシリーズを観た。この作品も「時をかける少女」も、SFファンタジーに入るだろう。「シュタインズ・ゲート」は、たまたまのことで知って観たのだが、「世界線」という作者のアイデア、そしてそれを変えれば過去を変えうる、という発想が斬新で面白かった。

時や次元を超えて行き来するというのは、SFでもファンタジーでも扱われる魅力的なテーマである。カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」を読んだが、本当に時間の本質は掴みどころがない。記憶と時間の関係も興味深い。最近、あちらこちらで私は「時の欠片」を拾っている。

Time Gate (cosmosnomado)