スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

映画「EN CORPS」を見て思ったこと

先日、タイトルの映画を観た。セドリック・クラビッシュ監督、パリ・オペラ座バレエ団のマリオン・バルボー主演の今年封切られたフランス映画。とても良かった。ごくごく簡単にストーリーを要約すると、クラシックのバレリーナが、足を挫いたことをきっかけに、コンテンポラリーダンスに目覚めていく話。亡き母は、彼女の小さい時からの夢に伴走した。時々、その映像がフラッシュバックで差し込まれる。母亡き後の父親との関係や家族の物語、彼女の恋愛も交えて話は展開する。

だが、何よりも私が魅了されたのは、映画の中のかなりの時間を占めるダンスのシーン。躍動する肉体に生命力が漲り、圧倒される。映画のタイトルを直訳すると、肉体の中に、と言うことになる。肉体の中に宿っているエネルギーの力、躍動感、生きる喜びの発散が、見る者を捉える。限りある時間に、この肉体があることの喜び。限りある時間。いみじくも、父親が主人公の彼女に「どうして、一生続けられる職業を選ばないのだ」と問う。「人は、誰でも年取っていくのだぞ。なぜそんな若い時だけの仕事に賭けられるのだ」と、そんなふうに。だが、彼女は幼い頃から踊る人生を歩んできたし、母もそれを応援した。というか、もしかしたら、母の夢だったのかもしれない。自分の叶わなかった夢を子に託すというのは、よくあることだ。年取った時のためということで、今の若さが導く道を諦めたくはない。主人公はそう考える。私は、そう解釈した。人の一生は、今の積み重ねだ。若い時に老い先の心配をしても、人生がずっと続くとは限らない。今を逃したらもう後がないこともある。その最たるものが、肉体を使う事柄だ。それは、自ら老いてみて実感するものだろう。ただ、人生の刹那の時期にしか輝かないと見えることでも、本当に好きで続けていれば、何かしら道は開けるものだ。若さが促すものに蓋をしては、老いて悔いが残る。肉体の中にあるエネルギーに道を与えて精進すれば、必ず何かしらの形が見えてくるのではないか。この映画の主人公は、決して悔いることはないだろう。

映画の中で、若さの持つエネルギーと生きる喜びの発露を感じながら、同時に胸に去来したのは、今の世界と戦争だ。人は、赤ん坊から子供になり若者になる。子供を育ててわかるのは、生物は生きることが至上命令ということだ。生まれた命のベクトルは、寿命が尽きるまで生きる方向に向いている。寿命は「神」の手にあるが、それを、神ならぬ人間が奪うことなど許されない。人類の歴史は、残念ながら戦争の歴史でもある。そして、戦争は「我々」を守るためという錦の御旗を掲げながら、常に一部の権力者の特権を守るために始まる。特に、独裁者はその論理の摺り替えに巧みだ。自らとその一族はけっして戦いの地に赴くことはなく、常に他人を送る。まずは、若者を戦争の餌食にする。

今のウクライナの戦争もそうだ。ロシアの立場だ、ウクライナの立場だ、と様々に言う人たちはいるが、実際は、戦争で死にたい若者などはいないはずだ。どんな難局でも、外交で解決できないならば、政治家失格である。自らを皇帝か何かと勘違いして妄想の世界に生きている者どもに政治を司る資格などない。だが、民衆が気がついた時にはもう遅い。恐怖政治がしっかり敷かれているからだ。ロシアでは、いよいよ徴兵が始まった。しばらく前に、フィギュアスケートで有名な選手が徴兵されたというニュースを読んだ。心が締め付けられる思いだ。彼は、他人のために、人を殺し殺されるために生まれて来たのではない。彼が演じる肉体の躍動で他の人をも魅了するために、今ここにいるのだ。

世界中に溢れる理不尽さ。最近は、何を見ても人の生き死にへの思いが頭を離れない。