スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「古い・新しい」について考えてみる

新しい年が始まって半月あまり経つと、すっかり2023年という呼び方にも慣れてきて、2022年という言葉は、何となく古めいた感じを帯びてくる。時間が前に進むとすれば、過ぎ去った時間はどんどん後ろに消えていってしまうわけだ。イタリアの物理学者、カルロ・ロヴェッリの本に「時間は存在しない」というのがあるが、それについて語ると長くなるので、ここではそれはさておいて。。。

ところで、新発売、最新の何々、新しい流行、などなど、世間では新しいものが出ると持て囃されるようである。見ていて思うのだが、日本人は意外と新し物好きかもしれない。日本には、もちろん古い伝統も残っているが、先端的な事柄も多い。

特に東京などの大都市はどんどん新しくなっていく。それは、こちらスイスとは大きな違いだ。たとえば、一番大きな街チューリッヒには、旧市街がしっかりと残っている。中世/近世の街並みを守るための厳しい建築基準があって、内装は変わっても、外観は昔のままに保存されているのだ。他の町々も同じである。それはスイスだけでなく、ヨーロッパ全体に言えることだろう。ドイツのドレスデンなどは、第二次世界大戦の爆撃で中心部は壊滅したが、以前のように復元復興された。ヨーロッパの町には、たいてい旧市街と呼ばれる地域があって、昔の建物や街並みのまま今の生活が続いている。

何でも新しいものに飛びつく人もいるが、新しいからいいとは限らない。第一、新しいとか古いとかは、価値を測る基準じゃなくて、ただの時間軸の違いだ。けれど、である。「あなたの考えは古い」という言葉が、相手に止めを刺すこともあるらしい。昔、もう20数年前のことになるだろうか。ある新聞記事のことを今も覚えている。そのころヒット作を出した比較的若手の映画監督へのインタビューだった。お歴々のところへ企画を持っていって難色を示された時の殺し文句が、「それ、もう古いですよ」なのだそうだ。すると、みんな反論できなくなってしまうというような話だった。誰も古臭い人というレッテルは貼られたくないからだろう。なるほどね、と思った。ふと、その監督は今頃どうしているだろうと考える。わりと寡作な映像作家で、あまり新作の話を聞かない。彼も年を取って、今の若い人たちを相手に何を語るのだろうか。20年、30年なんてあっという間、若くてもすぐに年を取っていく。若いことは素晴らしいし、早く年取りたいと思う人も少ないだろうが、若いか年寄りかの価値に差はない。なぜ今こんなことを思ったかというと、である。最近、ある界隈で有能な経済学者と持て囃されている人が、高齢者をお荷物のように言ったという話を聞いたから。自分が直接聞いた一次情報ではないので、彼が言ったというもっと過激な発言は、ここでは書かないが。それにしても、今は若きその学者も、あっという間に歳を重ねてはいくのだけれど。

保守という言葉がある。長年の政治的イメージから、封建的な匂いもする。対する革新は、新しい理想に向かっていくイメージのようだ。ところが、最近面白い本を読んだ。中島岳志氏の「リベラル保守宣言」。「俗流保守にも教条的な左翼にも馴染めないあなたへ。『リベラル保守』こそが共生の鍵だ」という謳い文句だった。本当の保守というのは、人間を理想化していないので、急激な改革をせずに、一歩一歩検証しながら前に進んでいこうという立場なのだそうだ。そういえば、ここ20数年の日本を見ていると、保守を標榜する自民党が「構造改革」や「異次元緩和」という過激なやり方で日本を変えてしまった。名前と本質のチグハグ感が半端じゃない。あれは何だったのだろう。

「古い・新しい」そのものは、ただ時間軸の位置から見ての表現だが、それが形容する物や事によって、ある意味が持たれたり、価値を帯びてきたりするのだと思う。ついこの間、ひとつの年が去って古くなり、また新しい年がやってきたので、考えてみたことであった。