スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「花いちもんめ」の無邪気な残酷

久しぶりにツイッターを見ていたら、「花いちもんめ」について投稿している人がいた。「花いちもんめ」、今はもうそんな遊びはないだろう。その人も子供時代の思い出のようだった。フォローしている人ではなかったのだけれど、たまたまタイムラインにつぶやきが載ってて共感した。小学生の時に担任からクラス全員で花いちもんめで遊びなさいと言われて、翌日はボイコットしたと。人気のある子は喜んでやったけど、いつも最後まで残る子がいて、寂しそうでかわいそうだったからと。

読んでいて昔を思い出した。子供たちが二組に別れて、相手の組から子供を取っていく。たしか歌詞は、こんなだったと思う。「勝ってうれしいはないちもんめ 負けてくやしいはないちもんめ あの子がほしい あの子じゃ分からん その子がほしい その子じゃ分からん。。。」 「花いちもんめ」は、人気者にはいいけれど、確かに、なかなか「あの子が欲しい」と言われない子には辛いものがあったなあと、残り組だった私も思う。

除け者になった経験を重ねた子と、人気者だった子の差は、その後の人生にもけっこう影響する。いじめと一口に言うけれど、積極的ないじめだけではなくて、仲間に入れてもらえない、無視されるといういじめもある。そんな中で、毎日学校に通うのは辛いものだ。たとえば、ウチの息子の場合がそうだった。ちょうどたまたまそのクラスは、マッチョな男子が何人かいて牛耳っていた。他のクラスと違って、男女が一緒に遊ぶこともなく、男の子はもっぱらサッカーばかり。親なども、男の子はサッカーのようなスポーツをするべき、男子たるものむしろ乱暴なくらいが活発でいいという風潮だった。ウチの子は、休み時間はサッカーよりも追いかけっこだったり、地面の虫や草を観察してる方が好きな子だったから、当然浮いてくる。それに、自己防衛というか、やられたらやり返せという考え方が当たり前の中では、ボクは暴力でやり返したくない、だって相手も痛いでしょ、話せばいいじゃないと言うような子は、やはり異質だった。ある男子が、更衣室のドアをバンと閉めて、息子の指が挟まった時も、「あの子が悪いんじゃないの。ボクの手に気づかなかったの」と言って庇う子だ。本来の気質が受け入れられない中で、生来はあんなに明るかった子の目に翳りが出てきた。ある日、目に涙をいっぱい溜めて「ボクって変な子なの?」と私に聞いてくる。自分が仲間はずれになっているのは嫌でもわかる。「ううん、そんなことないよ。みんなと違っているからって、変だということはないの。それに、100人いて99人が間違っていることだってあるのだから、変かどうかは数の多さで決まるものじゃないよ」と答えたが、みんなと違う、独りぼっちという感覚は相当に辛かったろう。母親としても眠れぬ夜を過ごす状況のなかで、どうしたら道が開けるかと思案の日々。そして、ある事件が起こり、夫と共に大きな一歩を踏み出した。先生とも相談したが、彼も人生の関心が他に向いていた時期だったと拝察する。ちょっと対策が失敗して、かえって前より状況が悪くなってしまった。吹いている風向きを変えることは難しいものだ。結局は、子供を置く環境を変えるしかなかった。それから、親子の新しい旅立ちが始まったのだ。振り返れば、一冊の本にだってなるくらいいろいろなことがあった。

こちらにはsich wehrenという、よく使われる言葉がある。自分を守ると言う意味だが、使われているニュアンスとしては、やられたらやり返せという感じか。母親たちが、ウチの子は sich wehrenできるのよと自慢げに言うのをよく聞いた。たしかに、きちんと自分を守ることは大事だ。けれども、自分を守ろうとするのは動物の本能、条件反射的なそれをわざわざ伸ばすことはない。人間には考える力と言葉があるのだから、子供たちには争わない解決の仕方を教えるのがいい。たとえ教えても、子供は本能に従うだろう。それも自然だ。けれども、理想を教えるのと教えないのには違いがある。それが本来の教育の姿だと思う。また、学校で何かペアやグループを作る時、好きな子と組みなさいというのは安易すぎる。そのクラスに集まったのも何かの縁、いろんな子と一緒に作業することで、子供たちは自分とは違うタイプの人間がいること、社会での他者との共生共存の仕方を学んでいくのではないか。そう言う意味では、私立のエリート校に行った人たちは、気をつけて外を見ないと世界が狭くなるかもしれない。

ひとつの「花いちもんめ」のツイートをきっかけに、いろいろと思い出が蘇ってきた。ある意味、脳内世界は面白い。