今週のお題「思い出の先生」
今までの人生で様々な先生に出会ってきた。だが、思い出の先生を一人挙げるとすれば、ここスイスで出会ったドイツ語の先生、フラウ・シャイビッツである。このフラウ (Frau) は元々女性を意味し、女性の苗字に付ける敬称で、男性の場合は、同様の意味で Herr になる。シャイビッツ先生は、私のドイツ語力への最初の道を開いてくれた人だ。
スイスに来た年に、まずは言葉からということでドイツ語学校に行った。当時は、英語の出来るスイス人はあまりいなかったから、コミュニケーションを取るためにはドイツ語が必須だった。今考えれば、それは当然のこと。郷に入れば郷に従えというが、その土地に行った者がそこの文化に合わせなければならない。当時のスイスの義務教育には英語の授業がなくて、ドイツ語圏の外国語学習はフランス語だった。最初にたまたま選んだ語学学校の先生は、ロッティというスイス人の女性の先生。その年の夏はスイスでは例外的な暑さで、今も思い出すとふっとその空気と夏の雰囲気が蘇る。イギリス人のロバートという生徒が、学校に冷房がなくて困るとロッティ先生に訴えていたのも妙に覚えている。先生の白地に赤い水玉模様のスカートが日光に当たって透けて見えて、ペチコートを履いてないのに驚いたことも。私が居た当時の日本の女性達は、夏でもストッキングを履いて、スカートには透けないようにたいていペチコートが付いていたから。今でも、そんな彼女とロバートの顔立ちや遣り取りを覚えているのだから、記憶というのは面白い。その学校には何ヶ月くらい通ったろうか。
やがて、本格的にドイツを習得することを決意して、学校探しが始まる。そして、誰もが勧めるゲーテ学院との提携校が見つかった。そこは、通訳・翻訳家を目指す学生達が、大学入学資格を取ったあとに勉学する専門家養成学校で、外国人のためのドイツ語コースも併設していた。言ってみれば、外国語習得の専門校である。私は、そこの初級IIのコースに編入、その担任がシャイビッツ先生だった。彼女はベルリン出身のドイツ人で、まずはスイス人のロッティ先生から習った発音を矯正しなければならなかった。Rの発音の仕方である。例えば、WIR(我々)をヴィル、ER(彼)をエルとロッティ先生はスイス式に発音していたが、それをヴィア、エアに直す。ハイジャーマンではそれが正式な発音である。シャイビッツ先生は厳しいが教え方が上手だった。こうして毎朝学校に通い、午後は週三日ほど土産物店のパートで働く生活が始まった。
シャイビッツ先生は、謎の多い中年の女性であった。当時はまだベルリンの壁があった時代。彼女は第三帝国崩壊の前年に生まれている。どういう思いで戦後ドイツの大変な時代を過ごしてきたのだろう。そして、どういう経緯でスイスに来たのだろうか。あまり自分のことを語ることはなかったが、背景に複雑な事情があるようには感じた。彼女は独身で、語学教育に人生を捧げていた印象が強い。ちょっと感情の起伏が大きい人で、教室に入ってくるなり「ああ、眠れない、眠れない、どうしたらいい?」と言って机につっぷしたり、ディスカッションの時間には興奮気味に話すことも多かった。意見が違うと、ドイツ語のレベルでは自分に敵わない生徒相手に、Ne, ne, ne (neinの意味)とムキになって反論することもあった。とにかくシャイビッツ先生は議論好きだった。授業中の活発な討論が思い出される。我々日本人とは違って、ドイツ語のレベルはまだまだでも、こちらの生徒達はしっかり自分の考えを主張する。印象深い場面も幾つかあった。アフリカの何処の人だったかは覚えていないが、彼女はアルベルト・シュヴァイツァー医師を痛烈に批判。シュヴァイツアー氏は20世紀のヒューマニストとして知られ、アフリカで医療と伝道活動を行った。彼女は、西洋医学の持ち込みと伝道によって自分たちの間で受け継がれてきた文化が壊されたと非難した。そこでどういう議論の展開になったかは覚えていないが、アフリカ出身の生徒の怒りの感情はしっかり伝わってきた。それから、たしかトルコの女の子だったと思うが、いつもスカーフを深く被っている生徒がいた。クラスでは、イスラムにおける女性の被り物の議論になった。彼女がスカーフを被り出したのは最近のことで、友達の影響が強かったらしい。女性はその美しさを隠さなければならないと彼女が言った時はちょっと違和感を感じた。皆まだまだ拙い表現力と聴解力だったから、あまり深くは立ち入れなくて残念だったが、シャイビッツ先生が興奮気味に意見を述べていたのを覚えている。イスラム過激派が台頭する前の話だ。トルコからは一組の夫婦もいた。シャイビッツ先生は、この同年代の二人に親近感を覚えていたようだ。ふっとそんなことも思い出される。とにかくクラスには、東欧から来た人や様々な事情を抱えている生徒達がいて、ドイツ語以外にも学ぶことが多かった。そんなクラスを統合していたのが、シャイビッツ先生だ。
彼女の元で中級まで学んで上級は別の先生になったが、シャイビッツ先生の時の学びの方が豊かだったと思う。上級を終えてドイツ語で仕事をするようになってから、今度は上級のその上のディプロムを取るために、半年ほど夜のコースに通ったけれども、その先生と比べてもシャイビッツ先生の教え方の方がずっとうまかった。言葉を習得した後になれば、どういう経緯を辿って身に付けていったのかはもう定かではないが、うまい具合に導いて基礎をしっかり築いてくれたのだろう。
10年くらい前だったろうか。偶然にもシャイビッツ先生の同僚だった人から、彼女がすでに亡くなっていることを聞いた。自宅の居間でワイングラス片手に倒れていたのだという。心臓発作か脳出血だったのかもしれない。彼女は生涯独りだったようだ。ドイツ語教師の仕事が彼女の天職、つまり真の意味でのBerufだったのだ。生徒達に全力でドイツ語を教え、その毎日の交流が生きがいだったのだと思う。良き先生に出会ったことに感謝している。