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紅葉世代の異文化通信

「山猫」映画とネットフリックスシリーズの観比べ

最近、ネットフリックスの「山猫」を観た。観始めて辞められなくなったら困るので、初めはちょっと躊躇していた。ネットフリックスを契約しているけれど、あまり観る時間がない。で、高くなったことだし、解約も考えているところだ。さすがネットフリックスはドラマ作りの肝を心得ていて、シリーズものは必ず次を観たくなるように話の展開を持っていく。だから、面白いドラマには嵌ってしまう。途中で観なくなったものもあるけれども、嵌ってしまうと一気に観たくなって睡眠時間が削られる。それで、夜に時間があって何か観たくなったときは、なるべく単発の映画を選ぶようにはしている。「山猫」はドラマシリーズだけれど、ヴィスコンティの映画のことが頭にあったので観てみた。6回ものだ。観終わっての感想を一言で言うと、なかなか面白かった。じつは、映画の方はまだ観ていなかった。もちろん、ヴィスコンティ作品については多く語られているから知ってはいた。そして、ネットフリックスの「山猫」を観た後に、1963年の映画の方も観てみたくなって、インターネットでビデオレンタルして視聴する。バート・ランカスターのサリーナ公爵とアラン・ドロンのタンクレーディがどんな感じだったかと気になったから。やはり単発の映画とシリーズものは、同じ原作でも話の展開や演出の仕方が違うなと思った。以下は見比べて大きな違いを感じた点である。

両方とも、シチリアの名門貴族出身のランペドゥーザの小説を原作としている。1861年のイタリア統一戦争の1年前から始まり、1910年までのシチリアの最名門貴族サリーナ公爵家の歴史を描いた小説だという。映像化作品の方は、時代的には主人公のサリーナ公爵の死までを描いている。正確に言えば、映画の方は、やがて訪れる死の暗示までだった。この話の主流に流れるのは、主人公のサリーナ公爵の生き方である。時代の変化に翻弄されながらも、公爵家の存続のために変化を受け入れていく姿。「変わらずに生き残っていくためには、変わらなければならない」という言葉は、ずいぶん昔に聞いたことがあった。もしかしたら、キャッチフレーズだったのかもしれない。映画の方には、一字一句同じではないが、その旨のセリフがあった。ネットフリックスの方にも、たぶん似たような言葉があったのだろう。これが、つまりはこの話の要点だから。ネットフリックスのドラマは、6回シリーズなのでストーリーの描写に余裕があり、最終回では、公爵の死後サリーナ家が辿る道の暗示がなされている。映画の方には、具体的にはそれはない。映画は長いと言っても161分。もともとは181分のフィルムだったが、長すぎると言うことで編集されたのだという。私が観たのは編集版の方だ。

一番の大きな違いは、娘コンチェッタの描き方である。シリーズの方は、彼女を副主人公に位置付けている。だからこそ、父亡き後に彼女が弟を補佐して公爵家の中核になっていくであろうと予感させる。原作は読んでいないので、実際はどう展開していくのかはわからないけれど。シリーズでは、コンチェッタは父親に似た頑固さを持つ自立した女性だが、映画のコンチェッタはおとなしく控えめな女性として、背景画のように描かれる。両方とも、公爵の甥であるタンクレーディに恋をするのは同じなのだが、映画の方は、悲しみながらも別の女性との結婚を進める父親の決断に従い、シリーズの方は、受け入れざるを得ないながらも心では反発し、それが父娘の対立につながる。甥のタンクレーディを演じるのは、映画では若かりし日のアラン・ドロン。シリーズの方の俳優さんも有名な若い人なのだろうが、この甥の放つ魅力においては、映画の方に大きく軍配を上げたい。シリーズのコンチェッタ役の女優さんは魅力的だった。ある意味、もう一人の主人公として話を引っ張っていくのだから、存在感は大事である。主人公のサリーナ公爵は、どちらもそれぞれによかったけれど、バート・ランカスターの方が重みというか、没落していく貴族の風格があった。シリーズの方の役者さんは、演じた時の年齢としてはランカスターより4歳ほど上なのだが、やはり現代の俳優の方が、60歳近くなっても若いのだろう。それは、妻役にも言える。また、映画ではクラウディア・カルディナーレの演じたアンジェリカ、シリーズ共々妖艶というか蠱惑的女性なのだが、映画の方はタンクレーディと相思相愛、もう一方は、愛しているにしても娼婦的な女性として描かれている。細かいところでは、映画のタンクレーディは、公爵の亡き姉の一人息子、シリーズの方は亡き妹の息子になっている。また、公爵の子供の数は、映画では7人、シリーズでは5人。この辺の違いには、何か意図があったのだろうか。いずれにせよ、観比べてみるのはいろいろと興味深い。

感想としては、両方ともそれぞれに面白かった。歴史的背景と華麗なる貴族の生活を描くために、相当な制作費を掛けているだろう。映画の方だが、ビスコンティ自身も貴族だから、セットには細部までこだわったと聞く。両作品とも舞踏会のシーンは豪華であった。とりわけ映画の方は、ずいぶんと長いシーンになっていて、いずれは没落していく貴族の哀感が、舞踏会の豪華絢爛の中に佇むサリーナ公爵の苦渋の表情を通してよく描かれていた。二つの作品を観て思ったのは、同じ話でも、作られた時代が反映されるのだということ。作り手は、時代の空気を免れない。1963年と2023年、その間には60年の月日が流れている。この60年の世界の変化は大きい。全体として感じたのは、ネットフリックスのシリーズでは、映画に比べて女性の存在感が大きいということである。公爵の長女のコンチェッタにせよ妻にせよ、あるいは愛人にせよ、人物のキャスティングと描かれ方が映画とはかなり違う。映画では、愛人というより、一度だけ公爵が娼婦を訪ねる場面があって、それを咎める家族専属の神父に公爵の放つ言葉が面白い。「欲求は抑えられない。結婚は1年の燃える火の後は30年の灰だ」。シリーズの方は、娼婦ではあるが自らも公爵を愛する女性として描かれ、見せ場が何回かある。タンクレーディと結婚するアンジェリカという若い女性は、美しくも若干品位に欠けるのは両方とも同じだが、映画の方は、見かけは誘惑的でも婚約者に貞淑な若い女性、シリーズの方は、本質的に奔放な女性として描かれていた。シリーズのコンチェッタに至っては、あの時代にあっても内面的には十分に自立した女性だ。

「山猫」を観ることで、当時のシチリアの歴史や社会を垣間見ることができた。そういう意味では、映画やドラマというものは時代を映す鏡である。また、尺が違うシリーズものと映画を単純に比べることはできないが、鏡に映るのはそれだけではなく、その作品が作られた時代も自然に反映されるのだろうと感じた。