スイス山里COSMOSNOMADO

紅葉世代の異文化通信

褒め言葉は出し惜しみしたくないもの

今週のお題「ケチらないと決めているもの」

いいな、素敵だなと思ったら褒める。簡単なようで案外むずかしいのかもしれない。一対一でもグループでも、会話をしていて、ああこの人は相手の話を聞いていないな、今自分のことを考えているなと感じることはけっこうある。そうすると、話し相手の立場に身が入らない。いつも自分を意識して他人と比べていると、褒め言葉も素直に出てこない。人の話を聞いている時は、できるだけ無心になりたいものだ。

ある日の晩ご飯のこと、「お祖父ちゃんは、ボクがお箸をよく使えるっていつも褒めてくれてたね」と、息子が思い出したように言ったことがある。そう言えば、父は何かいいと思ったら、繰り返して褒める人だった。いろいろ様々あったが、晩年の父は好々爺になって、今でも思い出すのは、時々見せたあの満面の笑みだけである。息子の記憶にある父は、そんなお祖父ちゃんだ。人間誰しも長所あり短所ありだが、父の長所のひとつは、自分がいいと思ったら何回も繰り返して言うところだったと思う。母はそれとは対照的な人だった。

子供を育ててみて、褒めることの大切さを感じる。褒めて育てるとか、叱って育てるとか様々な説はあるけれど、その割合が大事だ。子供を正しく叱るのは難しい。叱ると怒るは違う。叱るというのは、相手の為を思ってすることだが、怒るというのは、自分の感情の爆発である。親の不安定な感情に晒されて育った子供は、物事に対して信頼を持てなくなる。程よく褒められて育った子供は、自分に対して基本的な自信を持つ。一見尊大に見える人に見え隠れするのは、逆に自信のなさだったりする。そんな人は「親にもっと褒めてもらいたかった」という切ない思いを抱えていたりする。だから、もっともっと成功すれば親に認めらるのではないかと。それが外に対しての尊大さに繋がったりもする。あるいは反対に、上手くいっても自信がなくて、他者からの限りない賞賛を求める人もいる。子育てには手間暇が掛かる。一緒にいる時間が長ければいいというものでもない。要は関心を傾けるということ。いつも心に留めているということかもしれない。そうすれば、子供の変化に気がつくし、褒めることも叱ることもできる。子供が一番辛いのは、親の無関心ではないか、そんなふうに思う。自分がそうされなかった場合は、自分が子供に関心を持って接することで、負の連鎖を断ち切ることができればいいが。それは干渉することではない。愛情とは、年齢に関係なく相手を尊重できることではないだろうか。

「豚もおだてりゃ木に登る」という成句があるけれど、ある意味真実だと思う。豚をおだてる、という表現はちょっと何だが、要するに、褒めることによって本来は考えられない思わぬ能力が開花するという意味だろう。成功者の話などを聞くと、あの時の先生(あるいは誰々)が褒めてくれたことが自分を今の道に進ませました、などという言葉が出てくることもある。大人になると、おべっかを使う人もいるが、そうではなくて嘘のない褒め言葉は人を力付ける。ましてや、子供はそれによって伸びることも多い。否定ばかりされていた子供はかわいそうだ。萎縮して可能性の芽が摘まれてしまうのだ。あるいは、自他共に信頼できなくなってしまう。もちろん、人間には持って生まれた性格というのがあるから、否定をバネにのし上がる人間もいるだろう。ただそこには何かに対する憎悪が芽生えることもあるのではなかろうか。

今の世界を牛耳っている独裁的な人間たちには、心の奥深く何かに対する憎悪があるように見える。そして元を辿れば、それは遠く子供時代から来ているのかもしれない。異常に承認欲求が強い。それは、愛情に乏しい子供時代を過ごした証でもある。たとえばイーロンマスクの場合は、彼自身の説明を聞けば明らかだ。両親が子供の時に離婚して祖父母に引き取られ、最後に落ち着いた先の父親にはいつも否定され、その上学校では壮烈な虐めにあったという。それが彼の今の尋常を超えたありようの言い訳にはならないし、持って生まれた性質もあるだろう。だが、子供時代の環境が資質に輪をかけたことは否めないのではないか。子供は我々の未来の姿を映す鏡だ。社会が一番大事にしなければならないものは、子供達ではないかと思う。子育てが尊重される社会でありたい。

さて、褒め言葉と共に感謝の言葉も素直に言えるようになりたい。考えれば、ありがたいことはたくさんある。

 

 

チューリッヒ湖畔