先日のこと、竹内まりやの「駅」について、歌好きの仲間とあれやこれやの論評になった。2年の月日というけれど、ちょっと短すぎるんじゃないの?何事にも3年が一区切りじゃない?いやあ、メロディーのここの音符に載せるには3年じゃ合わないから、語呂がいいのは2年か4年か5年かなあ。でも、若い人にとって5年は長いし、4年だとどうも数的にしっくりこないと思うけど。じゃ、やっぱりあの歌詞通りの2年がベストなのかな。でも、2年なんてあっという間よ、などなど。ワイングラス片手にあれやこれやと解釈するのが面白い。この歌は、もともとは竹内まりやの持ち歌だが、中森明菜も歌っている。同じ歌なのに、歌い手によって描かれる世界がこんなにも違うのかと思わせるほど。竹内まりやの方は、もうすっかり彼とのことを過去のものとして、人生を前に進んでいる感じだけれど、中森明菜の方はまだまだ吹っ切れずに引きずっている。あの二人には何があったのだろう、二人はその後どんな人生を歩んでいるのだろう、と知りたくなる。好みはあるにせよ、中森明菜の歌唱に滲み出る物語性は魅力的だ。数分の歌の中でこんなに多くを物語れる歌手は、そうそういない。まさにストーリーテラーである。
中森明菜が歌っている場面はいろいろあるのだが、私としては下の動画が気に入っている。
インスピレーションを受けたままに、ほんの短いストーリーを作ってみた。あの歌が作られたのは1987年。すると、竹内まりやの歌の二人が別れたのが、その2年前として1985年頃か。いや、85年のプラザ合意から日本社会が徐々にバブリーになっていくから、もう少し時代を遡って、山口百恵が引退して古風にもきっぱり家庭に入った頃にしてみようか。報道番組は、必ず男性がキャスターで、女性はその隣で頷きながら花を添える程度だった頃に。音楽はレコードかカセットテープで聴いた時代、通信手段はまだ固定電話と手紙しかなかった時代だ。だから、二人の恋の進展も今とはだいぶ違っていたはず。それでも、2年で吹っ切って思い出になるのは竹内まりやである。中森明菜の歌を聴いていたら、やはり少なくともその倍の4年の月日にはしたいところだ。二人が別れたのは、当然ながら男女雇用機会均等法の施行前のことになる。まだまだ一般的通念としては、男は仕事を持って一人前、そして、女の幸せは仕事より結婚だった頃である。クリスマスケーキという言葉もあったものだ。主人公の名前は、明菜の一文字を取って菜穂子。
菜穂子は目が覚めてからも、しばらくぼんやりしていた。またあの人が夢に出てくるなんて。あれから4年たっても、不意に現れる。初めて出てきた時には、霧の向こうにいるようだった。だが、夢に現れるたびに近づいてくる。顔はぼんやりしているのに、何か言いたそうな気配を纏っている。本当の気持ちを話して、そう言いたいのに夢の中では声にならない。4年の月日が変えたもの、それは二人が別々の道を歩いているということ。
25歳の誕生日、郵便受けにひっそり入っていた白い封筒。中にはあなたの詩。二人で行った印象派展の若い女性の肖像画に寄せて贈ってくれた詩だった。あなたの想いに胸が込み上げる。あの日、はっきり答えられなかったわたし。今の仕事にもう少し懸けてみたい、結婚には踏み切れなかった。わかった、ゆっくりと待っている。菜穂子は、彼のそんな気持ちを白い封筒の中に淡く見つけたような気がした。それからしばらく、好きでいながらもどこか曖昧な関係が続いた。彼が何気なく「最近、後輩の子がよく相談を持ちかけてくるんだ」と、試すように菜穂子に言った時、菜穂子は「あら、頼られてるのね。いいことじゃない」と軽く受け流した。後になって、その女性が彼のことが好きで積極的に近づいて行ったことを知った。彼は、自分の道を探してはっきりしない菜穂子より、自ら愛情を表現して決断を迫る彼女を選んだ。そして、雨の降る夜の街で二人は別れた。去っていった彼のベージュのレインコートが目に霞んだ。
久しぶりに夢で彼を見たその朝、菜穂子はどこかぼんやりしたまま家を出た。足だけは勝手に駅に向かって歩く。明け方の夢はいつになく鮮やかで、菜穂子は仕事中も過ぎ去った日のことを思い出していた。心ここに在らずで、コーヒーを持つ手が滑る。今日は少し早めに職場を出て、東京の郊外に原稿を取りに行く約束があった。郊外に向かう私鉄が乗り入れている夕方の国鉄のターミナル駅は混雑している。急ぐ人々の中に、ふと見覚えのあるレインコートが足早に通り過ぎた。菜穂子はハッとした。流れる人の波に、少し疲れたようなレインコートの肩が浮き沈みする。まさか、まさかあの人?あの背格好、あの歩き方はあの人に違いない。菜穂子は人混みの中、早い足取りの後を追った。彼が向かったのは菜穂子と同じホームだった。言葉を掛けるより前に、苦い思いが蘇る。それは、愛していたのにあの人の愛を素直に受け入れられなかった自分への苦い思い。発車ベルが鳴った。菜穂子は人混みに押されるように隣の車両に飛び乗った。
車両の端で吊り革に捕まっている彼の横顔が見える。俯いて疲れたような眼差しの彼に、菜穂子は胸を突かれた。菜穂子は、上を向いて笑う彼の爽やかな笑顔が好きだった。あの晩、雨の降る街で別れた彼の言葉の裏にあった本当の気持ちが、今になって痛いほどわかる。自分はまだ研究中の身で生活も安定していない。だから、君にはちゃんとした男と結婚してほしい。あの時、雨の街を去っていく彼の背中に「待って!わたしは、、、」と叫んでいたら、あの人は立ち止まっただろうか。まもなく彼が結婚したこと、子供を持ったことを噂に聞いた。
4年のあいだ夢の中に何回も現れた人が、やっとここにいる。いつも何か言いたげにしていた人が、今ここにいる。でも彼には、今は帰りを待つ人がいるのだ。もう二人の人生が交差することはないだろう。時を戻すことはできない。隣の車両に立つ彼の横顔に、思わず涙が溢れてきそうになる。やがて電車が止まって、彼は降りていった。菜穂子の行き先はもう少し先だ。彼の後ろ姿が、雨上がりの黄昏色に光るホームに遠ざかって行った。