スイス山里COSMOSNOMADO

紅葉世代の異文化通信

「日本人ファースト」??

 不毛の星から見える青い星 (cosmosnomado作)

日本の参院選の結果は、こちらのメディアでも報道された。これからの日本の動向を示す選挙、私も選挙が始まってからYouTubeなどで様子を気にしていた。

今回の驚きは、差別的な考えを大っぴらに掲げた政党が躍進したこと。「日本人ファースト」だという。日本に外国人が何パーセントくらいいるのかわからないが、わざわざそんなことを選挙のスローガンに掲げる必要があるのだろうか。まさに、キャッチコピーとはこのことだ。人目を引いて票を得るためにキャッチーな短い句を叫ぶ。なんとも品のないことである。もし外国人がいることの弊害を言いたいのなら、外国人当人を非難するのではなくて、それこそ過去の与党の方針を非難すべきだろうに。過去10年間の安倍政治の弊害に眼を向けるといい。

今の世の中、あえて敵というものを作って民衆を煽る政治家が横行している。民衆の分断作戦だ。その典型がまさにトランプのアメリカである。ヨーロッパでも、ドイツのAfDやフランスのマリールペンの党などその傾向が見られる。それが、「和」の国を誇っていた日本にも上陸したとは。戦前の話には今は触れないことにする。そして、その新興政党が、ことさら「日本的なもの」を強調しているというのは、どうも矛盾している。そこの憲法草案の話を聞いて、さらに開いた口が塞がらない、というか、その党の中核を担っている方の知的なお力に?マークが付いてしまった。この党を選んだ人たちは、オーガニック志向だったり、健康志向だったり、調和の取れた生活を好む人たちも多かったらしい。それはわかる。けれどもと言うか、だからこそと言うか、とにかく、人々を分断し、敵対させようとしている党には警戒が必要だ。分断と敵対が誰を利するのか、いったい何に利するというのか。分断と敵対の姿勢はやがては争いを呼び、共に滅びるだけではないのか。まずは、本物の「和」がなければ、共生の思想がなければ、健康な暮らしと社会は成立しない。選挙中は、票を得るために、候補者たちは耳触りのいい事だったり、勇ましい事だったり色々言う。だからどの党がいいかは、なかなか見極めが難しいところだが、私としては、共生社会を目指している党なのかどうかは、選ぶ際の大きな基準になる。他者を排斥する考えは、いずれは選んだ人にも跳ね返ってくるのではないか。たとえば、それは外国人ではなくとも、高齢者だったり、障害者だったり。誰でもいずれは歳を取るのだし、病気にもなるのだから。自分の身に火の粉が降りかかった時に、初めて気がついて慌てても、社会の流れを変えるのは難しいものだ。それは、歴史を見ればわかること。選挙には、社会の未来への責任が伴う。たとえば日本では、1925年から25歳以上の男性にのみ選挙権が与えられたが、あの悲惨な戦争に真っ先に駆り出されたのは、その時はまだ子供で何も言えなかった男の子たちである。ところが、今は18歳以上の男女にはもれなく選挙権があるのだから、よくよく考えて政党を選んで欲しいものだ。

日本の選挙が終わった翌々日、身の回りにちょっとしたエピソードがあった。その日、私は息子と一緒に、チューリッヒにある大きなベジタリアンのビュッフェ式レストランで食事をしていた。その日は天気もまずまずで、大抵の人が外に座っていたので中は空いていた。私たちが座ったソファ席の一角には誰もいなくて、ちょうど荷物が多かったので、ソファの横の空いている席に荷物を置いていた。すると、近くに座ろうとした中年の女性が、英語で我々に「ヨーロッパではそういうことはしないものよ」と、ちょっと見下したような態度で言うのだ。私は、とっさにはその意味するところを解しなかったが、息子はムッとして、即座に「僕は此処で生まれ育ったスイス人ですよ」と切り返した。少し場所を空けてくださいと言ってくれればいいんです、と。我々の反対側の一角に座っていた金髪の女性が眉を顰めて、連れに「あの女性、ちょっと失礼じゃない」と言っていたので、私にも状況がわかった。そうか、我々にそう言い放った女性には、我々が外国人だから礼儀をわきまえていないと映ったのか。礼儀云々については、近頃は公共の場でのマナーをわきまえないスイス人も増えているので、外国人かどうかは関係のないことなのだが、その女性は「古き良き」スイス社会を変えたのは外国人だとの痛みの思いがあったのかもしれない。長年こちらに住んでいるので、自分がアジア人に見えていることを忘れていた。というか、スイスはあまりそれを意識させない社会だった。息子は、日本にいればヨーロッパ人に見えるし、こちらにいれば、どちらかと言えばトルコ系、あるいはイスラム系に見えなくもない。だからなのだろう、友達の白人系スイス人たちと夜遅く駅を通る時など、彼だけ見回りの警察官に身分証を見せるように言われたこともあったという。遊びたい盛りの昔のことだけれど。アジア人がまだ珍しかったその昔、友達の日本女性がバス停でジロジロ見られるのが嫌だと言っていたのも思い出した。スイスにヨーロッパ系以外の人たちが増えていくにつれてそんなこともなくなったが、時代の流れというのはいつ変わるかわからない。トランプ就任以来の世界を見ているとそう思う。スイスは比較的インターナショナルな国だが、ドイツなどは昔のことがあるから、AfDの躍進には警戒している人が多い。

これだけ交通手段が発達し、また通信手段も驚異的な変化を遂げた時代に、人に動くな、国を超えるなと言うのは無理な話である。動けば交流が生まれる。自分たちだけの郷土文化でやっていくわけにもいかないだろう。異文化交流には理性と相互理解の努力が伴う。人が慣れ住んだ環境に愛着を持ち、その喪失に痛みを感じるのは、当然の情である。それは自分が異文化の中で暮らしているからこそわかる。来た人も大変だけれど、受け入れる側の気持ちも思いやらなければならない。そして、異文化に暮らす葛藤を乗り越えた時に、また一つ広がりのある世界も待っている。ある意味、世界がこれほど狭くなり関連し合うようになった時代もないわけで、これからはいやおうなく地球人という感覚を持つことが求められるようになると思う。それぞれの地方や国は、地球上の一文化圏である。人間は基本的には皆同じだけれど、生まれ育った文化というものにコーティングされている。それをお互いにリスペクトしながら違いを大事にしつつも、人間としての大きな共通点をもとに共生していくのが、人類の地球での生き残りの道だろう。けっして容易いことではない。平和と共生を目指すという大きなビジョンが要る。難民の問題だって、戦争や貧富の差があるから起こることだから。そういう意味では、1968年にアポロ宇宙船から撮られた「Earthrise」の写真を思い出す意義は大きい。あの時、私たちは自分が住む星を初めて外から見た。懐かしい青い地球、それが私たち皆んなの故郷なのだ。