
10月22日、我が地方新聞の外国欄に大きく、日本で初の女性総理が誕生とのニュース。副題に、右派強硬派の女性が総理に就任し、この歴史的な交代が、果たして日本に何をもたらすかは不明、とある。自民党内のナショナリズム強硬派への中和的役割を果たしていた公明党が、高市自民との連立を解消。自民が新しく維新と組んだことで、これから日本政府の右傾化が進むだろうと予測している。高市氏の組閣を見ると、特に自分と同じ考えの人物たちで固めたと見られ、2023年の裏金事件は、彼女にとってたいして重要なことではないように見える、ということだ。たしかに、参院選まで話題をさらっていたあの問題は何処に行ってしまったのだろう。ギリギリで当選した議員を以て、禊は済んだということにしたらしい。何だかいい加減な話だこと。女性初の首相ということが目眩しにならないといいが。
彼女の理想とする政治家は「鉄の女」と言われたイギリスのサッチャー元首相だという。これは私の視点からすれば、ちょっと...である。社会の衰退を個人の責任に還元して、社会生活の受け皿を崩していった人物。共生ではなく分断で、結果的には富裕層以外の国民は貧しくなった。「改革」という名の下に、容赦無く国の機関の民営化を進めた新自由主義の政治家だ。あれからのイギリスを見れば、公共機関を民営化していった国の末路がわかる。社会生活を支えるインフラが衰退して、国民にとっては暮らしにくい世の中になった。彼女の「自己責任」という考え方は、たぶん自身の生い立ちからも来ているのだと思う。庶民の家庭で育ちながら、当時は女性として極めて稀なことに、オックスフォード大学で学んだ。自分は頑張って自力で男性中心のエリート層の中に入っていったという自負があったとのだと思う。「頑張れないあなたたちは自分のせいよ」とでも言うか。だが、この「自己責任」という言葉は、よくよく吟味してみる必要のある言葉だ。考えるためには、生物学的、社会学的、さらには、哲学的な視点も必要だと思う。少なくとも、政治家が簡単に口にしていい言葉ではない。なぜなら、全てが自己責任であれば、社会も国も要らなくなるのだから、ずいぶんとラジカルな言葉ではある。
そもそも今の局面で、女性だ男性だということは、本質的にはあまり大事なことには思えない。見かけの性別よりも人物である。すべてにおいて「初の女性」という表現は、冠言葉的な役割で使われているが、もちろんそれには理由がある。私たちが、歴史的にずっと男性主導の社会に生きているからだ。そういう意味では、女性も社会的に活躍していく先駆けとしての、画期的で前向きな響きがある。未来に向けて、歓迎すべき第一歩的な言葉ではある。けれども、「初の女性」は、男性社会の中で男に負けじと、過剰なテストステロンを出していく場合もある。日本の初の女性首相も、かなり勇ましいことを言っているようだ。社会で女性が活躍するのが望まれるのは、今までずっと続いてきた「いわゆるオスの闘争的な」競争と争いの社会から、「いわゆるメスの母性的な」守り育てるような優しさのある社会への転換を期待しているからではなかろうか。オスとメスの属性と、その例外については、社会生物学的な研究からの視点が必要だが、歴史を見れば、男性中心の人類社会には、いつも衝突と戦争があった。争いの社会は、結果的には人類という種の破滅に向かうだろう。それが、現在我々が直面している危機なわけである。そこを救うために期待されているのが、ワレがワレがではない「いわゆる母性的な」他者を思いやる共感能力のあるリーダーなのではなかろうか。だから、それは生物学的には女性でなくともいいわけだ。女性でもそうじゃない人もいれば、男性にもそういう属性を持った人は少なからずいる。日本初の女性首相が、これからどういう政治をしていくのかは、これから注視していきたいものだ。
ところで、週末から数日間パリ訪問。日本の国内旅行の感覚では、東京から京都に遊びに行く感じかもしれない。TGVで4時間の距離である。思い付けば頻繁に行ける距離ではあるけれど、私には10年ぶりのパリ。久しぶりにルーブル美術館とオルセー美術館にも行く予定だ。ルーブルは、今は完全予約制になっているらしい。オンラインで予約して、指定の時間に行けば、並ばずに入れるようだ。それはありがたい。以前は長蛇の列だった。この10年で、オンラインで自分でこなす作業が増えたのは、慣れるまではなかなかの手間でもあるが、利点の方も見ようか。さて、パリといえば、なんと言っても手軽に和食を味合える楽しみがある。日本は遠いけれど、近場のパリでそれができるのは嬉しい。
この日本初の女性首相については、まだ考えてみたいことがあるので、戻ってきて落ち着いたらまた続きを書くつもりでいる。