スイス山里COSMOSNOMADO

紅葉世代の異文化通信

政治家の役割について考えてみる

パリに行ってきた。10年前のイメージがあったので、ルーブル以外の美術館なら入館もそんなに難しくないだろうと思っていたのが、どっこい見事に外れてしまった。オルセー美術館もオンライン予約になっていて、10月末まですでに満杯。それでも、確実ではない当日券を求める人で美術館前は長蛇の列だった。それで、もう一度見たかった絵との久しぶりの対面はあきらめた。ノートルダム寺院を取り巻く幾重もの列にも驚いて、通り過ぎる。街を散策したが、どこもかしこも観光客で溢れていて、昔日の感があった。アジア系の人たちも沢山いたが、日本人より中国や韓国の人たちがずっと多いようだった。この大変な円安では無理もないだろう。この長い年月、外から日本の「隆盛と凋落」を見てきて、感じること思うことは沢山ある。

パリ旅行で、日本のニュースを見ることもない間に、高市政権が始動していた。所信表明演説は聞かなかったが、日本に住んでいるお友達から、高市氏の総裁選の演説動画が送られてきたので、それは一応見てみた。そこでは、彼女がキリッとした顔をしながら、坂本龍馬の言葉を引いて「日本を今一度せんたくし申し候」と述べていた。長いことかけて溜まった染みや汚れをスッキリさせると。日本の将来、若い人たちの行く末を思うと夜も寝られないくらい心配でしょうがない。公平で公正な日本を実現して、もう一度日ノ本日本を高い位置に押し上げるというような主旨だった。情緒に訴える演説で、たぶんお友達も、初の女性総理候補に感心して送ってきたのであろうが、聞きながらアレっ?と思った。あなたは、長いこと政権与党の議員だったのではありませんでしたっけ?内閣で重要なポストに付いていたのではありませんでしたっけ?そんなに心配ならば、なぜ今まで国民のために、述べておられるような仕事をされなかったのでしょう?あなたが政治の中枢にいた時に溜まった染みや汚れではないのですね?この方は、何を他人事みたいに語っているのかしら、こんな違和感が湧いた。そもそも彼女が心配していることが何なのかよくわからない。高市氏が閣僚であった時代に、日本は高い位置から転げ落ちていったと思うのだが。師と仰ぐ安倍政権のもと、日本は大手企業の輸出のために円を意図的に切り下げ、その近視眼的な経済政策が、やがては物価高を加速して、今の状況があるのでは?また、外国人が多すぎて日本社会を損なうというような主旨の発言もしているが、そもそも100年の計も立てずに、安い外国人労働力とインバウンドに頼る政策を進めたのは、何処の誰方だったか。利権のためにオリンピック誘致に走ったのは何処の誰方だったのか。安倍氏が観光客4000万人誘致の方針を発表した時には、びっくりした。日本の人口の3分の1ではないか。そんなに沢山呼び込むことの弊害は考えなかったのだろうか。もちろん日本とその文化に興味があって行く人もいる。だが、ここまで円の価値が下がると、大半は安い国だから日本に足が向くわけだ。それは、この数年の周りのスイス人を見ていても思うことだ。そして、数が多くなれば、マナーを守らない人が出てくるのも当然だ。

政治家が情緒的な言葉で語る時は、気をつけた方がいい。たいていは、薄い中身を味付けするために情緒に訴える。先日は、こちらに住んでいる日本人のお友達が「いいですね」というメッセージ付きで、国民民主党の幹事長の動画を送ってきた。「高市総理へメッセージ」というもので、これもまた非常に気負いを感じる情緒的な演説だった。煎じ詰めれば、与党野党の垣根を取り払って、自民維新国民でこの国を牽引して行こうと言いたいように受け止めた。高市自民と維新に「頑張れよ、踏ん張れよ」と熱く呼びかけるのだが、これまた何を頑張れ踏ん張れと言っているのかわからない。ちょうど村山元総理が亡くなったというニュースが重なったので、私の脳内画像に、長い白眉の能の翁のような老人が現れて「お若いのう、榛葉殿」とニヤっと笑った。話しているうちに自分の言葉に酔ってしまう政治家がいる。相手の話を聞く耳を持たずに、自説を滔々と語る。政治家が自分に酔うのはいただけない。普通人ではなく公人なのだ。ましてや、国を預かる役目の人たちである。自らの勇ましい言葉に酔うのではなく、冷静沈着に物事を判断して、理性的に語ってもらいたいものである。

高市氏が引き合いに出す安倍元首相も、「美しい日本を取り戻す」という情緒的なキャッチフレーズを掲げて政権に就いたが、これもまた何を指して「美しい国」と言っていたのか首を傾げた。というのは、なさったことは、普通に考えれば「美しい」とは真逆のことだったからだ。農家の人たちの票を得るために「TPP断固反対」を押し出しながら、選挙に勝ったら手のひら返しで真逆の推進政策。約束を反故にするのは美しくない。森友・加計・桜では、結局は何の責任も取らずにあやふやにして逃げ切った。日本的な倫理観で見れば、これまた卑怯で美しくないことである。安倍氏と言えば、彦根の神社での清掃奉仕団の方との出会いを思い出す。

もう10年以上前になるが、帰郷の際に関西方面に旅行をした。彦根に一泊した翌朝、とある神社の前を通りかかった。鳥居の前の「英霊」と書かれた立札に誘われるように、ふと境内に入った。私は、この言葉がなぜか気になるのである。英霊とは、戦争で亡くなった兵士の霊だという。赤紙一枚で、修羅の地獄に送られて命を落とした若い人たちの無念を思うと、深い悲しみを覚える。自分の将来の夢も人生も、自らは決めることもできない国策のために奪われてしまった若者たち。その人たちの霊が慰められることを祈りたい。木下恵介監督の「陸軍」という映画がある。陸軍の依頼で製作され、1944年に公開された国策映画だ。戦意高揚映画のはずが、最後のシーンで陸軍の意図とは大きく違う方向へ向かう。息子を戦地に送り出す田中絹代扮する母親が、隊列の後を追って走り続ける姿が胸に迫るものになっている。結果的に木下恵介は、陸軍の不興を買ってしまったらしい。召集前夜の最後の家族団欒で、息子が母の肩を揉むシーンが忘れられない。この心優しい息子も修羅の世界に投げ出され、生きて帰ることはなかったのだろう。「英霊」の文字に、戦地で亡くなった方たちのことを考えながら入ったその彦根の神社の静かな境内には、掃除をしている奉仕団の人たちの姿があった。お疲れ様です、と声を掛けたのがきっかけで、奉仕団長らしき男性と英霊を偲ぶ話になった。話しているうちに、偲び方の方向性がちょっと違うなという感じはしてきたけれど。その方は、涙を流さんばかりにして「安倍さんに期待している」と言う。「愛国精神」を持った首相なら、国に殉じた魂に報いてくれると思っていたのだろう。その首相が、祖父の代から統一教会と繋がっていることを知るや知らずや、熱心に神社で清掃のご奉仕をされている。

安倍氏は、日本国憲法のことを「みっともない憲法」と発言した。これも意味がわからない。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三つを基本原則とする日本国憲法の何処がみっともないと言うのだろう。先の大戦の経緯を歴史的に踏まえて、その悲劇を二度と繰り返すまいと作られた憲法だ。戦争で亡くなった人に本当に報いるとは、人の命を大切にする国造りと、平和な世界の実現に貢献して行くことではないか。水が低きに流れるように、人も理念がないと低きに流れる。理想と現実は違うというのは、大人なら分かっている。けれども、それを承知の上でも、あるべき理念に向かう努力をするのが政治家の役割ではなかろうか。日本では「先生」と呼ばれているようだし。日本国憲法は、アメリカが日本の力を削ぐために作らせた憲法という意見もあるが、小泉政権で実質的に解体される前の自民党は、それを逆手に取って、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることなく、経済成長していくように仕向けてきたのではないだろうか。

境内を履き清めていた方たちは、英霊は日本のために命を捧げた御霊と考えておられる。たしかにそうだ。けれども、それが何のため誰のためだったのか。だからこそ、きっちりと歴史と向き合って、何があったのかを知ることが必須である。なぜそうなってしまったのかを考えることが大事である。そのために歴史学があるのだ。つまり、当時の社会や政治の状況をできるだけ客観的に見ることである。その上で、前に進んでいくことだ。安倍政権の官房長官のように、沖縄の惨禍について、自分はまだ生まれていなかったから知らないなどと嘯く人間は、それだけで政治家失格だ。フランスの植民地政策で犠牲になった人たち、ナチスドイツの犠牲になった人たちに花輪を捧げる、マクロン大統領やドイツ連邦大統領のシュタインマイヤー氏が、そんなことを言っただろうか?彼らも戦後生まれの人たちである。

高市氏は、日本初の女性首相ということで、気負いもあることだろう。働いて働いて働き抜くとおっしゃる。男女を問わず、政治家の仕事に時間の制限はない。それを覚悟で首相にもなったわけだ。ただ、その懸命さが向かう仕事の方向を、見誤らないでいただきたいと切に願っている。政治家の役割は、平和と国民の安寧な暮らしを守るために国を運営していくことだ。勇ましい言葉もパフォーマンスもいらない。この不安定な世界の中で、いかに冷静に情勢を判断し、国民のために最善の舵取りをしていくか、男の首相でも女の首相でも、それは並大抵のことではない。高市氏は、私が聞いた演説の中で「公正で公平な日本を実現する」と言っておられた。初の女性首相に望む一番のことは、男女関係なく人間として誠実であってほしいということである。