先週のNZZ日曜版に「Survivlal of the Nettest」というコラムが掲載されていて、我が意を得たりと膝を打った。英語のタイトルの下に「多くの人は今日、『配慮(思いやり)』を敗者のものだと考えている。だが、それは間違いだ。人間が進化的に成功を収めてきたのは、節度や品位(礼節)を持つ能力のおかげである。そのことを思い出すべき時が、今まさに来ている。」と、ドイツ語の文章が続く。そして、「ドナルド・トランプは、一つの例外なのか?それとも、私たちは社会として、全体的に粗暴になりつつあるのだろうか?」という問いが投げかけられる。
いつの時代にも、他者への配慮がない自己中心的な人間はいた。けれども、そういう人物が最高位まで上り詰めた社会は、崩壊して行った。社会的動物である人類は、集団で互いを支え合うことによって生き延びてきたからだ。ところが、現在の世界を見渡すと、まさに崩壊を引き起こそうとしている人物がアメリカ大統領として君臨している。コラムの中に、「ドナルド・トランプは、一つの例外なのか?」とあるが、どうもその影響は徐々に社会に及んでいるようだ。その理由の一つは、ソーシャルメディアの存在である。この人物はまともに仕事をする代わりに、異常な頻度でSNSに思いつきの投稿を続けている。一国のトップが、深い考えもなしに感情に任せた発信をするなど、今までは考えられないことだった。ある意味、トランプがオバマの後を継いで大統領に就任した2016年は、SNSにとっても一つの分岐点だったと思う。政治家たちがTwitter上で発言することが多くなったのは、あれからだったような印象がある。影響力のある人間が何かを始めると、一気に一つの流れが起こることがある。良い流れならいいが、トランプ的なものは健全な社会の存続を危険にさらす。まさかの二期目の就任は、この社会に広がり始めたSNSのネガティブな影響の結果だったとも言えるだろう。この人物は病的なまでに自己愛が強く、責任感に欠けていて、今までなら到底社会から受け入れられなかったような発言をして何とも思わない。自分の不祥事から国民の目を逸らすためもあろうが、周りに煽られてイランに戦争を仕掛けた。そして、副大統領のヴァンスを和平交渉に送って「失敗したらあいつのせい、成功したら俺の手柄」と言い放ったという。アメリカの大統領がいつも高潔な人物だったかどうかはわからないが、一応「大統領とはこうあるべし」という理想の建前はあった。今までこれほど恥知らずな大統領はいなかったのではないか。まさに負の意味で歴史的人物になること間違いなしだろう。
NZZのコラムニストは、人間の進化の鍵は節度や品位を持つ能力だったと書いているが、同感である。日本には「本音と建前」という言葉がある。時にネガティブに使われることもあるが、人間に「本音と建前」があるというのは、ある意味で真実だと思う。これを「現状と理想」と置き換えてもいいかもしれない。精神的な高潔さを持つ人間たちの集団では、本音だけを言い合っても摩擦は起こらないだろう。しかし、我々の大半は、まだまだ精神的成熟の途上で、煩悩のない人間はごく稀だと思う。煩悩同士がぶつかった時に争いが起きる。煩悩というのは「我」に基づいているものだから。その「我」同士がぶつかって歩み寄りがない時に、争いが起きる。そこで大切になるのが、礼節とそれを形に表す礼儀作法である。礼儀とは、相手を尊重する姿勢だ。そこには、相手への配慮がある。配慮のない社会は、言ってみればワイルドウエスタンのような粗暴な雰囲気が支配するようになってしまうだろう。
息子がまだ小さかった頃だ。ある男の子に乱暴なことをされてもやり返さなかったことがあった。先生から、お宅の息子さんはsich wehren(自己防衛)できないと、何となく非難がましく言われて驚いた。本来、人間には粗暴な衝動もあるわけだから、それをいかに抑えて相手のことを考えるように教えるのが教育だと思っていた。似たような体験は、私よりもさらに前にこちらに来た日本人女性からも聞いたことがある。来たばかりの頃は、sich wehren とか、das ist nicht mein Problem (それは自分の問題ではない)という言葉が耳についたものだ。たぶん、日本ではあまり聞かなかったからだろう。今の日本は変わったかもしれないが。
日本は「微笑みと和の国」というブランドイメージがあった。もう昔のことだが、こちらの日本人の友達が、10代の娘に「どうしてママは人と会う時にいつもニコニコするの?理由がないのに」とちょっと反抗的に言われたのよ、と語ったので、「たしかにー。そういえば、こちらは違うわねー」と笑い合った。日本人女性がよく微笑むのは、別に自分の気分がいいからではなくて、相手を気遣ってのこと、仏頂面で相手を不快にさせないための一つの礼儀作法だ。謂わば「和」の架け橋である。今はよく、同調圧力という言葉も聞くが、本来の和の精神は、それぞれを尊重しながらも調和を大切にするという心がけなのではないか。むやみやたらにその場の雰囲気に従うことを強制するものではない。人は社会的動物と言われる。互いに繋がり、社会の中で生きてく存在なので、察する力と共感力が必要である。イーロン・マスクが「共感力は社会の進歩を妨げる」と言い放ったそうだが、「あなたにとって、社会の進歩とは何ですか?」と問いたい。共感力、つまり相手の立場を思いやることのない社会は、対立と争いを招き、いずれは進歩どころか破滅していくだろう。それとも、この人物は自分と自分の思うようになる人間だけが生き残ればいいと考えているのだろうか。
先週、夫の姪が住む地域の「シニアの集い」があった。彼女に頼まれて、そこで私自身の異文化融合と理解の体験談、日本の文化についてお話しした。お話し会なので、スピーチではなくて最終的には語りかけるように話すのだが、準備段階では35枚ほどの日本語原稿を作った。自分の今までの道の振り返りと、日本についての考えをまとめるためのいい機会になった。そこからドイツ語のメモを作って、なるべく聞き手の皆さんを見ながら話すようにして、歌の演奏も含めて1時間の枠に収まった。いい反響をいただいてホッとしたところである。テーマを大きく7つに分けたけれど、日本の宗教についても少し話した。本当は掘り下げると面白いテーマなのだが、対象者層のことと、時間のことも考えてあまり深くは触れなかった。日本には神道と仏教が共存していて、習俗としても生活に根付いている。たとえば、うちには神棚と仏壇の両方があったが、祖母は何か大事なこととか、家族が旅に出る前とかには、神棚に手を合わせて無事を祈っていた。また、祖父の月命日には、家族で仏壇の前に座って、父の読むお経に声を合わせていた記憶がある。日本の仏教は、総じて大乗仏教なのだが、大乗仏教の核は、菩薩の思想とその慈悲である。菩薩は悟りを開いても、この地に留まり衆生を救いたいと願う。慈悲とは、生きとし生けるものへの寄り添いの心とも言えるだろう。私としては、ここに、これからの人類の存続を考えるうえのヒントがあると思っている。
宗教が絡み人間の欲が絡み、世界では戦争が続いている。我を反省なく肯定し、主張することが良しとされる社会には対立と争いが絶えないだろう。だからこそ今一度、違いを認めながらも、その上で調和を大切にする「和」の精神に思いを致す必要があるのではないか。とは言いながら、今の日本の現状を見ていると、ちょっと気落ちするところもあるのだけれど。本来なら、イラン戦争だって、日本こそが調停者の役割ができたはずだと思うのだが、今の政権は全く逆のことをやっているようだ。首相には、いろいろな意味で、俯瞰した目を持って勉強していただきたいものである。本当なら、総理の職に手を挙げる前に、自分の器についても熟考していただきたかった。また、日本人が大切にしてきた礼節と礼儀作法についても考えていただきたい。
最初に戻るが、「多くの人は今日、『配慮(思いやり)』を敗者のものだと考えている。だが、それは間違いだ。人間が進化的に成功を収めてきたのは、節度や品位(礼節)を持つ能力のおかげである。そのことを思い出すべき時が、今まさに来ている。」とのコラムニストの言葉には、深く同意する。そう、今まさに、人類の存亡を賭けたその時が来ているのだ。