
また夏が来る。子供の頃の夏休みを思い出すと懐かしい。今思えば、長閑な時代だった。私が育ったのは、人々が平和こそ一番大事だとつくづく思っていた時代である。
昭和は戦争を挟んで二つに分かれる。「もう戦後ではない」と言われた時代でも、社会の中心にいる人たちは、戦争の辛酸を身をもって体験した人たちだった。だから、二度と戦争は嫌だ、絶対にするまい、というのは、誰もが思っていたことだった。日本国憲法は、戦争で命を奪われた人たちへの鎮魂歌だと、誰かが語っていた。基本的人権と言論の自由の保障、非戦の誓いが込められている。そんな憲法を「みっともない憲法」と言った政治家がいたが、みっともないのはどちらだろう。
日本を離れて故郷を見ていると、その変容ぶりに驚かされる。戦争反対が当たり前に言えなくなる世の中はおかしい。世界の振り子が、愚か者たちのせいで変な方向に大きく振れている今だからこそ、あの憲法を持つ日本の出番だろうに。ところが、日本でも愚か者の声が大きくなってしまったようだ。歴史の知識も教養もなさそうな人間たちが、はったりだけで政権を牛耳っている。寝る間もないほど国政に取り組んでいるとアピールしている女性がいるが、それは逆に言えば、能力不足でその器じゃないと自ら告白しているようなものである。それに、かなり卑劣なやり方で票を集めた事実が明らかになりつつあるようだ。どこか誰かの思惑と、自分の権力欲だけでその地位に付き、日本と国民のための政治ができない方には、ご退場願いたい。
それにしても、こちらで長年暮らしていると、日本人はあまりにおとなしいと思う。ダメなものはダメと声を挙げなければ、気がついた時には、声を挙げられなくなっているかもしれないのに。歴史を見ればいい。この十数年来、報道の自由度が随分と下がっているようだ。昭和のジャーナリズムはもっとしっかりしていた。たとえば、黒澤映画の新聞記者の追求場面などを見ると、今との違いに驚かされる。
国民はどこで声を挙げていいのかわからないもどかしさもあるだろう。間接民主制だから、選ばれてしまえば、倫理観がない政治家などは、約束を反故にしてやりたい放題もできる。その点、スイスには直接民主制を支えるイニシアティブとレファレンダムという制度がある。これが、市民の政治参加とチェック機能として働いている。ジャーナリストたちも厳しい。しかし、日本でもジャーナリズムがきちんと機能していれば、国民の声が汲まれて、間接的でも政治に反映できるはずなのだ。
国民の意識と為政者の乖離は、皇室典範の改正を巡っても大きいようだ。週刊誌や新聞の調査などでは、大半の国民が女性天皇を望んでいるというのに、政治の方では、いまだに男系男子論をゴリ押ししているらしい。憲法には、国民の象徴である天皇は世襲で受け継がれるとある。男女の別はない。そして、今上天皇にはお子さんがおられるのだから、憲法によれば愛子内親王が次期天皇になるわけだ。それが、どうして傍系の男子に系統がずれるのだろう。ましてや、民間人である旧宮家から男子を養子にするという案など、大半の国民には受け入れられないだろう。これが通れば、もはや皇族を敬う根拠がなくなる。男子の血筋なら万世一系というのも怪しい。今の時代に皇室を存続させたければ、象徴となる方の人格によらなければ難しいだろう。これからの時代は、むしろ平和を希求する女性性が求めれらている。日本に女性の皇太子が現れることは、世界的に見ても、失われた日本の復興の象徴となるだろうに。今の政権を見ていると、本当は日本の繁栄や国民の幸福など望んでいないのでは?とさえ思えてしまう。この人たちはいったい何をやりたいのだろうか。心配なことである。
もうすぐ、趣味の音楽仲間のコンサートがある。今回私が歌う曲の一つは「ダニーボーイ」。1番はオリジナルの英語で歌うけれど、2番は日本語で歌うつもりでいる。訳詞ではなくて、こんな歌詞を作ってみた。
琥珀の瞳影さして、祈りを捧ぐる子よ。草原の輝きさなか、明日をも知らぬさだめ。なにゆえ、命の盛りを奪われねばならぬのか。待ちても光来ぬものを、目覚めよ愛のためにこそ。