
女優の岸惠子さんが亡くなった。93歳だった。先日は、歌手の美輪明宏さんが亡くなっている。お二人とも、同じ年代の方だ。こうして、子供の頃から見知っていた、言わば親世代に近い人たちが亡くなっていく。今の日本の大事な節目に、なんとも心細い思いだ。私が生まれた時にはすでに活躍していて、いらっしゃるのが当然の方たちだった。激動の昭和に生まれて、子供の頃に戦争を体験した人たち。あの戦争は、この方たちの原点になっていたと思う。岸惠子さんは横浜大空襲を経験し、美輪明宏さんには長崎の原爆体験がある。
岸惠子さんは、1953年の映画「君の名は」で一大ブームを巻き起こした。真知子巻きと言われるスカーフの巻き方が、一世を風靡したという。菊田一夫原作のラジオドラマを松竹が映画化したもので、大ヒットしたそうだ。原作のラジオドラマの人気は大変なものだったという。放送時間には女湯が空になったという伝説がある。生まれる前の話だが、これはあまりにも有名で語り継がれていた。真知子と春樹のすれ違いの恋物語で、春樹を演じたのが佐田啓二。正統派の二枚目俳優だったが、惜しくも若くして交通事故で亡くなっている。物語は、東京大空襲の夜から始まる。知らない同士だった真知子と春樹は、偶然のことから一緒に逃げる。二人は一目で惹かれ合い、数寄屋橋で半年後に会う約束をするが、真知子は家の事情で来ることができなかった。それでも、二人は諦めることなく互いを探し合う。あの時代でこそ成立する、ハラハラドキドキのすれ違いの恋物語である。私も全部は観ていないので、なんともうまく説明はできないが、大まかなあらすじは知っている。実は、もう30年くらい前になるだろうか、チューリッヒ市の映画館で上映していたのだ。けれども、友達の家族のお祝いに招かれていたので、途中で抜け出さざるを得なかったのである。たぶん、一回しか上映がなかったと思う。渡世の義理?とはいえ、本当に残念だった。今でも、いつか観たいと思っている。
その後、岸惠子さんは、結婚前の最後の映画として、川端康成原作の「雪国」に出演。ずっと後になって写真を見たが、日本髪姿がとても美しかった。演じたのは、雪国で芸者として働く駒子。撮影中に婚約を発表して、終了後に映画監督で医師のイブ・シャンピ氏と結婚のため、フランスに渡る。1957年のことだった。今でこそ、国際結婚も珍しくなくなったが、あの当時は大変なことだった。日本は国際社会に復帰したばかり、渡航のための制限もある時代に外国に渡航するのは、それこそ清水の舞台から飛び降りるほどの決心だっただろう。私がこちらに来た40年ほど前でさえ、かなりの覚悟が要ったわけだが、それより更に20数年も前の話である。岸惠子という人は、演じた駒子とはかなり対照的な人だったと思う。自分で決断して人生を選び取る行動的な女性である。あの時代にフランス人と結婚してパリで暮らすという決断は、並大抵のことではなかったはずだが、一方、岸惠子の人生を大きく広げることにもなった。
もし日本に留まって、スター女優として映画に出演を続けていたら、型に嵌められていた可能性が高い。たとえば、彼女をスターにした「君の名は」も、その後の「雪国」も、いずれも古風な耐える女性である。女優があるイメージで人気が出れば、映画会社は引き続きその路線で彼女を売っていこうとするだろう。いい例が、原節子である。多くは小津安二郎の作品で、日本社会での女性の役割を受け入れて、笑みを絶やさぬ静的な女を演じ続けた。私は、黒澤映画の原節子の方が、より本人に近いような気がした。行動的で情熱的な、動的な女性だ。しかし、この時代の日本映画会社の看板女優は、人気が出たイメージの役を演じ続けることが求められた。原節子さんの有名なエピソードがある。黒澤監督の「羅生門」への出演依頼があって、本人は乗り気だったが、周りが彼女の清純なイメージを壊すのを恐れて断ったという話。それで、主役の女優は京マチ子になった。あの映画はカンヌで賞を取って、日本映画が国際的に認められる先駆けになったのだから、原節子としては忸怩たる思いだったにちがいない。
岸惠子本人が後年語っている。イブ・シャンピが言った「卵を割らなければオムレツを作ることはできない」というフランスの諺が、最終的に彼女の背中を押したという。岸さんの結婚と渡仏の決意の底には、単なる恋ではなく、閉ざされた日本映画界の中に閉じ込められそうな自分の殻を破って、更なる可能性を求めてやまない内なる渇望があったのだろう。ただ、あの時代である。彼女の行動が大きな波紋を呼んだであろうことも想像に難くない。それに、パリに行ってみたら、思った以上のカルチャーギャップに打ちのめされることもあっただだろう。けれども、彼女は必死にフランス語を勉強して習得し、フランス社会に溶け込んでいった。何よりも、言葉がわからなければ何もできない。適応していくまでの苦悩は、著書の「巴里の空はあかね雲」に詳しい。印象に残っている描写のひとつは、彼女は日本へ帰るたびに日本のお米を担いで(もちろん比喩だが)パリに戻ってきたこと。私も、こちらに来た当時、日本米のご飯や味噌醤油が恋しかったから、あの時代には比べられないとはいえ、気持ちがよくわかる。それにしても、彼女は優れた文章家である。国際結婚に伴う苦悩や、逆に地平が広がっていく様も描かれていて、一気に読ませる面白さがあった。ただ、異文化の中で苦労したとはいえ、彼女の幸いは、すでに日本ではスターだったこと、夫が裕福な文化人で広い人脈があったことだ。そういう基盤と本人の弛まぬ努力によって、日仏での更なる活躍の幅が広がっていった。女優に留まらず、文筆家としてもジャーナリストとしても活躍し評価された。とても才能のある人だったし、誇り高い人だったとも思う。晩年の小説「わりなき恋」を読んだ。岸惠子さんの人生に感じるのは、自分自身に対する深い信頼と揺るぎない評価である。この方は、「マイウェイ」という歌を歌うのに相応しい人だと思った。
この数年のうちに、昭和の戦争の時代に少年少女時代を過ごし、それを原点に、戦争に意を唱えた人々が続けて亡くなっていった。瀬戸内寂聴さんは、終戦時にすでに大人だったが、反戦を熱心に訴えた。終戦を多感な10代で迎えた大江健三郎さん、半藤一利さん、谷川俊太郎さん、仲代達也さん、美輪明宏さんも、それぞれのやり方で、戦争は決してやってはいけないと、わたしたちに示してくれた人たちだった。岸惠子さんも、ご自分の空襲体験が根っこにある。心からご冥福をお祈りしたい。




