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紅葉世代の異文化通信

追悼 ー 岸惠子さん

cosmosnomado 画

女優の岸惠子さんが亡くなった。93歳だった。先日は、歌手の美輪明宏さんが亡くなっている。お二人とも、同じ年代の方だ。こうして、子供の頃から見知っていた、言わば親世代に近い人たちが亡くなっていく。今の日本の大事な節目に、なんとも心細い思いだ。私が生まれた時にはすでに活躍していて、いらっしゃるのが当然の方たちだった。激動の昭和に生まれて、子供の頃に戦争を体験した人たち。あの戦争は、この方たちの原点になっていたと思う。岸惠子さんは横浜大空襲を経験し、美輪明宏さんには長崎の原爆体験がある。

岸惠子さんは、1953年の映画「君の名は」で一大ブームを巻き起こした。真知子巻きと言われるスカーフの巻き方が、一世を風靡したという。菊田一夫原作のラジオドラマを松竹が映画化したもので、大ヒットしたそうだ。原作のラジオドラマの人気は大変なものだったという。放送時間には女湯が空になったという伝説がある。生まれる前の話だが、これはあまりにも有名で語り継がれていた。真知子と春樹のすれ違いの恋物語で、春樹を演じたのが佐田啓二。正統派の二枚目俳優だったが、惜しくも若くして交通事故で亡くなっている。物語は、東京大空襲の夜から始まる。知らない同士だった真知子と春樹は、偶然のことから一緒に逃げる。二人は一目で惹かれ合い、数寄屋橋で半年後に会う約束をするが、真知子は家の事情で来ることができなかった。それでも、二人は諦めることなく互いを探し合う。あの時代でこそ成立する、ハラハラドキドキのすれ違いの恋物語である。私も全部は観ていないので、なんともうまく説明はできないが、大まかなあらすじは知っている。実は、もう30年くらい前になるだろうか、チューリッヒ市の映画館で上映していたのだ。けれども、友達の家族のお祝いに招かれていたので、途中で抜け出さざるを得なかったのである。たぶん、一回しか上映がなかったと思う。渡世の義理?とはいえ、本当に残念だった。今でも、いつか観たいと思っている。

その後、岸惠子さんは、結婚前の最後の映画として、川端康成原作の「雪国」に出演。ずっと後になって写真を見たが、日本髪姿がとても美しかった。演じたのは、雪国で芸者として働く駒子。撮影中に婚約を発表して、終了後に映画監督で医師のイブ・シャンピ氏と結婚のため、フランスに渡る。1957年のことだった。今でこそ、国際結婚も珍しくなくなったが、あの当時は大変なことだった。日本は国際社会に復帰したばかり、渡航のための制限もある時代に外国に渡航するのは、それこそ清水の舞台から飛び降りるほどの決心だっただろう。私がこちらに来た40年ほど前でさえ、かなりの覚悟が要ったわけだが、それより更に20数年も前の話である。岸惠子という人は、演じた駒子とはかなり対照的な人だったと思う。自分で決断して人生を選び取る行動的な女性である。あの時代にフランス人と結婚してパリで暮らすという決断は、並大抵のことではなかったはずだが、一方、岸惠子の人生を大きく広げることにもなった。

もし日本に留まって、スター女優として映画に出演を続けていたら、型に嵌められていた可能性が高い。たとえば、彼女をスターにした「君の名は」も、その後の「雪国」も、いずれも古風な耐える女性である。女優があるイメージで人気が出れば、映画会社は引き続きその路線で彼女を売っていこうとするだろう。いい例が、原節子である。多くは小津安二郎の作品で、日本社会での女性の役割を受け入れて、笑みを絶やさぬ静的な女を演じ続けた。私は、黒澤映画の原節子の方が、より本人に近いような気がした。行動的で情熱的な、動的な女性だ。しかし、この時代の日本映画会社の看板女優は、人気が出たイメージの役を演じ続けることが求められた。原節子さんの有名なエピソードがある。黒澤監督の「羅生門」への出演依頼があって、本人は乗り気だったが、周りが彼女の清純なイメージを壊すのを恐れて断ったという話。それで、主役の女優は京マチ子になった。あの映画はカンヌで賞を取って、日本映画が国際的に認められる先駆けになったのだから、原節子としては忸怩たる思いだったにちがいない。

岸惠子本人が後年語っている。イブ・シャンピが言った「卵を割らなければオムレツを作ることはできない」というフランスの諺が、最終的に彼女の背中を押したという。岸さんの結婚と渡仏の決意の底には、単なる恋ではなく、閉ざされた日本映画界の中に閉じ込められそうな自分の殻を破って、更なる可能性を求めてやまない内なる渇望があったのだろう。ただ、あの時代である。彼女の行動が大きな波紋を呼んだであろうことも想像に難くない。それに、パリに行ってみたら、思った以上のカルチャーギャップに打ちのめされることもあっただだろう。けれども、彼女は必死にフランス語を勉強して習得し、フランス社会に溶け込んでいった。何よりも、言葉がわからなければ何もできない。適応していくまでの苦悩は、著書の「巴里の空はあかね雲」に詳しい。印象に残っている描写のひとつは、彼女は日本へ帰るたびに日本のお米を担いで(もちろん比喩だが)パリに戻ってきたこと。私も、こちらに来た当時、日本米のご飯や味噌醤油が恋しかったから、あの時代には比べられないとはいえ、気持ちがよくわかる。それにしても、彼女は優れた文章家である。国際結婚に伴う苦悩や、逆に地平が広がっていく様も描かれていて、一気に読ませる面白さがあった。ただ、異文化の中で苦労したとはいえ、彼女の幸いは、すでに日本ではスターだったこと、夫が裕福な文化人で広い人脈があったことだ。そういう基盤と本人の弛まぬ努力によって、日仏での更なる活躍の幅が広がっていった。女優に留まらず、文筆家としてもジャーナリストとしても活躍し評価された。とても才能のある人だったし、誇り高い人だったとも思う。晩年の小説「わりなき恋」を読んだ。岸惠子さんの人生に感じるのは、自分自身に対する深い信頼と揺るぎない評価である。この方は、「マイウェイ」という歌を歌うのに相応しい人だと思った。

この数年のうちに、昭和の戦争の時代に少年少女時代を過ごし、それを原点に、戦争に意を唱えた人々が続けて亡くなっていった。瀬戸内寂聴さんは、終戦時にすでに大人だったが、反戦を熱心に訴えた。終戦を多感な10代で迎えた大江健三郎さん、半藤一利さん、谷川俊太郎さん、仲代達也さん、美輪明宏さんも、それぞれのやり方で、戦争は決してやってはいけないと、わたしたちに示してくれた人たちだった。岸惠子さんも、ご自分の空襲体験が根っこにある。心からご冥福をお祈りしたい。

 

 

「ノルウェーの旅」総集編

今週のお題「行ってよかった旅行先」

ノルウェーの海

久しぶりにお題をテーマに書こうと思って見てみたら、なんと旅がテーマ。実は、6月にノルウェーに行って来ました。人生節目の誕生プレゼントで、息子との珍道中。すでに4回に分けて旅行記をブログに載せていますが、いい機会なので、総集編として4回分のリンクを一挙掲載することにしました。私の旅行記には、ホテルやレストランの紹介などはありません。旅をしながら体験して、そこで感じたことや思ったことを綴った旅のエッセイです。ちょうど夏至のころで、ノルウェーは白夜の真っ只中でした。お題で目に留まって、お時間のある方は、そうぞお読みください。

チューリッヒから飛行機でオスロへ飛びました。そこで一泊して、翌日、オスロから列車でベルゲンへ。ベルゲンにも一泊して主要な見所を観光しました。レストランの支払いでちょっとしたハプニングがあって、思いがけない場所を見学することになったり。そして、翌日の夜、ベルゲンから沿岸船でオーレスンまで。乗ったのはハヴィラの新しい船でした。快適な船室だったので、もっと乗っていたかったけれど、オーレスンの火祭りを見るために、翌朝下船。一泊して、翌日の朝、また船に。今度は、伝統あるフッティルーテンの船でした。それぞれの会社にそれぞれの特徴があるので、どちらにするかは、日程や予算、それと好みかもしれません。わたしたちは、オーレスンに6月20日に着きたかったので、選択の余地はありませんでした。21日にオーレスンから乗った船は、世界遺産のゲイランゲルフィヨルドのクルーズを含んでいたのが良かったです。船中一泊して、翌日は、大聖堂で有名な大学都市のトロンハイムに。次の日には、内陸の銅鉱山の町レーロスへ。今は、銅鉱山は廃坑になって世界遺産の町になっています。そして、一泊後に、また振り出しのオスロへ。全行程10日の旅でした。まさに、行ってよかったノルウェーの旅。下がリンクになります。

ノルウェーの旅 1 - スイス山里COSMOSNOMADO

ノルウェーの旅 2 - スイス山里COSMOSNOMADO

ノルウェーの旅 3 - スイス山里COSMOSNOMADO

ノルウェーの旅 4 - スイス山里COSMOSNOMADO

 

10年後の「わたし」への便り

猛暑の夏に涼しげな初冬の山の写真を載せてみる

久しぶりに「お題」をテーマに書こうと思って、週間はてなブログに行ってみた。だが、ちょっと様子が違う。「りっすん」というWebメディアが、「10年後のわたしへ『おたより』を」というテーマで募集しているものだった。応募しているエッセイを見ると、紅葉世代の10年後へのお便りは、「りっすん」が期待しているものとは違うような気がした。でも、とにかくテーマは面白いので、応募はしないけれど書いてみることにした。

 

10年後の「わたし」への便り

これから10年後のことを考えると、むしろこれは「あなた」へのお便りになると思います。10年前を振り返れば、今の「わたし」は、その頃の「わたし」からは予想もつかない「あなた」だったのですから。

これから10年、あなたが住んでいる世界の様子は、今のわたしの想像を超えているかもしれません。現在進行中の急速な変化を見れば、それは容易に察せられます。そんな世界で、あなたはどんな毎日を送っているのでしょうか。今のわたしが胸に抱いているビジョンを形にして、個人としてのあなたは、もう思い残すこともなく夕陽の美しさを味わっているのでしょうか。でも、陽が沈むのには、まだまだ早いかもしれませんね。

わたしたちは、子供の頃から今まで、大きなテクノロジーの変化を経験してきましたよね。もちろん、どんな世代も変化を経験してきましたが、わたしたちは、一生のうちで何回も質的な変化の中を生きてきたと思うのです。つまり、アナログからデジタルへ、そしてAIへという、社会の質的な変化を身を持って体験してきた世代ですね。ガリ版、和文タイプ、青焼きコピー、テレックスの時代を知っているし、ワープロ、ファクスを経て、パソコン、インターネット、電子メール、そして、今のスマートフォンと生成AIも、生活の中で普通に使っているわけです。印刷技術も変わりましたよね。覚えていますか?今、昔の文庫本を手に取ると、ほんとに文字が小さかった。それしかなかったから、そういうものだと思っていましたが、今の方がすべて読みやすくて、勉強しやすいですね。活版印刷から写植を経て、今はデジタルですね。電子書籍も普通になりました。知的好奇心を満たすハードルは、格段に下がったと思います。子供のころは、印刷技術のこともあって、本を読むのに忍耐力も必要だったけれど、今は格段に楽になって、知的な娯楽になり得る。小さな字が読みづらくなる年配者には歓迎すべきことです。あなたが、まだまだ本を読む意欲を持っていることを願っています。

このところの気候変動を見ていると、あなたがいる世界の自然環境は激変していると思います。食料や水の問題にも直面しているかもしれませんね。平和が保たれているといいのですが。環境破壊にテクノロジーでの解決が追いついているのか。AIロボットは、すでに出来ているのではと思いますが、それを扱う人間の倫理的向上が問われます。今までを見れば、技術は飛躍的に進歩しても、人間そのものは、昔とたいして変わってはいないのですよね。煩悩にまみれた人間が凄いテクノロジーを手にしたら、いったいどんなことになるのか恐ろしいことです。それと、世界的に民主主義がどうなっているのか。民主主義には、個々人の自覚と責任感が必要ですから、今の様子を見ていると10年後のことは見当もつきません。ただ、少なくとも、スイスでは民主主義が機能しているとは思います。故郷の日本でもそうであっていてほしいものです。まさかの憲法改定がされて、戦争のできる国になっていないことを祈っています。自然災害が頻繁にある日本の国防は、何よりも防災のはずですが、勘違いしている政治家が多いですからね。もし同級生たちが孫が可愛いなら、目を光らせていてほしいものです。あなたが、遠く離れた国の同窓会には行けなくなっても、デジタル手段でコンタクトを取っていられるといいですね。でも、ITの進歩による便利さは、クラッシュが来たら一瞬のうちに崩れ去る危うさと隣り合わせですから。少なくとも、あなたが外に左右されない精神の境地に達してくれていることを望んでいます。

昔、ヨガの先生が言った「人生があなたに何を問うているのか」という言葉が、時折浮かんできます。たぶん、精神科医でロゴテラピーの創始者ビクトール・フランクルの言葉を紹介してくれたのでしょう。人生は、自分で選ぶというより、何かが問いかけを持って向こうから歩いてくるような気がしています。これからの10年、どんな問いかけがあなたにやって来て、あなたはどう答えたのでしょうか。わたしは、「逆転の発想」という言葉もけっこう好きです。だから、なんとか乗り切って、やっぱり美しい夕陽に見惚れているあなたを見たいと思います。そして、またその茜色の先まで見つめているあなたであってほしいとも願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

あの大型船の行方は?

ノートブックのファインダーを整理していたら、こんなものが見つかった。日付を見たら、2017年7月。へえっと思って読んでみると、メタファーのお話というかエッセイだった。すっかり忘れていた。ブログを始める前は、書いたものは自分のコンピュータにしまっておくだけだったから。今も、かの大型船は大海原を迷走しているようだ。今の船長に舵を取らせてこのまま進めば、タイタニック号になってしまう。非常に危険な状態にあると心配している。10年近く前のエッセイだが、そのままブログに掲載してみる。

 

 大型船が広い海原を航海している。名前をニッポン丸という。座礁して持ち船が大破した経験のある船会社は、今度は全く新しい船を造り、新しい旗を掲げ意気揚々と航海に出た。しばらくは順風満帆の航海が続いた。さほど大きな嵐に会うこともなかったし、時には物騒な地域を航行することもあったが、平和の誓いを刺繍した立派な旗のお陰でさして危ない目に会うこともなく、なんとか航海を続けることができていた。また、座礁したときに乗り合わせていた乗組員もいて、船長をサポートしていたので、危険な水域を避けながら安全な航海を続けることができていた。ところが、問題は、会社側が経験から学ぶことなく、昔の船の方が良かったと考えている乗組員も乗せていたことだった。人格者が船長を勤めていた間は、その連中も船長の元でおとなしくしていたので、まだ良かった。ところが、その船長が体調を崩し、ある港で新しい船長に変わってから、船の走行に支障が出てきた。今までの船長は何があっても乗客の安全を第一に考えて、ゆっくりでも海図を見ながら安全な航路を取っていたが、新しい船長は乗客の安全よりも自分の手柄、つまり外国船と競い合い、目的地に一番乗りをすることを考えている人間だった。最短航路を取るためには、海図上の多少の難関も突破しようとしていた。そして、一番の問題は、この船長がコネでこの地位につき、船長としての正規の訓練を積んでおらず、きちんとした操縦の知識もないこと、それで前の古い船を誇りに思っている乗組員にたやすく唆されることだった。たしかに前の船は形だけは立派だった。どういうわけか大きな大砲さえ備えていた。だが、肝心なこと、一般乗客の航行の安全は二の次で、貴賓室の乗客の方にばかり顔を向けていた。そして、座礁の際も貴賓室の乗客と自分たち乗組員だけを救おうとしたのだった。

 さて、新しい船長になってから、かなり乱暴な操縦によって船は揺れることも多くなった。だが、船長は早く着くのだから我慢せよと言うばかりで、もう少し穏やかな航海を望む乗客の声に耳を傾けようとしなかった。このままでは、座礁の危険、あるいは航路を競う外国船との衝突の危険さえ出てきた。そして、そのときに船長はどう対応するか。この船長の人格、乗船してからの行状を見ると、船が沈没するときはいち早く救命ボートを出して、自分とその友人だけ乗り込むことだろう。船長は船と運命を共にする。だが、この船長は乗客を見捨てて自分の身の安全だけを図るだろうことは火を見るより明らかだった。乗組員たちでさえ見捨てられるだろう。最善の方法は、今のうちに船長を替えることだ。乗組員の中には船長になれる優れた者もいるはずだし、乗客の中にも船に関して知識のある人もいることだろう。このまま無理に航海を続けて沈没する前に打つ手はあるはずだが、さて、この航海の顛末は…?

 

 

 

 

ノルウェーの旅 4

 

ノーベル平和センターにて

翌朝、オスロに向かった。我々のホテルは、家庭的で多彩な朝食が自慢らしい。チェックインの時に、朝食は8時からと聞いて「まあ残念、電車の都合で8時にはホテルを出なきゃならないんです」と話したら、台所に頼んで7時半に準備が整うように手配してくれた。時間通りに降りていくと、地元の素材を中心に使ったご馳走が並んでいた。こんな朝食は時間を掛けてゆっくりと味わいたいところだが、仕方ない、急いで食べて、作ってくれた二人の女性に礼を言って駅に急いだ。町は小さいので観光には1泊だけで十分だったが、2泊したいようなホテルである。あのオスロからの女性客たちは、観光というより、ゆっくり過ごすために来たようだった。

レーロスからオスロまでの車窓には、私がイメージしていたノルウェーらしい風景が広がる。なぜか宮崎駿のアニメが思い出されて、久石譲の音楽をイヤフォーンで聴きながら、ぼんやりと眺めていた。中でも「ハウルの動く城」のテーマ曲が心にスッと入って来て、繰り返し聴く。なんだか心の奥の方から懐かしい気持ちが込み上げてくる。針葉樹と白樺が混じった森が車窓を流れる。白樺の木が、スイスで見るより細くて低いのが目についた。白樺は、森の再生の印なのだという。鉱山での仕事や生活のために木を伐った後に白樺を植える。白樺は、成長が早い木なのだそうだ。時々、小さな集落が視界に入って、また遠ざかっていく。たいていは、ブラウンレッドの木の家々だ。途中、ハーマルで乗り換える。そこからオスロまでは、1時間半ほどである。ミョーサ湖の湖畔を走って、オスロに近づいていくにつれて、車窓の風景には住宅が増えていった。

オスロには、午後1時半頃着いた。これで、また出発点に戻ったことになる。ただし、今回のホテルは、前のように市内ではなくて、電車で30分ほど行った郊外の住宅地にある。実は、市内を探したのだが、先週よりもだいぶ値上がりしていたのだ。後で知ったのだが、夏休みシーズンに入ったからかもしれない。また、ちょうどオスロ市内では、ロックコンサートとプライドフェストがあったからかもしれない。6月は世界的に「プライド月間」だという。ノルウェーでは、そこかしこでレインボーフラッグが掲げられているのを見た。オスロの市庁舎にも、国旗と市旗と並んでその旗が掲げられていた。それは「すべての市民が安心して暮らせる社会を目指す」というメッセージとして受け止められているらしい。ノルウェーは北欧諸国の中でも、人権や平等を重視する社会として知られているそうだ。これこそが、社会の基盤となり、円滑な社会運営を支える概念であるべきだ。いろいろな考え方はあっても、人権と平等という軸を揺るがせにすれば、社会は崩壊する。そして、政治家には、その理念に則った言論行動が求められるのが当然だろう。日本を見ていると、先進国の共通理念から離脱してしまって情けない。

オスロでは、国立美術館とムンク美術館、ノーベル平和センターを見学した。ムンク美術館は、新しくて13階建の大きい建物だ。中心部の港沿いに聳えていて、現代的なオスロを象徴する風景と言われている。2021年10月に開館したそうだ。それにしても、ムンクの作品には、有名な「叫び」のように精神的な苦悩を表しているものが多い。彼の生涯を誕生から死まで、書斎や生活品も交えて紹介している部屋があった。ムンクには、幼くして母や姉を病気で亡くした経験から、死や不安、孤独といった人間の内面をテーマにした作品が多い。精神的な不調にも苦しんだようだ。それにしても、同じように精神の不調に悩んだゴッホなどと違って、生前に有名になったのは、彼にとって経済的にも幸いだったと思う。ゴッホ自身は、自分の絵が後にものすごい大金で取引されるなどとは、夢想だにしなかっただろう。モジリアーニだって、精神的不調と貧困の中で自死しているが、死後は有名になっている。生前に報われる画家はそう多くはない。人生は往々にして理不尽だ。

ノーベル平和センターには、歴代の受賞者の写真やパネルが展示されていた。その中に2024年に受賞した日本被団協のものがあって、喜ばしい思いがした。核兵器禁止条約に署名していない政府の反応は微妙だったが、天皇陛下は今までの活動への労いと、お祝いの言葉を述べておられたと記憶している。敬宮愛子内親王が15歳の時に広島を訪れた際の作文「世界の平和を願って」を思い出す。その中に、唯一の戦争被爆国である日本の人々が、世界にその体験を伝えていく大切さ、平和は自然に与えられるものではなく、一人一人が考え、行動して築いて行くものだ、という思いが綴られていた。日本被団協の活動は、まさにその理念に則るものだ。

市内に行くには少し時間が掛かるにしても、あの郊外のホテルにしたのは正解だった。ホテルは高台にあって、遠くにオスロ湾が見渡せる。真夜中に沈む夕陽が美しい。オスロには2泊、ノルウェーの旅の泊まり納めとなるホテルを楽しんだ。宿泊と食事は、旅の良き思い出を左右すると思う。紅葉世代には尚更かもしれない。私はグルメでは全くないので、点は辛くないかもしれないが、今回の食事はとても楽しめた。何より、魚料理が堪能できたから。ノルウェーは、何といっても水産漁業の国。行く前から、美味しい魚を期待していたのだ。フィッシュスープ、フィッシュケーキ、フィッシュ&チップス、新鮮なSushiとSashimi、鮭の料理、新鮮な魚の丸ごとグリル等々、美味しかった。それと、ノルウェーのブラウンチーズを挟んだパンケーキも。かえってグルメじゃない方が、旅の料理に満足できるのかもしれない。

いい所を訪ねると、また来ようと思う。でも心の中では、もう二度と来ることはないだろうと感じている。なんだか切ないが、人生で起こることって、繰り返しはないのだろう。だから、その時その時を大切にしなきゃと、頭では思っている。ただ、ほんとに大切にできてるのかはわからない。とにかく、ノルウェーの旅楽しかったあ、という気持ちは心のページに書き込まれた。

 

 

 

ノルウェーの旅 3

ニーダロス大聖堂

まずは、バスで郊外の野外民俗ミュージアムに行ってみた。閉館時間まで1時間弱だったので、広い敷地を駆け足で回る。昔の薬屋さん、郵便局、カフェ、写真館などなど、古い家々が当時の様子を彷彿させるように建っていて、とても面白かった。そこを出て調べると、同じバス路線で大学まで行ける。トロンハイムは大学の街ということなので、見に行ってみることにした。夏休みに入っていたのか、閑散としていたが、印象的な建物が立っている。本館だった。外から記念に写真だけ撮って、キャンパスを出た。川沿いの道を歩いて次の目的地に向かう。

有名なニーダロス大聖堂は、ぜひ見学しておかなければならない。この教会は、ノルウェーを代表する宗教建築だという。ちょうど雨が降り出したので、中でゆっくり見学させてもらう。ステンドグラスがとても美しくて印象的だった。とくに、西正面の大きなバラ窓が素晴らしい。興味深いことに、現在見られるステンドグラスの多くは中世のものではなくて、20世紀初頭に作られたものなのだそうだ。この大聖堂は何度も火災にあって、宗教改革後には多くの装飾も失われたのだという。19世紀から始まった修復で、新たなステンドグラスが制作されたのだそうだ。

面白いと思ったは、教会内には数人の臙脂色のガウンを来た若者がいて、教会の説明をしてくれることだ。偶然にも、栗色の髪の黒縁の眼鏡をかけた真面目そうな青年が、小さなグループに説明をしていたので聞かせてもらった。私たちは途中からだったので、終わった後に、また人待ち顔で立っていたその青年に、聖オーラブの伝説についてちょっと質問してみた。1030年に戦死したノルウェー王オーラブ2世の墓の上に最初の教会が建てられて、これがこのニーダロス大聖堂へと発展したそうだが、その王がどうして聖人になったのかということ。オーラブは戦死した後簡単に埋葬されたが、約1年後に遺体を掘り起こしたところ、腐敗しておらず、髪や爪が伸びたように見え、顔色も生前のようだった、また、墓のそばで病人が癒されるだの奇跡が起こったことで、人々が驚き崇めた。これを受けて、当時の司教がオーラブを聖人として認め、その墓の上に教会が建てられたそうなのである。ただ、その墓の中に現在もオーラブが安置されているわけではないそうで、一つの奇跡の物語としての伝説であろう。ハラリ氏の本を思い出すが、人類は物語を作って、それによって歴史が動いていく。最後に、あなたは学生さんですか、と聞いてみた。推察通りそうだったが、大学の街トロンハイムで勉強している学生たちが、知識を披露しながら学業の傍ら働ける取り組みは、とてもいいアイデアだと思った。臙脂色のガウン姿は、若い聖職者にも見えて、大聖堂にアクセントを添えている。

有名な跳ね橋付近を歩いた後、寒かったので一旦ホテルに戻って休憩。それから、旧市街まで夕食に出掛けた。レストランの候補が二つあったが、最初に行った店は、30分後には閉めるのですが、と言う。それで、その次に行ったのが当たりだった。パブ風の店で、そこで食べたフィッシュ&チップスは、魚の衣がパリッとしていて最高に美味しかった。トロンハイムの日没は23時半頃なので、一泊でもいろいろ回れて満足感があった。

翌日は、電車に乗って内陸部のレーロスに向かった。トロンハイム駅から一区間線路工事だったので、鉄道の振替バスに乗る。街中を走ったので、トロンハイム全体を見ることになって、かえってよかった。次の駅から電車に乗ること2時間少しで、レーロスに到着。レーロスは、銅の鉱山で有名な町だ。1644年から1977年まで、実に333年間に渡って採掘と精錬が続けられた。ノルウェーを代表する銅鉱山として発展したが、銅価格の低迷によって採算が取れなくなって閉山した。その後、長年に渡って形成された独特の鉱山文化と景観を残す町として世界遺産に登録されて、内外からの観光客が訪れている。

我々が泊まったのは、小さいながら歴史あるホテルだった。部屋も可愛らしくて、私のイメージの中の北欧風だった。レセプションの女性がとても親切で、町の歴史を説明してくれる。また、宿泊客用の居間には、コーヒーとお茶、そして可愛らしいケーキが置いてあって、自由にいただくことができるようだ。町そのものは小さいので、半日もあれば見物できる。町並みと鉱山施設が昔のままに残されていて、施設はミュージアムになっている。銅の採掘と精錬の様子がミニチュアで再現されていたり、外にそのまま残されていたりした。

昼食に食べた乳製品の名物料理がちょっと重かったので、私は夕食を食べに行かずにホテルに残った。宿泊者用の素敵な居間でお茶とケーキを楽しむ目論みもあったし。外は寒く、暖炉には火が焼べられていた。一人でソファに座ってお茶を飲んでいると、50歳くらいの女性の二人連れが「ここ、空いてますか?」と話しかけて来た。「どうぞ」と言うと、テーブルを囲んだソファに腰を下ろして会話が始まる。彼女たちはノルウェー人で、オスロから週末を過ごしに来たのだと言う。子供の頃からの仲良しさんだそうだ。

一人は、この春に家族と日本へ行ったと言うので、日本の話にもなった。日本を訪れた観光客は、たいてい良い印象を持って帰ってくる。まあ、いざ日本に住むとなると、その感想も変わるのだろうけれど。とにかく、日本から戻って間もないので感動冷めやらずか、いろいろ質問された。中でも、日本語という言葉のこと、神社やお寺が印象に残ったらしい。日本語についていろいろ聞かれたので、言葉の構造を説明する。また、日本に神道と仏教が共存していることは興味深いようだ。こちらでは、一般の人には仏教と言っても一把一絡げだが、日本に伝わったのは大乗仏教である。それで、大乗仏教について少し詳しくお話しした。一人は、仏教についてもある程度知っていた。聞けば、小学校の先生だと言う。ノルウェーの小学校では、広く浅くではあろうが、世界の宗教についても子供達に教えるのだそうだ。子供たちが、世界にはいろいろな考え方の人たちが共存しているのだと知ることは大事だ、と言う。

私からは、北欧3国の言葉のこと、冬の夜長の過ごし方も聞いてみた。デンマーク語とスウェーデン語とノルウェー語は似ているそうだ。兄弟言語と呼べるぐらい近くて、書き言葉はかなり似ているという。特にノルウェー語は、他の二つの両方に通じるものがあるそうだ。それから、冬の夜長のこと。昨日行ったトロンハイムの冬は、2時半ごろから暗くなるというが、彼女たちが住んでいるオスロでは3時半頃らしい。いずれにしても、早い。私としては、気分が落ち込まないかなと気になるところだが、二人とも、夏もいいが冬も好きだと言っていた。本を読んだり編み物をしたりビデオを観たり、インドアで楽しめることをして過ごすそうだ。思いがけず、現地の人たちとじっくり話ができて、楽しい宵になった。 (4に続く)

 

ノルウェーの旅 2

翌朝9時45分にオーレスン到着。意外にも我々だけじゃなくて、ここで乗り降りする人もいた。出港時刻ギリギリに乗り場に来た人が間に合わなかったこと。もう乗下船用通路が収納されてしまっていた。確かに、船が出るのが10時だとしたら、少なくとも10分前に来ないといけないだろうが、お気の毒なことではあった。私たちは、明日は20分前にはここに来ようね、と頷き合った。

船着場からすぐのホテルを予約しておいたが、まだ部屋には入れなかったので、荷物を預けて街歩き。この町は、アール・ヌーボー様式の街並みで有名である。1904年に大火が発生して町の大半が焼失、その後3年かけて復興された。その際に、当時流行していたこの様式が採用されたのだと言う。そんな建物の一階に入っているベーカリーで買ったパンケーキが格別美味しかった。オーレスンの歴史を知ることができるミュージアムも訪ねてみた。海と共に生きてきた町の様子がよくわかる。大火災とその後の復興の様子も詳しく展示されていた。オーレスンは、ノルウェー西岸の豊かな漁場を背景に、漁業と水産加工、海運によって栄えて来た港町である。

しかし、この町に立ち寄った何よりの理由は、夏至の火祭り。今年は6月20日の土曜日の夜に行われるということで、オーレスン訪問をそれに合わせた。ノルウェーでは、毎年6月23日の聖ヨハネ祭を祝う習慣があって、オーレスンではその祭りの日に最も近い土曜日の夜に火祭りが行われる。世界有数の巨大なかがり火で、数週間前から地元の若者たちの手で、40メートルくらいの木製の塔が組み上げられるのだそうだ。夜の9時頃に火が付けられてから、燃え尽きる夜中まで人々が見守る。そういうお祭りだから、昼間もさぞお祭り気分で賑わっているのだろうと思ったら、そうでもなかった。火祭りが行われるのが9時だから、夜遅くなってから人が出てくるのだろうか。実は、塔が組まれるのはかなり離れた郊外の広い草地らしい。町の対岸にあって、そこまで行くには歩いて1時間半以上掛かるという。バスもあるが、停留所からも結構歩くということで、寒いところ何もない外で数時間待つのはキツイと思って、私は行かないことにした。湾にはたくさんの舟が浮かんで、そこから見ることもできるようだ。街中にある丘からも遠目に見えるが、丘の上のレストランは閉まっているし、昼間登った480段の階段をまた繰り返す気にはならず、そこまでして見なくてもいいので、ホテルに残った。何よりこれは息子のリクエスト、彼一人なら身軽に動き回れるし、案の定、帰りはアプリで電動キックボードを借りて、あちこち回って帰ってきた。とても寒かったし、屋台もトイレも見かけなかったと言うから、この決断は正解だった。

翌朝9時45分に、ベルゲンから来た船に乗る。今度は、フッティルーテン (Hurtigruten) の船である。前に乗ったハヴィラは新しくて、2021年から沿岸航路に参入したが、この会社は1893年の創業だそうだ。ベルゲンからキルケネスの定期沿岸航路を分担して運行している。だから、一昨日乗った船と今日乗る船は違うことになるのだ。今度の船は、ハヴィラと違って1993年に造られたものなので、全体に古い感じは否めなかった。船室も、ソファとテーブルもあってビジネスホテルの客室の感じだった前の船と違って、これぞ昔の船室、といったキャビン感満載。1泊だけならいいが、このキャビンで1週間はちょっと狭いかなと思った。ただ、ラウンジはたくさんあって、大抵の人はそこで過ごしているようだった。途中で、スイートが空いているので、ご希望の方は見に来てください、というアナウンスがあった。1泊だけの私も、どんなものかいという興味で見に行ってみた。たしかに広さはあるし、こちらはホテル部屋のようだったが、グレードアップに1泊500ユーロだと言う。ということは、1週間だったら3500ユーロの割り増しになるわけだ。お金のある人には何でもないかもしれないけれど。私だったら、ベルゲンからキルケネスまで下船しないで行くのだったら、最初からハヴィラの新しい船にしておく。ただ、たまたまかもしれないが、今回の従業員のサービスは、フッティルーテンの方が感じがよかった。特に、レストランのサービスは良かった。我々のテーブル担当は、この船が仕事始めだという、金髪でノルウェー人らしい顔立ちの若い女の子だった。なんだか、環境運動家のグレタさんのような雰囲気。料理の追加リクエストをすると、上司のサービス係の男性がやってきて、快く応じてくれた。

この船は、オーレスンを出航してから、七姉妹の滝で有名な世界遺産のゲイランゲルフィヨルドを巡って、またオーレスンに戻り、それからトロンハイムに向かう。フィヨルドを運行する時、風が強くて寒かったが、滝を見るためにちょっと甲板に出た。吹き飛ばされそうな風だった。船はゆっくりとフィヨルドを左右に見ながら進む。スイスにも、フィヨルドに似た景色があるが、それは氷河が削った谷に淡水が溜まった湖で、同じ氷河が削った谷でも、海につながっているフィヨルドとは違う。丸一日船上でキャビンも狭いので、ラウンジで過ごした。息子は、ジムやジャグジーも楽しんだ。夜、と言っても明るいが、またオーレスンに戻ってしばらく停泊。その短時間に、息子はもう一度電動キックボードを借りて、見残した所を回ったのだから、好奇心があると言うか物好きと言うか。夜中は、外洋に出たのか少し揺れた。キャビンがキャビンだけに、これぞ海って感じだった。

トロンハイムで下船する人たちは、翌朝8時にはキャビンを出なければならないと知った。けれども、9時45分にトロンハイムの港に着いても、市内観光のために一旦船を降りる人たちがいるので数時間停泊。それで、我々もすぐに降りることもなく、ゆっくり朝食を取ることができた。船内で何回か東洋人の男性を一人見かけていたのだが、日本人とは思わなかった。でも、その人が電話で日本語を話していたので、あら、日本人なんですね、と声を掛けてみた。何でも仕事でスウェーデンまで来たのだが、ついでにノルウェーまで足を伸ばして、今日また戻るという話。40代から50代くらいだろうか、自分で会社を持っている方だった。けっこう話した。日本も生活が大変になってきていて、子供たちは海外で仕事をして暮らしたいと言っているとも。そして、歳を取ったら美味しい食べ物がある日本に戻って来るとか、まあ、冗談半分だろうが、そんな話にもなった。海外で日本人に会うと、私は今の日本の状況を聞いてみる。あんな政治が続けば、食料自給率が低くて輸入に頼ってる日本、将来も美味しい日本食なんて言ってられるかなという気もしたが、それは言わなかった。この方は、ノルウェーの旅で見かけた唯一の日本人だった。何しろこの円安では、海外に遊びに来るのも、富裕層以外には難しいのではと思う。あの一億総中流、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本が、、、と思うと切ない。

トロンハイムの港からホテルまではちょっと距離があったので、タクシーを頼んだ。ちょうどアメリカ人の女性が一人、我々と一緒に降りて横に立っていた。駅までのタクシーを探していたようだ。どうせホテルが駅の向こうなので、同乗を誘った。何でも、オスロで行われた宗教の会議に参加した後、帰国前にベルゲンからトロンハイムまでの船旅をしたのだそうだ。そして、これから列車でオスロまで戻るという。その宗教会議で講演したと言っていたが、残念ながら詳しく話を聞く間もなく駅に到着。さて、ホテルは、ベルギーに本拠があるホテルチェーンで大きかった。レセプショニストの女性が親切だったので好印象を受ける。チェックインの時間にはずっと早かったのだが、掃除の終わっている部屋を探してくれて、部屋に入ることができた。前日の船ではよく眠れなかったので、配慮がありがたい。部屋で休んだ後、街に出掛ける。さあこれから、昔ノルウェーの首都で、今も宗教的に重要な位置を占める、ノルウェー第3の都市トロンハイム見物である。 

(3に続く)