スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

お餅の季節

今週のお題「餅」

お餅といえば、やはりお正月、というかお正月といえばお餅である。子供時代を思い出す。鏡餅は、父が準備して飾りつけたものだ。私が子供だった頃は、コンビニなどはなかったし、三が日は商店街もお休みで、母親たちは年の瀬におせち料理を作って、三日間の食事を用意した。いろいろとあったが、なかでも母の旨煮の味は忘れられない。三が日の朝は、みんな揃ってお膳を囲んで、お雑煮、昆布茶、黒豆、田作り、蒲鉾やお生酢その他諸々。お餅は、おやつにも食べた。一番好きだったのは辛味餅で、大根おろしにお醤油をかけて餅に絡めたもの。甘いお汁粉よりも好きだった。子供の頃から、辛党の気があったのかもしれない。

好みというのは面白いもので、必ずしも親から子に直接遺伝するものでもないらしい。というのは、息子はこちらで育ったくせに、大福とか白玉とか餅系のお菓子が好きなのだが、私は子供の頃から洋生菓子の方が好き。いつでも食べられたわけではないけれど。大福などは、こちらに来てから食べるようになった。つまり、どちらかといえば郷愁ゆえか。こちらでも、和菓子を作っている方がいる。バザーなどに出品していて人気のスタンドだ。そんな時に息子のお土産に買ったり、日本食料品店の冷凍ものを買ったりした。ある日、息子の寝顔を覗いていたら「お団子〜」と寝言を言った。小さい息子を連れて里帰りしていたから、その時に覚えた味である。そういえば、母は大福やお団子が大好きだった。そうか、隔世遺伝か。待てよ、小さい時に食べて美味しかった味は残るのかもしれない。あのモチモチ感が好きみたいだ。でも、母が好きだったということは、私も食べる機会はけっこうあったはずなのに、餡子ものはそんなに好きでもなかった。ということは?やはり持って生まれた好みがあるのかしら。そんな私が、一度腕を振るって?お団子を作ってみた。息子は楽しみにしていたのに期待が外れて半泣きの顔。本場のお団子とは違っていて申し訳ない。幼い頃のことだが、今でも思い出すと笑ってしまうというか、胸がキューンとしてしまう。以来、白玉粉に切り替えて、餡子をかけたり、甘辛醤油にこちらのMeizenaというとうもろこし粉でとろみをつけたり。それは、いつも喜んでくれたものだ。私はと言えば、苺のショートケーキが大好きで、日本で食べるのを楽しみにしている。こちらには薄力粉がないので、どうしても食感が重くなってしまう。日本のケーキはふんわりしていて美味しい。こちらのしっかりしたケーキも美味しいには美味しいが、私にはちょっと重くて甘すぎる。

もうすぐお正月がやってくる。お餅を買いに行かなくちゃ。値段はかなり高いが、日本食料品店で手に入る。少なくとも、元旦にはお雑煮を作っているし、お餅を焼いて甘辛両刀で食べたりもするので。日本にいたら、お餅にはあまりこだわりがなかったかもしれない。が、海外生活ゆえに懐かしさがあるのだ。こちらの日本人学校では父兄の手を借りて餅つき行事をしていた。今も続いているのかどうかはわからないが。それから、もうずいぶん昔のことになるけれど、チューリッヒの東洋美術館で日本祭りをした時には、日本人会の方たちが舞台の上で餅つきを披露して好評を博した。やはり、お餅は日本的なのだ。

 

クラブハウスの栄枯盛衰?

クラブハウスという音声SNSがある。2020年にアメリカで立ち上げられて、日本では2021年1月から大きなブームを巻き起こしたという。ちょうどコロナで自宅待機や外出自粛の時期だった。日本上陸当時は、招待制という特別感、有名人も参加していて直接話せるという興味もあって、多くの人の関心を集めたらしい。創立者は、日本での利用者急増を予想してなかったらしく、アプリの日本語での対応に追われたとも聞いた。クラブハウスの説明は、基本英語である。だから、最初は日本の利用者たちはそれぞれ模索しながら、互いに使い方を教え合うルームなどを開いていたようだ。

私は、2021年の4月から始めた。きっかけは、本当にたまたまのことである。こちらの日本人コミュニティーに、クラブハウスの招待券を差し上げます、という告知をしている人がいた。うん?クラブハウス?何それ?最初、ダンスクラブか何かと思ったが、読んでみて新しい音声SNSだというのはわかった。そこで、息子に、使ってる?と聞いてみたところ、アクティブには使ってないけど、一応アプリはインストールしていると言う。そして、僕が招待者になってアプリを入れてあげるよ、とサクサク進めてしまった。当時、私は遅ればせながらもデジタル元年を標榜していたので、ちょっと戸惑いながらも、ま、いいかと受け入れる。そして、恐る恐るプロフィールを書いて使い始めた。当時は、ホームラインに部屋(ルーム)が並んでいて、好きな時に好きなルームに入って、話を聞いたり自分も話したりできた。自分でルームを立ち上げるのも簡単で、たくさんの人たちの色々なルームがあって、覗いてみるのも楽しかった。あの時分は、ちょうど人が集まる催し物が出来なかった頃だ。音楽家が集まって遠隔操作で演奏をする部屋もあったりした。とても質の高い演奏で楽しませてもらった。また、仏教のお坊さんたちの部屋や、医療関係の人たちの部屋、話題のジャーナリスの方たちも参加して毎回論議する部屋など、かなり内容の濃い部屋も。あと、ビジネスのアドバイスをする部屋もあった。私は畑違いだが、主催者の方が感じがいいので、時々参加してみたりもした。また、ある若手の書道家の部屋には何百人も集まっていた。彼はかなり感情の起伏が豊かな人のようで、自分はクラブハウスに救われた、もう泣いて創業者に感謝するなどとも語っていた。そういえば、コロナが去った後はリアルが忙しくなったのだろう、とんとお見かけしなくなったが。もうクラブハウス中毒、住み込んでます、などと言う人もいたものだ。やはり、コロナの時期、みんなコミュニケーションに飢えていたのだろう。それに、なんでも出始めの頃は熱量が大きいものだ。最初はiPhoneのみの対応だったが、21年の夏頃からはAndroidにも対応するようになって、すでに入っていた人たちで歓迎の催し部屋もやっていた。みんなが、わからない人たちに教え合って、和気藹々とした雰囲気だった。考えてみれば、声ひとつで時空を超えて繋がるなんてアプリは目新しかったのだ。一方通行の音声発信はあっても、生で初めての人とも会話ができるなんていうのは画期的だったのではないか。中には、クラブハウスを通して結婚にまで至った人たちもいたらしい。また、クラブハウスの交流がきっかけで本を出版したとか、ビジネスに繋がったという話も聞いた。それだけ、最初の頃の熱気と繋がり感は大きかったということだろう。

けれでも、何かが流行ると必ず似たものが出てくるのは世の常。Twitterにも会話機能がついたし、他にも追随はあったのではないか。クラブハウスも招待制がなくなり、必ずしも本名を使う人ばかりではなくなり、最初の頃のどこかピュアな雰囲気から少しづつ変わっていったような気もする。その後ハウスが出来て、まあそこまではいいとして、それからまたまた機能が付け加わったり変わったり、複雑になってきた。しばらく使わない間にずいぶん変化して、今はかえって使いにくくなったので、あまり利用はしていない。どのくらいの人が残っているのだろうか。クラブハウスの創業者はどうやって収益を上げているのだろうか。経済的に行き詰まってはいやしないか。スタートアップ企業へのフォローはどのくらい続くのだろうか。ま、私が心配することでもないのだが、ちょっと気にはなったこと。久しく、ブームはもう去ったとも言われているし。

次々と新しいストリーミング機能やSNSが出てきている。そういった会社が生き残るにはなかなかに熾烈な戦いがあるのだろう。最近Spotifyについての新聞記事を読んで、ネットフリックスでドラマを観たから、余計にそう思う。

 

チーズフォンデュ

今週のお題「紅白鍋合戦2023」

スイスの鍋物と言ったら、それは何を置いてもチーズフォンデュだろう。寒い冬の日に、みんなで熱々のフォンデュ鍋を囲んで食べるのは楽しい。作り方もシンプルだし、お客さんを招く敷居も低くていいものだ。和食でお客さんをすると、いろいろと準備や調理に時間が掛かってしまうから、エイヤっと気合がいるが、これならほとんど手間がいらないので、思いたった時に気軽に招ける。

先日は、友人一家の家でチーズフォンデュをいただいた。11月の村のカブ祭りの後は、そこのお宅でフォンデュの夕食会をするのが恒例になっている。その時々によって、招かれるメンバーは少しずつ違うけれど、息子の代父をお願いした友人はいつも私達に声を掛けてくれる。そこは、村のチーズの専門店でチーズの特別ミックスアレンジをしてもらっている。なかなか濃厚な味だ。何種類も混ぜてあるが、何のチーズだろう。奥さんがニンニクが大好きなので、ニンニクを擦り下ろさずにそのまま鍋に入れてチーズと一緒に煮る。そして、フォンデュフォークで刺してチーズを絡めて掬い取るのだ。これがなかなか美味しい。友人宅では、ピクルスや野菜はない。ひたすらチーズ、チーズ。それに、飲み物として白ワインかキルシュ、あるいはハーブティーが付く。この間のお茶はほんのり甘味があって美味しかった。イタリアンレモンティーで、ミグロなどのスーパーで売っていると教えてもらった。後日、さっそく買いに行って、今はマイブーム真っ最中。ついこの間の、日本人の女子大生が来た時に出したら、今まで飲んだ中で一番美味しいハーブティーと感激していた。

チーズフォンデュは、各家庭で若干チーズの合わせ具合が違うらしい。我が家は、エメンタールチーズとグリュイエールチーズのミックス。まあ、一般的ではある。一度アッペンツェルチーズを試してみたが、ちょっと塩辛かった。茹でたブロッコリーやピクルスなども添えて食する。チーズフォンデュの時に飲むワインは、たいてい白ワインのファンダン。普通フォンデュには白と言われているが、別に赤だって構わない。これは好みの問題だと思っている。現に、夫は白ワインは身体に合わないので、もっぱら赤ワインを飲んでいる。初めて食べた時、水を合わせるのは良くないと聞いた。だからアルコールがダメな人はお茶というわけだ。

ホンデュシノワーズも、人気の鍋だ。日本のしゃぶしゃぶみたいな物である。薄切りの牛肉を専用の長いフォークに刺し絡め、ブイヨンに潜らせて掬い上げて、いろんなソースを付けて食する。クリスマスなど、家族が集まる時に食べる事が多いようである。肉料理でちょっと豪華だが、主婦にはあまり手間が掛からないのが人気なのかもしれない。

スイスに来たら、やはり一度はチーズフォンデュを食べてみたいというのが、ツーリストの思いだろう。だから、本来は冬の風物詩なのだが、チューリッヒのチーズフォンデュのレストランなどには、夏でもお客さんが並んでいる。ラクレットも、クリスマスマーケットの屋台の定番でもあるが、季節を問わず人気の食べ物だ。やはり、何と言ってもチーズはスイス、スイスと言ったらチーズ。チーズ、ヨーグルト、チョコレートはスイスの右に出るものはないかな?とはスイスが第二の故郷になった者の言である。

「ザ・クラウン」や「プレイリスト」を観て湧いた色々な思いについて書いてみる

ネットフリックス「ザ・クラウン」の最終シーズン6の配信が始まった。パートを二つに分けて、11月16日と12月14日に配信。シーズン5からかなり間が開いた感じだ。エリザベス女王の物語は見応えがあった。一本筋の通った人間の生き方。だが、ダイアナ元妃の登場となると、英王室が抱える問題は微妙で、いろいろ調整があったのかもしれない。私としては、ネットフリックスの視聴を始めた元々の理由は、この「ザ・クラウン」にあった。それで、ずいぶん長らく待たされた思いだ。「ダウントンアビー」は面白かったが、他にこれを観たいというものも特になかったし、そろそろ解約しようかとも思っていた。最初の頃は今よりも観ていたが、どうもネットフリックスシリーズ物の過激な描写が肌に合わず。たまに観るのはもっぱら夢あり系のアニメに落ち着いていた。

さて、待っていた「ザ・クラウン」最終シーズンのパート1は全部見終わって、あとはパート2を待つばかり。パート1は、ダイアナとドディ氏の話で、最後は、あのあまりにも有名な葬儀とエリザベス女王のスピーチで終わる。1997年のことだから、今からもう26年も前のことになる。あの事件は衝撃的だった。そして、あの時も思ったことだが、世界中のあの悲しみようにかすかに違和感を感じた。今回観て再度感じたのは、人々は有名人の悲劇の物語に心動かされるのだということ。もちろん、ダイアナさんの死は大変痛ましい。若くして最愛の息子たちを残して逝ってしまった。公爵夫人を夢見て結婚した世間知らずの若い貴族の女性。それが夫の裏切りに会い、苦しみながらも因習の残る王室で孤立無縁。彼女の愛されたいという気持ち、承認欲求を満たしてくれたのは大衆だったが、逆にそれが仇となってパパラッチに追いかけられるようになる。大衆はダイアナの写真と話題を求め、それを提供する者たちには莫大なお金が入った。ちょっとした違和感は、感情に流される大衆の姿だ。あの献花の数、抱き合って泣く人たち、まるでデモのように街頭を埋め尽くしバッキンガム宮殿を囲む人たち。でも、同じ大衆が、今も戦争で亡くなっている人たちを悼むために、あれだけの数で街頭に出て肩を抱き合い涙を流し献花をするだろうか。言ってみれば、ダイアナよりも若く美しく賢く優しいのに殺されていく無名の女性たちだってたくさんいるはずなのだ。もし、大衆があれだけのエモーションで戦争反対を叫んだならば、世界を救えるだろうか。

パート2では、ウイリアム王子とキャサリン妃の出会いとその後に焦点が当てられていくらしい。キャサリンさんは若くてもだいぶ大人な感じだったが、さてどう描かれているのか楽しみである。ところで、チャールズ皇太子の若い時の俳優さんはそっくりだったけれど、このシリーズでは全くご本人とは違う外見の俳優さんが演じている。たぶん、あまり似過ぎていると生々しくなるので、意図的に避けたのかもしれない。

次は「プレイリスト」である。最近、Spotifyについての新聞記事を読んで、この作品に興味を持って観始めた。新聞記事の見出しは、Spotifyの大きな間違い、と言うもの。私はあまり縁がないが、この音楽ストリーミングを利用している人は大変多いらしい。このSpotifyは、ダニエル・エクという人が15年前に立ち上げたスエーデンの会社だ。この創立は、音楽業界を根底から変えてしまった革命とも言えるものだそう。エクは、音楽だけでなく、音声コンテンツ全体への進出を図っているということだ。ただ、収益は損失していると言う。この「プレイリスト」がどういう作品になっているのか見ものである。Spotifyについて観たり読んだりして思うのは、こういったITというかデジタル関係の会社を立ち上げる創業者は、皆強い個性の持ち主だということ。何と言われても絶対に自分の信念を曲げることなく突き進んでいく。妥協をしない頑固者でもある。だが、本当に賢明な人間は真の曖昧さの価値を知っている。彼らが、自分の利益だけでなく人類の幸福への視点を持っている場合はいいが、もしそうでないならば、いや、初めはそうでもそうでなくなっていくならば、その危険性は計り知れない。AIだってそうだ。世界の方向性と私たちの運命が、一部のIT天才?たちに握られていると考えると、ちょっと薄気味悪いものがある。

チューリッヒで黒澤明「生きる」を鑑賞


スイス・日本協会という文化交流団体主催の日本映画上映会があった。上映作品は、黒澤明監督の不朽の名作「生きる」。1952年の作品で、志村喬が主演している。雪降る公園で、ひとりブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌うシーンは、あまりにも有名だ。志村喬は、数多くの黒澤作品に出演している。今回、この映画を見返してみて、あらためて名優だと思った。「いのち短し、恋せよ乙女…」と、掠れ声で歌う姿は、人生の意味を問うて味わい深い。

志村喬演じるこの映画の主人公は、ある市役所の市民課の課長をしている。なんの熱意もなくお役所仕事を何十年も続ける毎日だった。ある日、胃の不調を訴えて病院に行った彼は、胃潰瘍だと医者に言われるが、実は胃癌に違いないと確信する。同居している息子夫婦にも打ち明けられず、当時は死の宣告同然だった病に自殺さえ考えるがそれも出来ず、大金を下ろして街を彷徨う。そして、ある飲み屋で知り合った小説家に打ち明けることになる。「自分は今まで生きていなかった」と言う彼に、小説家は存分に享楽を味合わせようと、メフィスト役を申し出る。夜の街を案内して、パチンコ屋、ナイトクラブ、ストリップ劇場、快楽の場所を回るのだ。喧騒と女たちの艶やかな肢体。主人公の男は生涯無縁だった世界を知るが、それも一時の憂さ晴らしに過ぎない。自分は妻に死に別れた後、男やもめとして一人息子を育てるために人生を捧げてきた。しかし、息子の結婚後はなんとはなしに距離ができている。いったい自分の人生は何だったのか、自分は今まで生きてきたと言えるのか。

 

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日(あす)の月日は ないものを

 

自分は何もせぬまま、何も残さぬまま人生を終えていくのか。彼の心は、どうしようもない虚しさと焦燥感に苛まれる。そこへ、辞表を出しにきた女子事務員との交流にも後押しされて、彼はある決意を固める。残された命を本当の仕事をするために捧げるのだ。その頃、地域の母親たちが近隣の不衛生な環境に困り果て、土地を整備して子供達のために公園を作ってくれるよう市役所に陳情を重ねていた。しかし、どこの課も全く取り合ってくれず、たらい回しにされるばかり。病気を得るまでの主人公もそんなお役所仕事組だったが、残された時間を本当に「生きる」ために、彼は公園の実現に尽力することを決意。しかし、何事も上を仰がなければ決められない官僚主義が立ちはだかる。彼の葬式に集まった同僚たちの口から様々に語られる思い出話から、主人公の苦労が再現される。事なかれ主義、利権、そして成功した暁にはすべてが上の者の手柄にされる文化。主人公はこの事業を全身全霊で完遂したが、所詮一課長にすぎないと。そんな時、母親たちが焼香させてほしいと訪ねてくる。泣きながら線香をあげて感謝の言葉を述べる。彼女たちは知っていた、公園を作ったのは他でもない主人公の尽力だったということを。そして、最後にその夜の巡回をしていたお巡りさんが現れる。彼の証言で、主人公の男が雪の公園でひとり「ゴンドラの唄」を口ずさみながらブランコを漕いでいたことを。あの時声を掛けていればと、巡査は涙ぐむ。だが、男はなぜか嬉しそうにも見えたので通り過ぎたと。その後、主人公は事切れたのだった。

黒澤は、やはり巨匠と呼ばれるに相応しい監督だ。彼の人間洞察は鋭い。この映画のラストシーンは、一度出来上がった社会構造の壁の厚さと人間の性(さが)をよく表していて、甘さがない。この監督の基本にはヒューマニズムがあるが、同時に人間の弱さと中に潜む闇も見逃さない。葬式の席で、一度は主人公に感銘を受けてこれからの改革を誓った職員たちも、やがてはまた元のお役所仕事に戻っていくのである。こういったラストシーンは、「七人の侍」にも見られる。非常時には侍たちを頼り敬慕していた農民たちの、平時に戻った時の豹変ぶりだ。

この「生きる」は、2022年にオリバー・ハーマス監督、ビル・ナイの主演でイギリス映画「Living」としてリメイクされ好評を博した。脚本は、あのノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロである。見逃したこの映画もぜひ観てみたい。

 

航空券を調べていて思い出したことあれこれ

 

来春の日本行き航空券をいろいろ調べている。去年の春に比べてかなり値上がりしている感じ。ANAが気に入ったので、今回もANAにしたい。去年の春は、ルフトハンザのストライキで、帰便の急な変更を迫られて大変だった。ルフトハンザとの共同運行便だったからである。あの時は、インターネットの旅行社で切符を取らないで良かったと、つくづく思った。若い人はなんでもチャチャッとスマホで自分でやってしまうのだろうが、私には無理。電話も混み合っていて繋がらず、スイスのANAのオフィスに相談して助けていただいた。いつも本当に感じの良い丁寧な対応をしてくださる。だがしかし、ANAで航空券を取っても、直行便はスイスインターナショナルの共同運行便となって、機材も乗務員もスイスになる。乗り換えなしが一番楽なのだが、実は、ANAのドリームライナーに乗ってみたいのだ。そうなると、まずフランクフルトかミュンヘンへ飛ばなければならない。それで、Webサイトを見ながら検討しているところである。

私の記憶では、1995年頃までは航空運賃は高かった。90年代の半ば過ぎから、破格で1500フラン代の航空券が出てきたように思う。30数年前は、チューリッヒにあった欧日協会というところで、団体航空券として買うのが一番安かったが、それでも、2800フランくらいはしたと思う。エコノミーである。それも、42日以内に往復しなければならないという条件付きだった。ただ、エコノミークラスでも、今の飛行機の座席に比べるとゆったりしていた。いつごろからだろう、あんなに詰め込むようになったのは。海外旅行者が増えたからかもしれないが、価格を下げた分、たくさん乗せて採算を取るようになったのかもしれない。やがて、シーズンオフの2月などは、1000フランを切るチケットも出てきた。

痛ましい凋落は、スイスエアだった。スイスエアすなわちスイス航空は、2001年秋のグラウンディングで倒産してしまった。長い間、堅実で安全、サービスの品質の高さでも世界有数の航空会社としての名を誇っていた。けれども、経営不振に陥ったサベナ航空を傘下に置いたり、手を広げすぎて業績に翳りが出てくる。経営を一新すべく、大会社の経営を立て直した敏腕のコルティ氏をCEOに招いた。彼はすでに成功していた人だったから、わざわざ困難な仕事を引き受ける必要もなかっただろうが、やはり、ナショナルフラッグであるスイスエアを救いたいという思いが強かったのだろう。グランディングで思ったのだが、火の車で資金のやりくりをしながら立て直しに頑張っていたのではないか。大変な心労を抱えながらの仕事だったろう。2001年の10月初めに起きたことは、スイス人なら誰も忘れえないはずだ。それだけ、衝撃的なことだった。もし、UBSがその日までに融資していれば、スイスエアの飛行機が全世界で止まることはなかった。その数日前からのテレビ報道はよく覚えている。どうして融資しないのかと問われると、副頭取は、頭取りが海外出張中で捕まらないので判断できないと、私の印象では、どこかのらりくらりと答える。たぶん、融資するつもりはなかったのではないか、あるいは何か取引の意図を持っていたのか。当時の頭取オスペル氏は、経営者たちが信じられないほど高額の報酬を受け取る習慣を持ち込んだ人間の一人だ。ナショナルフラッグ、スイス人の誇りというよりも、自分と自企業だけの近視眼的利益追求型の経営者だったのかもしれない。そういう意味では、コルティ氏とは対照的だ。けっきょく、スイスエアはルフトハンザに吸収される。スイスインターナショナルとして、スイスの名前は残ったが、もうスイスの企業ではない。あの時のスイス人の嘆きと怒りは大きかった。チューリッヒに、クローネンハーレと呼ばれる高級レストランがある。銀行や企業の経営者などもよく利用しているところらしい。オスペル氏は、グラウンディング後、そこのレストランからは入店を断られた、あるいは皆に白い目で見られて行けなくなったのか、そんなふうに聞く。

さて、旅行社が航空券を売っていた時代は終わりを告げた。それには、コロナも拍車をかけたところがある。いつもお願いしていた旅行社も店を畳んでしまった。電話をすると、丁寧に要望を聞いて適切な便を提案してくれて、そして航空券を郵送してくれたものだ。もちろん、その分手数料を払うわけだが、安心感があった。今は、全部自分で調べて、ウェブ上で予約して、クレジットカードで払って、メールで送られてきたeチケットを印刷してと、自分がサービス業をやっているみたいだ。それでも、航空運賃が安ければ納得だが、これから高くなっていくとしたら、なんだかちょっと変な感じもする。

10年ほど前までは、乗客は大半が日本人のグループで、個人旅行者は少なかったし、外国人も少なかった。それが今は逆転して、大半が外国人になっている。特に今は、異常なほどの円安だから、日本人には海外旅行は高いものになっているし、外国人には逆に日本旅行は安くなったわけだ。海外にいると、日本の経済力が落ちたのが如実に感じられる。ということは、国力が落ちたということか。残念なことだ。

今は、各座席前に液晶画面が付いていて、個人個人が思い思いに好きなものを観ることができるようになっているが、それはいつ頃からだったろうか。ちょっと思い出せない。昔は、機内にいくつか大きいスクリーンがあって、みんなで同じものを観ていた。当時は、日本航空がチューリッヒまで来ていて、搭乗すると、その朝のNHKのニュースを大きいスクリーンで観たものだ。ああ、日本、と懐かしい気持ちが込み上げてきた。今では想像できないことだが、こちらでは全く日本の情報とは遮断されていたわけだから。そして、しばらくして食事が配膳される。その後は、機内の照明が落とされて、映画の上映がある。映画館というわけだ。観ない人もいただろうから、音はどうしていたのだろうか。座席にイヤフォーンが付いていたのかもしれない。けっこう記憶が遠くなっている。

みんなが同じものを観ていた時代。世代を超えて流行り歌を聴いていた時代。今は、個人個人が自分の好みで選ぶ時代になっている。それはそれでいいのだが、世代を超えた共通言語がなくなっていくとしたら、それはちょっと残念ではある。

 

 

雨の土曜日に思ったことあれこれ


このところグッと肌寒くなってきた。窓から眺める山里の景色は、雨に煙っている。こんな日は、家にいると頭の中にいろいろな思いが浮かんだり消えたり。脈絡のないことだが、書き留めてみよう。

今朝「日本語から言葉を考えよう」という、生田守先生のZoomセミナーに参加。そんなこともあってか、午後になって日本語の変遷についての思いがいくつか湧いた。YouTubeなどを見て、常々気になっていることがある。それは、モノの数え方。抽象的なことを数えるにも、「ひとつ」と言わずに「一個」と言う人が多い。たとえば「一つ考えがあります」ではなくて、「一個考えがあります」なのだ。これにはどうも違和感が拭えない。40代くらいの人も使っている。同世代の友達に聞いてみたら、彼女たちは、こういう場合は私と同じように「ひとつ」を使うと言う。「全然」も、今は使い方が変わって、否定ではなくて肯定になった。たとえば「全然いい」とか「全然おいしい」とか。それから、「いいえ、大丈夫です」が「いいえ、結構です」だったり。そういえば、もう前のことになるが、日本の喫茶店で「コーヒー、大丈夫だったでしょうか」と聞かれて、ちょっと驚いたことがある。「え?何か異物でも入っていたのだろうか?」と一瞬思ったが、それは「コーヒーのお代わりはいかがですか」の意味だったのだ。他にも「おしゃれ」だって、昔々は褒め言葉でもなかったし、言葉の使い方やそれの指す意味は、時代や社会の変化で変わっていくものである。「めっちゃ」も、私は使ったことはないが、若者から中年まですっかり定着した表現らしい。

昨夜、ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビューを見た。彼の次の言葉が強く心に響く。「イスラエル人である自分の心には、今、ゴミのようなネガティブな感情も渦巻いているが、発言は冷静でなくてはならない。心の思いはどうあれ、口に出すときはよく考えなければならない。影響力のある人間、特に政治家の発言は慎重であるべきだ」こんな内容だった。彼は、自分の親戚にも被害者が出ていて、当事者として辛い思いだろう。しかし、この発言を聞いて本当に賢い人だと思った。恨みの応酬は、更なる恨みを生む。なんとしても、この怨恨の輪を断たなければ破滅しかない。戦争を仕掛ける者は、常に自分は安全圏にいる。ハマスの指導者も、自分はガザにはいない。安全な場所から命令を下しているのだ。プーチンだってそうだ。死ぬのはいつも民間人、徴兵された兵士たち。ハラリ氏も言っていたが、この10年は、人類が共有していた世界秩序が崩れていった年月。トランプに象徴されるようなポピュリストが幅を利かせて世界を牛耳り出した。多くの人々は煽動に流されてしまう。ポピュリストがいかに大衆をその気にさせて動かしていくかという心理学研究もある。橘玲氏の「スピリチュアルズ『わたし』の謎」を読み始めたが、その中にそういった心理学研究についても紹介されていて興味深い。

来春、日本へ行くことを考えているが、航空運賃が高くなっている。もし、戦争がエスカレートすれば、これからどうなるか、状況は流動的だ。ロシアの上は飛べない、中東方面も難しいとなれば、ルートは昔のように北極圏の上空のみに限られてくる。イランの出方次第によっては、原油価格にも影響が出てくるだろう。戦争して得する人間はごく一部だ。それとも、地球と人類を道連れに「死なばもろとも」という考えか。それだけは、避けなければならない。「微力だが無力ではない」と、平和につながる活動をしておられる仏教者がいる。今それぞれに何ができるか。特に、影響力のある人には冷静な発信をしていただきたいものだ。

それから、もうひとつ思ったこと。こんど時間を取って、ふたつの映画について書いてみたい。ひとつは「ああ、野麦峠」、もうひとつは「華麗なるギャッツビー」。これは、ロバート・レッドフォード主演の1974年作品と、レオナルド・ディカプリオ主演の2013年作品を比べてみるのが面白い。