スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

節分に思う心の鬼退治

今週のお題「鬼」

今年は2月2日が節分だという。子供の頃の豆まきを思い出す。豆だけでなくキャンディーも混ぜて入っている桝から、ひとつまみごとに「鬼は外!福は内!」と元気よく叫びながら撒いたものだ。そして、後でキャンディーを拾って舐めるのが楽しみだった。昔々の小学生の頃の思い出。あの頃は、鬼は他界に住んでいて、時々悪さをしにやってくるものだと思っていた。だから、そんな鬼が家の中に入り込まないように、豆を撒いて退治するのだと。

だが、鬼は本当に人間界とは無縁の場所に住んでいるのだろうか。いやいやどうして、それこそ人の心の中にも住んでいやしないだろうか。能に「葵の上」という演目がある。周知のように「源氏物語」に題材を取った能曲だ。皇太子の未亡人である六条の御息所は、年下の光源氏と恋仲であった。才色兼ね揃えた誇り高いこの女性は、葵の上を正妻に迎えた源氏の足が次第に遠のくに連れ、悩み苦しむ。光源氏は稀代のプレイボーイであちこちに想い人がいる。だから、御息所だけがご無沙汰になったわけではなくて、実は葵の上の所にもあまり足が向かず、彼女も苦しんでいるのだが。ある日、都の祭り見物に出かけた折に、六条の御息所と葵の上の家来たちの間で場所取り合戦が繰り広げられ、御息所側が屈辱を味合う。プライドを傷つけられた彼女の葵の上への恨みは一層募っていく。やがて、その恨みと嫉妬の想いは、本人の意識を離れて生き霊となって葵の上に襲いかかる。六条の御息所の前シテは、「泥眼」という女面を掛けて登場し、源氏への恨みつらみと葵の上への憎しみ、報われない恋の悲しみを高貴に表現する。「泥眼」は、もともとは人間ではない存在の面で、菩薩などに使われていた。目に金泥が施されている(能面で金の目をしているものは異界の存在)ので、泥眼と呼ぶ。そして、後シテは般若の面を付けて登場する。女面ではあるが、言わずと知れた鬼の表情である。六条の御息所は、怒りと憎悪が極まり、病床の葵の上を打ち据える。本人の手を離れた生き霊として。恐ろしい般若の面をよく見ると、その形相は怒りというより、むしろ深いどうしようもない悲しみに溢れている。今にも泣きだしそうだ。嫉妬や憎しみは、持っている本人を一番苦しめるものだろう。心を焼き尽くしてしまう。六条の御息所は、一生を賭して恨み、死してもなお苦しみに彷徨ったようだ。

たいていの人の心には、小さい鬼は棲んでいると思う。人間には基本的欲求があるし、それなしには生きていかれない。社会で他者と生きる上で湧いてくる様々な欲もある。我欲が小さいうちは、まだちっちゃな鬼だ。小鬼というと、なんだか愛嬌があって可愛らしい気もする。ちょっとした焼きもちとかが、愛情の表現であったり、人への羨望が自分を伸ばす原動力になることもあるだろう。けれども、小鬼が育ちすぎないようにしないと、身体に入りきれなくなって彷徨い出す。一年に一度、心の鬼に目を向けて退治する、それぞれの「節分の日」を設けてみるのもいいのかもしれない。

 

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