スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

雨の土曜日に思ったことあれこれ


このところグッと肌寒くなってきた。窓から眺める山里の景色は、雨に煙っている。こんな日は、家にいると頭の中にいろいろな思いが浮かんだり消えたり。脈絡のないことだが、書き留めてみよう。

今朝「日本語から言葉を考えよう」という、生田守先生のZoomセミナーに参加。そんなこともあってか、午後になって日本語の変遷についての思いがいくつか湧いた。YouTubeなどを見て、常々気になっていることがある。それは、モノの数え方。抽象的なことを数えるにも、「ひとつ」と言わずに「一個」と言う人が多い。たとえば「一つ考えがあります」ではなくて、「一個考えがあります」なのだ。これにはどうも違和感が拭えない。40代くらいの人も使っている。同世代の友達に聞いてみたら、彼女たちは、こういう場合は私と同じように「ひとつ」を使うと言う。「全然」も、今は使い方が変わって、否定ではなくて肯定になった。たとえば「全然いい」とか「全然おいしい」とか。それから、「いいえ、大丈夫です」が「いいえ、結構です」だったり。そういえば、もう前のことになるが、日本の喫茶店で「コーヒー、大丈夫だったでしょうか」と聞かれて、ちょっと驚いたことがある。「え?何か異物でも入っていたのだろうか?」と一瞬思ったが、それは「コーヒーのお代わりはいかがですか」の意味だったのだ。他にも「おしゃれ」だって、昔々は褒め言葉でもなかったし、言葉の使い方やそれの指す意味は、時代や社会の変化で変わっていくものである。「めっちゃ」も、私は使ったことはないが、若者から中年まですっかり定着した表現らしい。

昨夜、ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビューを見た。彼の次の言葉が強く心に響く。「イスラエル人である自分の心には、今、ゴミのようなネガティブな感情も渦巻いているが、発言は冷静でなくてはならない。心の思いはどうあれ、口に出すときはよく考えなければならない。影響力のある人間、特に政治家の発言は慎重であるべきだ」こんな内容だった。彼は、自分の親戚にも被害者が出ていて、当事者として辛い思いだろう。しかし、この発言を聞いて本当に賢い人だと思った。恨みの応酬は、更なる恨みを生む。なんとしても、この怨恨の輪を断たなければ破滅しかない。戦争を仕掛ける者は、常に自分は安全圏にいる。ハマスの指導者も、自分はガザにはいない。安全な場所から命令を下しているのだ。プーチンだってそうだ。死ぬのはいつも民間人、徴兵された兵士たち。ハラリ氏も言っていたが、この10年は、人類が共有していた世界秩序が崩れていった年月。トランプに象徴されるようなポピュリストが幅を利かせて世界を牛耳り出した。多くの人々は煽動に流されてしまう。ポピュリストがいかに大衆をその気にさせて動かしていくかという心理学研究もある。橘玲氏の「スピリチュアルズ『わたし』の謎」を読み始めたが、その中にそういった心理学研究についても紹介されていて興味深い。

来春、日本へ行くことを考えているが、航空運賃が高くなっている。もし、戦争がエスカレートすれば、これからどうなるか、状況は流動的だ。ロシアの上は飛べない、中東方面も難しいとなれば、ルートは昔のように北極圏の上空のみに限られてくる。イランの出方次第によっては、原油価格にも影響が出てくるだろう。戦争して得する人間はごく一部だ。それとも、地球と人類を道連れに「死なばもろとも」という考えか。それだけは、避けなければならない。「微力だが無力ではない」と、平和につながる活動をしておられる仏教者がいる。今それぞれに何ができるか。特に、影響力のある人には冷静な発信をしていただきたいものだ。

それから、もうひとつ思ったこと。こんど時間を取って、ふたつの映画について書いてみたい。ひとつは「ああ、野麦峠」、もうひとつは「華麗なるギャッツビー」。これは、ロバート・レッドフォード主演の1974年作品と、レオナルド・ディカプリオ主演の2013年作品を比べてみるのが面白い。