スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

今は昔か?空気の中に情緒の粒子が漂っていた国、日本

今週のお題「雛祭り」

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雪はまだ残っているが、ここスイスの里もようやく春めいてきた。日が長くなってくると、気持ちも明るくなる。もうすぐ、3月3日の雛祭り。少し早いが、明るい日差しに誘われて、お雛様にも太陽のお裾分けとばかりに、お部屋にお越しいただいた。その昔、一緒に海を渡ったお雛様、当方と違って、今も若々しいお二人だ。

今年はスイスでも久々の寒さだった。零下の日が続き、大雪にも見舞われた。スイスだけでなく、世界各地が異例の寒さに襲われ、普段は雪など降らない所でも大雪になった。テキサスもそうだが、普通と違うことが起きると、人々の生活に大きな影響が出る。異常気象が語られるようになって久しい。

このお雛様がまだ日本にいらした頃は、日本の四季もはっきりしていたように思う。たとえば、沈丁花の香りは学年末の思い出と結びついているし、もちろん桜の花は新学期の思い出に。春はうららか、新緑の5月は爽やかに、6月になるとそろそろ梅雨が始まり、そして7月の初めには、暑い夏がやってくる。それでも、35度を超えることなどまずなかった。9月には残暑が残るものの少しずつ秋の気配がやってくる。10月は清々しい季節で、もう台風は来ない。東京オリンピッックは、爽やかな秋晴れの10月に開催された。スポーツに一番ふさわしい季節だったから。そして、11月も半ばになると木枯らし一番が吹く。もちろん、日本列島は長いから、地方によって時期が違うのは確かだが、私が暮らしていた東京地方の思い出としては、こんな感じだ。スイスの気候も、来た当時とは変わった。あの頃は、夏も日が暮れると冷え込んで、夜までの外出には上着を持って出たものだ。ところが、最近の夏は暑くて、夜になっても気温が下がらない時もあるし、おまけに、蒸し暑い日もある。ただ、日本と違うのは、日陰は未だに過ごしやすいということ。それから、日本の赤い夕焼けが懐かしかったものだが、いつ頃からだろうか、夕焼けが日本のそれに似てきた。たぶん湿気が多くなったからかもしれない。

昔の日本は、一般家庭でも年中行事がさりげなく行われていた。今もそれは続いているのだろうか。正月三が日のお雑煮、節分の豆まき、雛祭り、5月5日の鯉のぼり、菖蒲湯。お月見にはお団子とすすきを供えて月を愛でた。それとも、気候も変わってきたし、世の中も忙しくなって、人々にも余裕がなくなってきただろうか。いつの頃からか、日本にも「効率」やら「成果主義」やら、アメリカ的ビジネスの言葉が入ってきた。それに追い打ちをかけるように「自己責任」「勝ち組負け組」という言葉も。初めてこちらで、日本語に訳せば「自己責任」に類する表現を聞いた時、「へー、日本ではそんなこと、あからさまには言わないなあ」と思ったのを覚えている。映画のセリフじゃないが、「それを言っちゃあおしまいよ」と言うか、そんな感覚を持った。日本には、繊細な心の綾を詠う和歌や季節感を大事にする俳句がある。日本人は、情緒的なものを極めて大事にする人たちだったと思う。その昔、知り合いのスイス人日本学者が言った言葉が思い出される。日本の空港に降り立った時、いつも空気の中に情緒の粒子を感じた、意訳すればそんな内容だった。外国の人にそう言われて考えてみれば、確かに私も90年代の終わり頃までは、帰省するごとにそれを感じていた。西欧とは違った空気感、実際の湿度のせいでもなく、ウエットというか何というか、やはり情緒の粒子としか言いようのないもの。西欧のピーンとした空気の中を飛び立ち、一万キロを超えて日本のそれに包まれた時、そのふわっとした粒子を感じて懐かしさを覚えたものだ。けれども、ここ20年くらいで徐々に日本の空気の"成分"が変わってきたような気がしている。以前は、都会の空気の中にさえ漂っていたその粒子を感じない。それはもうどこかに消えてしまったのだろうか。

 

 

一枚の「地球の写真」に思うこと

数日前のこと、ある新聞記事の写真が目に止まった。1968年12月、アポロ8号の宇宙飛行士が撮ったものだ。月の向こう側に青い地球が浮かんでいる。当時この写真を雑誌で見た時は衝撃的だった。その雑誌を買い求めて写真を切り抜いて、以来大事に持っている。スイスに来た時も、この写真は私と一緒だった。今も机の前に貼ってある。

新聞記事には、心理学者たちの調査やコメントが書かれていた。「Earthrise 地球の出」と呼ばれるこの写真は、今も人々に深い畏敬の念を呼び覚ます。この広大な宇宙の中では、本当にちっぽけな星にすぎない地球。けれども、我々人類全員にとってかけがえのない住処である地球。この写真によって呼び覚まされる畏怖の深い感情は、イデオロギーや狭い思い込みに囚われた争いから人類を解き放つ鍵になり得るだろう、要約すればこういうことだ。たしかに、この、初めて地球を外から見るという経験は、人類にとって自分たちを俯瞰する新しい視点をもたらしたと思う。

その昔、雑誌に載ったあの写真を切り抜いてから、50年余の月日が流れた。地球が回っていると意識しだして迎えた中学時代。それからは、日が東から昇るのを見ながら、地球が反時計回りに回転している様をずっと思い描いた。自分の周りにある変わらない町の景色も、地球が太陽の周りを1年かけて回っているだけでなく、太陽系とともにこの天の川銀河を旅していると思うと、毎日同じ場所にあるのではない。そう考えると、見慣れた風景も違って見えて、何だかワクワクした。人類は、この銀河系をまだ一周さえしていないのだ。我々は、我々にとっては常に未知の空間を通っているのだ。これから遭遇する場所には何があるのかわからない。恐竜が絶滅したのは、ちょうど太陽系が現在の反対側を通っていた頃だと、何かで読んだことがある。

宇宙の視点から人間を見ると、本当にウイルスくらいの小さい存在だろう。自分たちの小ささを知ることは大事だ。しかし、人間の視点から見れば、この地上での出来事は限りなく大きい。たまたまなのか縁なのか、ある時点にこの世に生を受けて、宇宙的に見れば瞬きほどの間この地に存在する。人類の中の一個人にとっては、しかし、長い時間だ。それぞれが、山あり谷ありの人生を歩む。一瞬の輝きが生まれては消える。宇宙は永遠でも、一個人にとっては、自分の命が終われば主観的には世界はなくなる。死後の世界も語られるが、それは未だに未知の領域だから、あるかもしれないし、ないかもしれない。けっきょくは、これについては経験を持ってしか個人の確信にすることはできない。そして、確信した時には、もう肉体を持ってこの世にはいないわけだ。そういう意味で、この肉体を持って、有限な地球に生きる一瞬とは、なんと不思議で貴重なことだろう。生命の進化の過程で、こうしてこの地球生物の頂点に立った人類の、そのまた一員としてつかのまの生をここに受けている一人一人の人間たち。この地球の他には生きる術のない人間たち。私たちには一つの特性がある。それは、想像する力、意識を拡大する能力。宇宙から俯瞰して地球と我々自身を見る視点と、この肉体を持った個としての視点とを双方向で持つことは、ある意味、何かに行き詰まった時の助けになるかもしれないと思う。

ただ、一つだけはっきりしているのは、我々の生存は地球あってのものということだ。それを考えれば、イデオロギーや思い込みに囚われた争いをしている暇などない。冒頭の心理学者たちの言葉にあった畏怖の念をもって、どうやったら我々がこの地球上で共に生き残っていけるのかと考え、その行動にエネルギーを注いだ方がいいだろう。

 

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スイスのチョコレート

今週のお題「チョコレート」

チョコレートと言えば、何といってもスイス。「スイスチョコレートの美味しさは、他の追随を許さない、山でいえば世界最高峰エベレストのようなもの」とは、もちろん、私に言わせればという個人的見解ではあるけれど。スイスだから、山に例えればマッターホルン?そのスイスチョコレートの中でも、老舗のリンツ&シュプルングリの味は最高だ。これもまた、トイシャーのシャンパントリュフの味は堪らない、レーデルアッハの割れチョコはユニーク、いや、スーパーマーケットチェーンのミグロブランドチョコ、フレイは安いのに美味しい、などなど様々な見解ありだろう。いや、はっきり言って、みな美味しい。チューリッヒの目抜き通り、バーンホーフ通りには、シュプルングリ、トイシャー、レーデルアッハが立派な店を構えている。一番古い老舗はシュプルングリで、いつも観光客で賑わっていた。いた、というのは、今はもちろんコロナの非常時だから、観光客は少ないだろうと思うし、私自身長いことチューリッヒには出かけていないので。さて、シャンパントリュフに限れば、シュプルングリとトイシャーは甲乙つけがたい感あり。あの、口に入れると蕩けるチョコとシャンパンのハーモニーが堪らない。

里帰りには、よくチョコレートをお土産に持って行った。家族に、友達に、会う予定の人を数えて、たいていはトランクの半分を占めるくらいたくさん。本当は、もっと軽いお土産が理想的なのだが、やはり皆スイスのチョコレートを喜んでくれるし、家族親戚からのリクエストもある。それにしても、航空券が今の3倍くらいした時代、里帰りは、スイスで暮らす日本人にとっては一大イベントだった。今でこそ、何でも日本で手に入る時代になったが、その頃はまだ「舶来品」などという言葉もあったっけ。祖母がいたせいか、少なくとも、私には聞き慣れた言葉だった。こちらに住む日本人の間では、「ねえねえ、今度日本に帰るんだけど、何をお土産に持っていったらいいかなあ」などと、それぞれお知恵拝借だった。チョコレートの他にも、日本にはなくて珍しいものを探したものだ。

そして、時は流れた。日本がバブルに沸いた頃から「舶来品」などという言葉は完全に消え失せ、それまで日本にはなかったヨーロッパの品物も普通に見かけるようになった。町のスーパーでスイスのチーズをいろいろ売っているのを発見した時には、かなり驚いたものだ。昔は、チーズといえばプロセスチーズしかなかったから。デパートの地下食料品売り場には、世界中の美味しそうな物が溢れていた。いや、今もそうだろう。日本のデパ地下を巡るのは面白い。でも、同時に一抹の不安も感じる。日本は、食料品に関しては輸入国だ。食料自給率も低い。万一、非常事態になって一切の輸入が途絶えたらと思うと心配になる。やはり、地味でも食料は自前調達が一番だ。これからは益々、他国を頼らない食料生産が必要になってくるだろう。人は、工業製品やITだけでは生きていけないのだから。

さて、バレンタインにもらったシュプルングリのトリュフがある。ちょうどお茶の時間だ。これからいただくとしよう。

 

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節分に思う心の鬼退治

今週のお題「鬼」

今年は2月2日が節分だという。子供の頃の豆まきを思い出す。豆だけでなくキャンディーも混ぜて入っている桝から、ひとつまみごとに「鬼は外!福は内!」と元気よく叫びながら撒いたものだ。そして、後でキャンディーを拾って舐めるのが楽しみだった。昔々の小学生の頃の思い出。あの頃は、鬼は他界に住んでいて、時々悪さをしにやってくるものだと思っていた。だから、そんな鬼が家の中に入り込まないように、豆を撒いて退治するのだと。

だが、鬼は本当に人間界とは無縁の場所に住んでいるのだろうか。いやいやどうして、それこそ人の心の中にも住んでいやしないだろうか。能に「葵の上」という演目がある。周知のように「源氏物語」に題材を取った能曲だ。皇太子の未亡人である六条の御息所は、年下の光源氏と恋仲であった。才色兼ね揃えた誇り高いこの女性は、葵の上を正妻に迎えた源氏の足が次第に遠のくに連れ、悩み苦しむ。光源氏は稀代のプレイボーイであちこちに想い人がいる。だから、御息所だけがご無沙汰になったわけではなくて、実は葵の上の所にもあまり足が向かず、彼女も苦しんでいるのだが。ある日、都の祭り見物に出かけた折に、六条の御息所と葵の上の家来たちの間で場所取り合戦が繰り広げられ、御息所側が屈辱を味合う。プライドを傷つけられた彼女の葵の上への恨みは一層募っていく。やがて、その恨みと嫉妬の想いは、本人の意識を離れて生き霊となって葵の上に襲いかかる。六条の御息所の前シテは、「泥眼」という女面を掛けて登場し、源氏への恨みつらみと葵の上への憎しみ、報われない恋の悲しみを高貴に表現する。「泥眼」は、もともとは人間ではない存在の面で、菩薩などに使われていた。目に金泥が施されている(能面で金の目をしているものは異界の存在)ので、泥眼と呼ぶ。そして、後シテは般若の面を付けて登場する。女面ではあるが、言わずと知れた鬼の表情である。六条の御息所は、怒りと憎悪が極まり、病床の葵の上を打ち据える。本人の手を離れた生き霊として。恐ろしい般若の面をよく見ると、その形相は怒りというより、むしろ深いどうしようもない悲しみに溢れている。今にも泣きだしそうだ。嫉妬や憎しみは、持っている本人を一番苦しめるものだろう。心を焼き尽くしてしまう。六条の御息所は、一生を賭して恨み、死してもなお苦しみに彷徨ったようだ。

たいていの人の心には、小さい鬼は棲んでいると思う。人間には基本的欲求があるし、それなしには生きていかれない。社会で他者と生きる上で湧いてくる様々な欲もある。我欲が小さいうちは、まだちっちゃな鬼だ。小鬼というと、なんだか愛嬌があって可愛らしい気もする。ちょっとした焼きもちとかが、愛情の表現であったり、人への羨望が自分を伸ばす原動力になることもあるだろう。けれども、小鬼が育ちすぎないようにしないと、身体に入りきれなくなって彷徨い出す。一年に一度、心の鬼に目を向けて退治する、それぞれの「節分の日」を設けてみるのもいいのかもしれない。

 

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袖すり合うも他生の縁

面白い夢だった。長野地方の何処かにあるらしき民藝館を訪ねている。スイス人の連れ合いとの日本旅行の途中だ。入り口横に受付があって、靴を脱いで家の中に入る。小さい民家のはずなのに、廊下の果ては大きな体育館のようなホールになっていて、そこにはいろいろな特産品を売る店が屋台を出している。黒光りする木の床が印象的だった。連れ合いが30年以上も前にそこの建築に関わったらしく、支配人らしき男性が彼のところにやってきて挨拶している。現実には、そんな事実は全くない。そこが夢の可笑しさだ。ただ、その支配人さんにはどこかで会ったような気がするのが不思議。もしかしたら、人生の旅の途上で実際に会った人なのかもしれない。

今までの人生で、いったいどれだけの人に出会ったことだろう。ずっと交際を続けている人もいるし、ある時期交流があったが、いつの間にか忘却の彼方へと消えた人もいる。その人たちは、人生において名前を持って関わった人たちだ。けれども、 束の間の時と場所を共有しただけの、名も知らぬ人たちを数えれば、とてもたくさんの人と出会っているはずだ。たとえば、旅先の車中で、宿泊先で、食事処で、あるいは、路上で。この広い世界の中で、限られた時間と空間の条件のもと、ほんの束の間行き会った人たち。時にそんな人たちの面ざしが蘇る時がある。どうしているのかなあと思うことがある。

夢をきっかけに、そんな人たちをふっと思い出した。

トルコのシリア国境近くにイスケンダルムという町がある。海岸沿いの大きな町アダナから、ドルムーシュという乗り合いバスを乗り継いで訪ねたことがある。もう30年以上も前の話だ。そこで行き会った3人の顔が浮かぶ。一人は、小さな観光案内所の女性。当時は外国人観光客など期待していない町だから英語は通じず、かろうじて連れ合いの片言のトルコ語で何となく話がわかった。でも、親切に一生懸命に説明してくれた姿が目に残る。町の食事処では、篠田三郎に似た若者が給仕をしてくれた。思い出す時、路地裏の裸電球の明かりの中にその顔が蘇る。それから、ドルムーシュの中の出来事。二人の男たちが何か言い争いを始めて、今にも一触即発のところ、一人の男性が止めに入った。なんでも、彼は外国人が乗っているんだからちゃんとしろ、というようなことを言ったらしい。不思議なことに、その男性の顔も覚えている。あれから20年以上経ってシリアの内戦が始まってから、あの国境の町には沢山の難民が押し寄せて来たはずだ。あの人たちの生活も大きな影響を受けているに違いない。今頃どうしているのだろうか。

日本の旅でも、たくさんの人たちに出会った。高山の居酒屋の板前さんとその後ろに並ぶ一升瓶の数々。あのカウンターの雰囲気を思い出す。日本ではまだ外国人が珍しいころ、土地の説明やら諸々丁寧な応対をしてくださった。あれから35年以上、もう70歳近くになっておられるだろう。それから、十数年前のことになるが、銀座でひょんなことから10分ほど立ち話した人がいる。銀座四丁目の和光脇の歩道で、灰色のスーツを着た30代位の男性とすれ違いざまフト目が合った。そのまま行き過ぎたところ、2、3歩進んだところで、その人が戻って声を掛けてきた。顎の細さと身体より大きそうな上着が目を引いた。何でも、私の額にいい相が出ていると言う。顔にある相が出ていると言って、新興宗教などに勧誘する手口はあるだろう。数日前、ご先祖様の墓参りに行ってきた私は、その人の纏っている空気にちょっと立ち止まった。いま人相見の修行をしているので、こうして人混みを歩いて練習しているのだという。こちらを知らないのに言っていることが当たっているが、そういうこともあるだろう。私もその人に見えた相を言ってあげて、それからお互いに「お幸せに」と会釈を交わし、それぞれの方向に歩いて行った。もし修行というのが本当だったとしたら、一人前になられただろうか。数年前のことも蘇る。あれは、ホテルから秋葉原駅へとガラガラとスーツケースを引いて向かっている時だった。駅の近くということで予約したビジネスホテルで、近いには近いのだが、途中に段々があって行きもたいへんだった。荷物を二つ持って四苦八苦していると、近くの立ち飲み屋の中から若い娘さんが飛び出してきて手伝ってくださる。そこで働いているようで、ちょっと中に声をかけてから、また出てきて駅まで荷物を一緒に運んでくれた。本当に助かった。可愛らしい娘さんの顔が思い出される。もう一つの思い出は、四国を走る列車の中でのこと。岡山に向かう列車に途中から乗車した私は、指定券を手に自分の席を探した。二人掛けで、隣にはすでに乗客が座っていた。すみません、と断りを入れて荷物を棚に上げようとすると、その方がすっと立って、手伝ってくれる。白い髪を短く刈り上げた痩身で精悍な感じの初老の男性だった。それをきっかけとして、何とはなしに話が始まり、日本の現状のこと、これからの国の行く末にも話題が広がった。雰囲気からして、どうも何か武道をしている人のような気がする。聞いてみたところ、やはり剣道をしていると言う。只者ではないなと思ったが、聞かなかった。それを察したのだろう、その方は降り際にさりげなく、刑事をしていました、と微笑み会釈して降りていった。お互いに、お元気でと言いながら。今頃どうしておられることだろう。

「袖すり合うも他生の縁」という言葉がある。人生の途上で行き会った沢山の人たち。ほんの少しだけ時間と空間を共有しただけの人たちも、もしかしたら何かのご縁があったのだという考え方には惹かれるものがある。それぞれの人生の物語を思う。そして、幸あれかしと願う。

 

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オンライン時代に思うこと

スイスではコロナ感染の第二波を受けて、特にコロナウイルスの変異種の広がりの懸念から、2月末までの期限で厳しい予防措置に入った。1月18日からは生活必需品を扱う店を除いて一般店舗の閉鎖。だたし、郵便、銀行、医療関係、美容室、園芸店、キヨスク、ガソリンスタンド、通信関係の店は、時間制限を課して営業可。すでに12月からなされていたレストランの閉鎖は2月末まで延長。文化スポーツ施設の閉鎖、イベントの禁止、集まる人数は5人まで。ただし、お葬式や政治集会は50人までの制限を設けて許可。可能な職種でのリモートワークの義務付け。小中学校は閉鎖しない。学校を閉めることは弊害の方が大きいから、感染が爆発的に広がらない限り閉鎖にはならないだろう。

欧米に比べると、日本では感染者は少ないようだ。ただ、コロナへの医療対策が遅れているらしく、感染を極力抑えるために、水際作戦を取っているらしい。ということで、今は日本への帰省もままならなくなっている。帰ることはできるのだが、2週間の自己隔離をしなければならない。まず、出国前72時間以内のテストで陰性の証明が必要、そして、日本入国時に唾液検査があって、テストの結果が陰性であっても、2週間は蟄居生活が義務付けられている。日本に到着してからは、公共交通機関が使えないから、国際空港から遠く離れた土地に帰省する人は、相当難しい。レンタカーを借りるにしても、北海道や九州・四国あたりに帰るのは困難だろう。そんなわけで、航空券が安くなってからは頻繁に帰省していた周りの日本人たちも、今は我慢の子である。私の場合は、もう親も亡くなって実家もないし、帰ると言ってもホテル暮らし、帰省というより日本訪問と表現する方がぴったりするようになってからは、通う足も少し遠のいていたので、友人たちほど影響は受けていない。しかし、日本はもちろん生まれ育った故郷に変わりはないし、いつもどこかで気になっている。

物理的にそこにいなくても、今の時代はオンラインであたかもそこに臨場しているかのような経験をする。また、日本のニュースもそうだが、インターネットに繋がれば、世界中の情報が瞬時に入ってくる。昔を知っている人間には、隔世の感がある。先日の米大統領の就任式も、リアルタイムでアメリカの番組を見ることができた。まるで、自分もアメリカのその場にいるかのように。凄い時代になったものだ。オンラインの集まりや講演会、イベントなどもこのコロナ禍を機に急速に進んでいるようだ。ただ、すべての物事には光と陰がある。このインターネットというものも、心して使わないとならない。

このデジタル化していく社会について、一度立ち止まって考えてみたい。特に、12年ほど前にiPhoneが世に出てからの社会の変化はすさまじい。5年ほど前までは所謂ガラケーを使っていたこの私でさえ、今ではスマートフォンを使っている。これからますますスマートフォンを持っていないと不便な世の中になることだろう。若い人たちは、これひとつで検索はもちろんのこと、交流から支払いまでしていて、これがない世界などもう考えられないのではないだろうか。そういう意味では、私が属する世代は、デジタル化した社会に生きながらも、アナログ時代を知っている最後の世代になるかもしれない。1995年に出たウインドウズ95は、世界のデジタル化の始まりだったと思う。今までは専門家の間でしか使われていなかったインターネットが、一般に普及するきっかけとなった出来事だった。その後、ウインドウズ98、ミレニウム、XPと、どんどん進化していった。当初は主にアーティストの間で人気が高かったアップルも、一般の人々に急速に広がる。アクセスも、最初は電話線、次にISDN、それからWi-Fiと進化していった。

人との交流の仕方で言えば、SNSの急激な発展と普及による変化には目を見張るものがある。初めはコミュニケーションの広がりが世界を良い方向に導いていくと歓迎されていた、と思う。しかし、どうやら陰の部分も大きくなってきたようだ。嘘の情報や憎しみの言葉が悪いエネルギーとして光を陰らせている。昔は、ものを書く時はよく考えて文章にしたものだが、今はツイッターなどでは、その時思ったことをあまり深く考えないで、パッと送る人も多いようだ。4年前にアメリカの大統領職にある人が、ツイートで簡単に政治的な発言をしはじめたのにびっくりした。政策的なことや政治判断は、じっくり検討して発表するものと思っていた。アメリカ大統領の発言は世界に大きな影響を与えるから。日本には言霊という表現があるが、一般的に、最近は言葉による表現力へのリスベクトがなくなってきているような気がする。自戒も込めてだが、言葉を使って他者に事実や思いを的確に伝えるというのは、本当に難しいことだと思う。だから、文筆家が職業になるのだろうし。けれども、今は誰でも気軽に公に発信できる。もちろん、それはいいことでもあるのだが、ペンは諸刃の剣で、人を救うことも傷つけることもできる。人々を精神の高みに導くことも、逆に蒙昧を助長することもある。11月からこっち、米大統領選挙が気になってよく見ていたので例に挙げるが、バイデン氏の諸々の演説を聞いていると、よく出てくる言葉があった。それはdecent。混沌とした時代に、一つの指針となる態度として心がけたいものだ。

さて、先にも書いたようにコロナを機にオンライン化が一気に進んでいる。光の部分としては、離れている人とも顔を見ながら交流できたり、居る場所に関係なく講演会に参加できたり。けれども、一抹の懸念がある。個人の自由の幅がどんどん狭められていく危険もあるからだ。デジタル化ですべての行動が個人の裁量下から離れ得る。何事にしても、悪用しようとする人間はいる。特に、オンライン化を進める人たちに我欲がある時は怖い。我欲はすべてにおいて曲者だ。インターネットの普及に尽力した当時の若者たちには、若い時の夢と創業の初心を忘れて欲しくないものだ。そして、権力者には支配の野望を厳に慎んでもらいたい。

ジェネレーションZという言葉があるらしい。1990年代後半から2010年の間に生まれた若者子供たちで、生まれた時からインターネットが当たり前のようにあった世代を指すのだそうだ。物欲が少なく、性別にも拘らない世代のようで、もしかしたら、この世代がインターネットをいい方向に発展させていけるのかなという希望もあるが。

いずれにしても、私たちは時代の転換点に立ち会っているように思う。後どのくらいこちら側にいるのかはわからないが、晩年を革命の時代に生きることになるのだろう。いや、すでにかなり前からそれは始まっている。

 

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「大人になったなと感じる時」スイスの若者編

今週のお題「大人になったなと感じる時」

ああ、日本はちょうど成人式の季節なのですね。私自身は大人になって幾星霜、「大人になったな」という感慨も遠い昔になりました。そこで今回は、スイスの若者たちがどんな風に社会の中で大人になっていくのか、親の経験という視点も含めて振り返ってみたいと思います。

まずは、スイスの教育制度を見てみましょう。大半が高校に進学する日本の中学生と違って、こちらでは中学2年生はちょっと大変です。というのは、この時期、好むと好まざるとにかかわらず、自分の将来について具体的に考えざるを得ないからです。スイスの教育制度は日本とは少し違っています。義務教育が9年間というのは同じですが、その仕組みは少し複雑になります。

まず、小学校6年間を終えたところで道が二つに分かれます。地元の中学校に行く道と州立の6年制のギムナジウムに行く道。私立の学校もありますが、一般的ではありません。地元の中学校に行く場合も、小学校の時の成績によってABCと三種類に分かれます。この時点では中学A種とB種に行く子が大半で、地域にもよりますが、試験に合格してギムナジウムに行くのはクラスで2人位というところでしょうか。行っても、3ヶ月間の試用期間に合格しなければ地元の中学に戻されます。

次に、中学2年が終わる段階でまた選択肢があります。4年制のギムナジウムに行くか (中学A種に行った場合のみ受験資格がある)、3年まで行って、その後自分の希望の職種の職業訓練を受けるか。もちろん3年の時に進学を選ぶこともできますが、大半は3年の時に就職先を探して、中学卒業後そこで訓練生として仕事を教えてもらいながら、たいていは週1日、職業学校でそれぞれの職種の勉強をします。そして、4年後に国家試験を受けてその職種の資格を取ることになります。いずれにしても、中学2年生は、自分は何をやりたいのか、一度は将来に向けて真剣に道を考えざるを得ません。親と生徒を集めての進路説明会はありますが、先生が生徒個々人の面倒を見てくれるわけではないので、親もなかなか大変です。特に現在は、昔のような経済成長ブームではないこと、また、企業の社会的責任の自覚が薄れていっているということもあって、就職先を探すのがなかなか難しくなっているようです。ギムナジウムに合格して進学した場合も、成績が悪ければ退学になるし、卒業前に行われる大学入学資格試験に受からなければ、社会的な資格としては何もありません。本当に本人にやる気がなければ、親の圧力で無理して合格しても、その後はうまくいくとは限らないのです。総合大学に進む割合は、現在は20パーセントほど。1980年代半ば頃は、10パーセントほどでした。専門大学入学資格者も入れると、40パーセント弱くらいのようです。大学に進むということは、その後アカデミックな職に就くということになります。考えたり勉強したりするのが好きな子、手仕事をするのが好きな子、身体を動かすのが好きな子、子供の適性はいろいろです。好きなこと、向いていることを選んで、手に職を付ける職業訓練の道に進んだ方がいい場合も多いです。その辺の見極めが親子にとって大事になります。最近は、まずは職業訓練生として働き学びながら、さらに週にもう1日授業を受けて専門大学に行くための資格を得る道もあります。とにかく、就職した場合も、国家試験に受からなければ資格が取れず、その後の仕事の選択範囲が狭くなります。ですから、皆一生懸命。学校に行く子も就職した子も、毎日朝早くから夕方遅くまで大変です。お店などで、まだ幼顔の残る若者が、見習生という名札を下げて健気に応対しているのを見ると微笑ましく、頑張ってと応援したくなります。

それから、16歳というのは、親子関係にとって一つの節目です。例えば、親と一緒に電車など公共交通機関で移動する場合など、15歳までは無料ですが、16歳からは大人と同じ料金が掛かります。また、洗礼を受けている子供達は、その教会共同体で16歳から一人前です。アルコールもビールとワインに限り原則16歳から飲めるようになります。ただし、州によっては18歳からにしているところもあるようです。選挙権は、18歳からです。こうして、社会的には大人になっていくわけですが、気持ち的にはどうなんでしょう。息子が18歳になる頃だったか、私は何となく感慨深くて「大人になったねえ」と言ったら、「心はまだ子供で〜す」と、ちょろっと舌を出してふざけて笑いました。16歳から18歳というのはとても多感な時期ですね。身体もまだ成長し続けています。一人前として認められたい気持ちと、何となく大人の世界に入っていくのが不安な気持ち。この時期に友人でも先輩でも、あるいは師でも、いい出会いに恵まれて、たくさん学び吸収していけたら、その後の人生の確かな土台が築けることでしょう。そして、本当の意味で成熟したいい大人になっていけるのかもしれない。子供と若者を大切にする環境は、良い社会をつくっていく基盤になるのではないかと思うのです。 

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