スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

一枚の「地球の写真」に思うこと

数日前のこと、ある新聞記事の写真が目に止まった。1968年12月、アポロ8号の宇宙飛行士が撮ったものだ。月の向こう側に青い地球が浮かんでいる。当時この写真を雑誌で見た時は衝撃的だった。その雑誌を買い求めて写真を切り抜いて、以来大事に持っている。スイスに来た時も、この写真は私と一緒だった。今も机の前に貼ってある。

新聞記事には、心理学者たちの調査やコメントが書かれていた。「Earthrise 地球の出」と呼ばれるこの写真は、今も人々に深い畏敬の念を呼び覚ます。この広大な宇宙の中では、本当にちっぽけな星にすぎない地球。けれども、我々人類全員にとってかけがえのない住処である地球。この写真によって呼び覚まされる畏怖の深い感情は、イデオロギーや狭い思い込みに囚われた争いから人類を解き放つ鍵になり得るだろう、要約すればこういうことだ。たしかに、この、初めて地球を外から見るという経験は、人類にとって自分たちを俯瞰する新しい視点をもたらしたと思う。

その昔、雑誌に載ったあの写真を切り抜いてから、50年余の月日が流れた。地球が回っていると意識しだして迎えた中学時代。それからは、日が東から昇るのを見ながら、地球が反時計回りに回転している様をずっと思い描いた。自分の周りにある変わらない町の景色も、地球が太陽の周りを1年かけて回っているだけでなく、太陽系とともにこの天の川銀河を旅していると思うと、毎日同じ場所にあるのではない。そう考えると、見慣れた風景も違って見えて、何だかワクワクした。人類は、この銀河系をまだ一周さえしていないのだ。我々は、我々にとっては常に未知の空間を通っているのだ。これから遭遇する場所には何があるのかわからない。恐竜が絶滅したのは、ちょうど太陽系が現在の反対側を通っていた頃だと、何かで読んだことがある。

宇宙の視点から人間を見ると、本当にウイルスくらいの小さい存在だろう。自分たちの小ささを知ることは大事だ。しかし、人間の視点から見れば、この地上での出来事は限りなく大きい。たまたまなのか縁なのか、ある時点にこの世に生を受けて、宇宙的に見れば瞬きほどの間この地に存在する。人類の中の一個人にとっては、しかし、長い時間だ。それぞれが、山あり谷ありの人生を歩む。一瞬の輝きが生まれては消える。宇宙は永遠でも、一個人にとっては、自分の命が終われば主観的には世界はなくなる。死後の世界も語られるが、それは未だに未知の領域だから、あるかもしれないし、ないかもしれない。けっきょくは、これについては経験を持ってしか個人の確信にすることはできない。そして、確信した時には、もう肉体を持ってこの世にはいないわけだ。そういう意味で、この肉体を持って、有限な地球に生きる一瞬とは、なんと不思議で貴重なことだろう。生命の進化の過程で、こうしてこの地球生物の頂点に立った人類の、そのまた一員としてつかのまの生をここに受けている一人一人の人間たち。この地球の他には生きる術のない人間たち。私たちには一つの特性がある。それは、想像する力、意識を拡大する能力。宇宙から俯瞰して地球と我々自身を見る視点と、この肉体を持った個としての視点とを双方向で持つことは、ある意味、何かに行き詰まった時の助けになるかもしれないと思う。

ただ、一つだけはっきりしているのは、我々の生存は地球あってのものということだ。それを考えれば、イデオロギーや思い込みに囚われた争いをしている暇などない。冒頭の心理学者たちの言葉にあった畏怖の念をもって、どうやったら我々がこの地球上で共に生き残っていけるのかと考え、その行動にエネルギーを注いだ方がいいだろう。

 

f:id:cosmosnomado:20210219214903j:plain