スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

お茶と親戚のおじさんの思い出話

今週のお題「好きなお茶」

海外にいると、日本茶が懐かしくなる。昔は、日本へ帰るたびにお茶をまとめ買いしてきた。日本食品店などでは、日本茶を売ってはいるが、そんなにレパートリーは多くないし。やがていつ頃からか、こちらのスーパーなどでも「グリーンティー」と銘打って、ティーバックが出回るようになった。たいてい他のハーブも入っている。試してみたが、美味しいものはなかった。チューリッヒには一軒、コーヒーや様々なティーを売っている老舗の店がある。そこでは、いつ頃からなのかわからないが、日本茶も売っていて、そこの玄米茶は美味しい。好きなお茶は、香りのいい玄米茶だろうか。日本人の方がやっているお茶屋さんもあった。知らないだけで、今もお茶の輸入を手がけている人はいるのかもしれない。緑茶は身体にいいということで、こちらの健康志向の人たちには人気だ。

お茶にまつわる思い出がある。子供の頃、東京の我が家には、地方からの親戚が時々泊まりに来ていた。東京の大学に入ったお兄さんお姉さんだったり、祖母を訪ねに来てくれた親戚の人だったり、用事があっての上京のついでに挨拶に来てくれた縁戚関係の人だったり。今思うと、母はそれなりに大変だったかもしれないが、嫌な顔一つせずに快くもてなしていた。若い人たちは食べ盛りなので、ご飯をたくさん炊いて、さあどんどんお代わりしなさい、と。年配の人たちが泊まりに来た翌朝は、早くから座敷で話し声や笑い声が聞こえた。みんなでお茶を飲みながら、よもやま話に花を咲かせているのだ。たいてい、昆布の佃煮や梅干しなどをお茶受けにしながら。それから、朝ごはんになる。大人は、朝必ずお茶を飲むものなんだ、と子供心に思った。

その中に一人、信心深い、話好きなおじさんがいて、よく法話のようなものを聞かせてくれた。伯父でも叔父でもないけれど、祖母の讃岐の親戚のおじさんだった。讃岐といえば、弘法大師空海さんの生まれ故郷。四国は言わずと知れた「お遍路さん」の土地である。お遍路さんは、お大師さんと二人で歩く。そのおじさんのお話は面白くて、小学生の私も座敷に座って耳を傾けた。たいてい仏教のお話だった。ところで、あのおじさんの宗派は何だったのだろう。当時の私には知る由もない。いま思うには、真言宗か浄土真宗のどちらかだったのだろう。讃岐の人、弘法大師は真言密教の真言宗を開山。有名な善通寺さんは真言宗のお寺だが、四国には浄土真宗のお寺も多い。おじさんは、いつもお茶を飲みながら、讃岐弁でいろいろなたとえ話を交えて説法をしてくれた。今でも覚えている話がある。それは、おじさんの考えとは違う感想を持ったからだ。法話の内容から、中学生にはなっていたのか、それはもう覚えていない。色恋沙汰にまつわる諸行無常の話だった。おじさんが言うには、相手がどんなに美しく、恋しい恋しいと思っていても、一皮むけば血膿の流れる生身の人間、それを想像すれば未練も断てるだろうと。何だか「今昔物語」みたいだ。その時私が思ったのは、逆にそんな生身の人間だからこそ、その儚さに執着するのではないか、それはそれでいいではないか、と。

おじさんは私を指して「この家でこんなに熱心に話を聞いてくれるのは、Kちゃんだけやなあ」と言ったことがある。大人たちは、少し聞き飽きていたのかもしれない。だが、私が人の話をよく聞く子供だったのは、今振り返っても確かだとは思う。誰かが話し始めれば、必ず静かにしてその人に耳を傾けたものだ。

人の話を聞くことは、世界を広げることだ。自分の意見も言うし、議論も嫌いじゃない。でも、まず相手の話を聞くことは、コミュニケーションの基本だと思う。できたら、熱くて美味しいお茶を入れてゆっくりと。

 

 

「爆発」という言葉の考察

今週のお題「爆発」

あらまあ、穏やかならぬ、なかなか刺激的なテーマですこと。どう発展できるか、とりあえず挑戦してみることにした。

まずは、広辞苑から「爆発」の意味を引いてみる。

1)圧力の急激な発生または解放の結果、熱・光・音などと共に破壊作用を伴う現象。急激な化学反応、核反応、容器の破壊などによって生じる。

2)急に激しく起こること。

1番の意味では、中東レバノンの首都ベイルートの港湾倉庫大爆発が記憶に新しい。2750トン以上の硝酸アンモニウムが保管されていた港の倉庫で大規模な爆発が起きたのだ。200人以上が死亡、大勢の人たちが怪我をしたり自宅を失ったりした。政治の腐敗なども絡んで復興が進まず、今も人々が苦しんでいる。人類が引き起こした爆発の規模としては、核爆発を除いて史上最大級だったことが明らかになったのだそうだ。こちらのテレビでも、その映像が繰り返し流れた。今年になってからは、レバノンの経済破綻と国民生活の困窮が伝えられている。その昔、ベイルートは中東のパリとも呼ばれて、華麗で美しい港の町だったという。一時期は在留邦人も大勢滞在していたそうだ。商社マンだった親戚一家も1960年代後半に一時住んでいたことがあったらしい。港の綺麗な景色を背景にした家族写真を見せてもらった記憶がある。

日本では、10年前の福島原発での爆発が大惨事を引き起こした。放射能の問題は今もなお解決されていない。原発の中がどうなっているかは、誰にも正確にはわからず、廃棄物や汚染水は増え続けている。また、避難を余儀なくされている人々も未だに救済されていないようだ。原発問題こそが、日本国民の安全のために政治が何をおいても取り組まなければならない課題だと思う。日本は自然災害の多い国だ。もし、また何かあれば、それこそ日本の存亡に関わる事態になるだろう。

2番の意味でも、いろいろある。コロナの感染爆発。2020年以来、世界中がこのパンデミックに悩まされている。ある意味で、世界はもうコロナ以前とは違ってしまった。各国が必死になって対策に取り組んでいるが、まだまだ収束の兆しが見えない。ワクチン接種についてもいろいろな見解はあるが、ワクチンが重症化を防ぐというのは、多くの事例から言えるようだ。スイスでも、来週からレストランの屋内、娯楽・スポーツ施設、不特定多数が集まるイベントなどの入場時のワクチン接種証明書提示に踏み切った。コロナ感染についてはわからないことが多い。だから、様々な情報が出回っている。最終的には個人の判断だが、感染症対策には、専門家の意見を参考にしながら、一人一人が社会的な視点からも考える必要があるだろう。

2番の意味では、「怒りが爆発する」などというのもある。日本人は一般的に、不愉快なことがあっても、それを出さずに溜め込む傾向があるように思う。時に強い不快な感情に囚われるのは、人間として当然のことだ。ただ、それをうまく昇華しないと消えることがないので、いつかは爆発してしまう。ただ奥に押し込んでしまわないで、その原因と向き合うことが、爆発をふせぐコツではないだろうか。もし、それが誰か人なら、その原因と思われる相手と話すのもいいし、あるいは、それができなければ、自分の気持ちと向き合って書いてみるのもいい。今湧いている感情、原因と思われること、どうしたいのか、などなど書いてみると、案外収まってくるかもしれない。どうしたらいいのか、何か案が浮かぶこともあるだろう。書くことは、自己カウンセリングになるように思う。

もう一つ思い浮かんだ言葉は、「爆発的な人気」。芸能人などもそうだが、それを得た人には、良し悪しのような気もする。爆発的な人気は、一時の爆発が終われば徐々に収まっていく。流行りはいずれ廃れるし、人の心は移ろっていくもの。人気のある時、うまくいっている時には人は寄ってくるが、落ち目になった時には離れていく。人気の芸能人などが、案外お酒などに溺れるのは、 いつまでこれが続くのだろうかという不安があるからかもしれない。よく、芸能人でなくても人気のある人に「あなたに付いていきます」などという人がいるが、ある日後ろを振り返ったら、その人が消えていたりして。爆発的な人気を博すより、静かで着実な支持の方が安心かもしれない。

 

 

スロージョギング

今週のお題「好きなスポーツ」

こちらは、スイス時間21日の夜。このテーマであれこれ考えて、いざコンピュータに向かったら、テーマが新しくなっている。日本では日付が変わって22日に。たぶん、夜中に切り替わったのだろう。けれども、そのつもりでいたので、そのまま書くことにした。

好きなスポーツというか運動は、ジョギング。ジョギングと言っても、スロージョギングである。別名、カメジョグ、または、走り禅。それぐらいゆっくりと1時間くらい走る。始めてから、もう10数年になるだろうか。若い頃は、あまりスポーツには縁がなかったけれど、人間、いつ変わるかわからないものである。ただ、ダンスはずっと好きだった。フラメンコを習っていたこともある。ヨガも、数十年前に独習してから、その都度自分に合うものを取り入れて、自分のスタイルで今も毎朝10分だけ続けているが、いわゆるスポーツというものは特にしていなかった。それが、2007年のある日、一念発起して走り出す。最初はちょっとキツかったけれども、そこを通り越してからは、「走りに行かなければ」から「走りに行きたい」に気持ちが変化。続けていくうちに、これはメンタルにいいと実感して、ますますやめられなくなった。幸い、スイスには森がたくさんあって、ジョギングコースのようなものも整備されている。コースの途中途中に、平均台だったり、鉄棒やリングだったり、いろいろな運動をするポイントがあるが、私はひたすら走る。後ろから走ってきた人が、追い越していく。でも、全然気にならない。なにしろ、私のは亀のようにゆっくりの「カメジョグ」。そして「走り禅」。走っていると、考えを巡らせていたことについて、ふっとアイデアが湧いてくる。気持ちを切り替えるのにも役に立つ。ジョギングに必要なのは、基本ランニングシューズだけ。もちろん、走りやすい服装は要るが、別に本格的にマラソンをするのでなければ、体操服のようなものでもいい。装備は何もいらない。何よりその手軽さが気に入っている。

身体を動かすことができるのであれば、気が沈みがちな人には運動をお勧めする。メンタルが下がっている時、助けになってくれる。私の場合はジョギングだが、続けていて、心と身体が密接につながっていることを実感している。

終戦の日に、島倉千代子さんの「からたち日記」を思う

76年目の8月15日を迎えた。終戦の時に20歳だった人が、今年はすでに96歳。太平洋戦争が始まったのは、1940年12月8日だが、昭和は1945年まで、日中戦争も含めて戦争の時代だった。昭和一桁生まれの人たちには、子供の頃からずっと戦争が背景にあったのだ。

もう20年近く前のことになるが、母と一緒に島倉千代子さんのコンサートに行った。長年連れ添った夫を亡くして気落ちしていた母の、せめてもの慰めになればと思ってのことだった。

幕が開いて、華やかに島倉さんが登場する。初老の女性が多い観客席から拍手が湧き起こる。周りを見渡すと、「東京だよ、おっかさん」など懐かしい歌の数々に、皆さん感慨深げだ。母もそうなのだろう、時々ハンカチを出しては目頭を押さえている。舞台では、ちょうど島倉さんが「からたち日記」を歌っているところだった。私には、この歌が戦中に青春を過ごした女性たちに捧げられたものに思われてならない。母は、日本がまっしぐらに戦争に向かっていく時代に生まれ育った。小学生の頃は歴代の天皇の名をすべて暗唱していたという。戦前の価値観を忠実に受け入れて育ち、終戦を迎えた。青春を謳歌する間もなく、家制度の時代に交わされた親同士の約束の人と結婚して、嫁としての生活が始まる。

母の世代には一生独身を通した人も多いと聞く。たくさんの青年たちが独身のまま南方の海や大陸に散り、帰らぬ人となったのだ。「からたち日記」がどういう経緯で作られたものかは知らない。島倉千代子が歌って大ヒットしたのは1958年だから、戦争とは関係ないのかもしれない。けれども、私には、この歌はまさに出征する青年への乙女の思いを綴ったものに思えてならないのだ。あの時代、若者たちは赤紙一枚で、有無を言わさず兵隊に取られた。夢も何もかも諦めて。学徒出陣の学生たちの思いが、遺稿集「きけ、わだつみの声」に集められている。

「からたち日記」はこう歌う。「心で好きと叫んでも口では言えず、ただあの人と小さな傘をかたむけた」。今の若い人のように「愛している」などと口に出せるわけもなく、ましてや人前で手をつなぐことなど考えられなかった時代。「くちづけすらの思い出も残してくれず、去りゆく影よ」、と2番の歌の後に、セリフ「このまま別れてしまってもいいの? でも、あの人はさみしそうに目を伏せて、それから、思い切るように霧の中に消えていきました」が続く。3番は「からたちの実がみのっても、別れた人はもう帰らない」と始まり、最後に「今日もまた私はひとりこの径を歩くのです。きっとあの人が帰ってきそうな、そんな気がして」というセリフで終わる。この乙女は、きっと万感の思いを込めて見送った兄の友達(私の想像の中で、彼は学徒出陣する)の帰りを戦後何年も待ち続け、そうしていつしか乙女のまま年取っていったに違いない。

復員してきた父に嫁ぎ、戦後の貧しさの中で家庭を持った母。妻にも母にもなれずに一人戦後を生きてきた女性たち。いずれも、「自由な青春」などとは無縁だった昭和の女たちだ。からたちは毎年可憐な花をつける。けれども、一つ一つの花は、一度しか咲くことがない。

戦争が終わって76年。その女性たちも、もうほとんどが母のように鬼籍に入っている。あの時代を知っている人たちが、どんどん少なくなっていく。だからこそ、戦後生まれの子の世代も含めて、少しでもその雰囲気を知っている者たちが、あの時代を語り継いでいかなければならない、と思う。 

 

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 野の花

占星心理学についてあれこれ

今週のお題「自由研究」

古今東西、占いと名のつくものはたくさんあって、常に一定の人気がある。人は自分の運命を知りたがる。「自由研究」のテーマで思い出したのが、昔少し勉強した占星心理学のこと。それを仕事にしたわけではないので、人生の途上で出会った「自由研究」だったのかもしれない。この占星心理学というのは、西洋占星術が土台だが、いわゆる古典的な星占いとは違って、これから起こることを予言したり、吉凶を占ったりするものではない。個人のホロスコープをもとに、その人の性格や気質を見ながら、どうやって内にある可能性を生かせるかを探るものだ。

占星心理学、あるいは心理占星術という場合もあるようだが、それは20世紀になってから提唱されてきたものである。私が習ったのは、スイス人のブルーノ・フーバーが確立したフーバー派の占星心理学で、占星が土台ではあるが、心理学的アプローチに重きをおいたもの。フーバー・メソッドのホロスコープには、真ん中に円があって、そこは空白になっている。たとえば、星と星のアスペクトが180度の場合、二つの星を結ぶ線は円の中心点を通るわけだが、円の中を通さずに、反対側に抜ける。このアスペクトは、古典的占星術では凶の状態になるが、占星心理学ではそうではなくて、互いの星が緊張関係を持っていると考える。緊張関係であれば、それをバネにすることもできるわけだ。よく、星の下の運命などと言われるけれど、その中心円に個の自由意志による可能性があると考えるところに心理学的なものを感じた。つまり、運命に流されるのではなく、自分のホロスコープの星の配置を知った上で、それを生かす道を探っていく。そこが面白いと思った。

占星心理学とのそもそもの縁は、ひょんなことから始まった。きっかけは、そうとう昔の話になる。仕事で知り合ったスイス人の女性から、初めて占星心理カウンセリングという言葉を聞く。映画通訳の仕事で、長い撮影期間中その人と一緒に動くことが多かったので、親しくなって個人的な話もするようになった。彼女は、当時ある悩みを抱えていたらしいが、そのカウンセリングで解決の糸口をもらったと言う。へえ、そういうものがあるのか、と興味をひかれた。

それからしばらくのことである。ギリシャに住んでいる夫の従姉妹を訪ねたところ、彼女がちょうどまた占星術に嵌っているところで、面白いから一回占ってもらいなさいよ、としきりに勧める。アテネ案内も兼ねて、行きつけの占い師のところに連れて行ってくれた。初めての星占い経験だ。その人は今思えば、古典的占星術の占い師さんだった。占いで言われたことは、すべからくいいことだけ覚えていればいい、と思う。ただ、一つだけ頭に残ったことがあって、もう少し深く知りたくなる。その後、紹介してくれる人がいて、間をおいてスイスで二人ほど占星カウンセラーのところを訪ねることになる。一人はまだ勉強中でまあまあの印象だったが、もう一人からはいろいろインスピレーションをもらった。私のホロスコープを見て、自分よりカウンセラーに向いていると言って、親切にも学校をいくつか紹介してくれる。今思えば面白いきっかけなのだが、もっと知りたいという興味が高まっていたので、コースを取ってみることにした。

占星心理学のカウンセリングでは、まずクライアントの誕生ホロスコープを作ることが基本になる。そのためには、正確な誕生時間と場所の緯度経度が必要だ。誕生の瞬間に、天の星の配置はどうなっていたのか。時間と場所が違えば、同じ星座の人でも、全く同じホロスコープということはない。地球上のある時間ある場所に生まれた個人を中心点として、360度の円に誕生時の12の星座と10の天体(太陽と月と水・金・火・木・土・天・海・冥の惑星)の位置が投影される。占星術の星座の順番は、占星術の黎明期に春分点があった牡羊座宮から始まって、魚座宮で終わる。何座生まれというのは、生まれた時に太陽が入っていた星座宮(サイン)による。けれども歳差運動で、現在は春分点が実際には魚座にあるので、牡羊座宮は、実際は魚座に太陽がある時期から始まるということになる。つまり、天文上の星座と占星星座にはズレがあるという認識が必要だ。春分点の移動周期は約2000年で、今からおよそ2000年前のキリスト誕生の頃から、魚座に移ったのだという。

太陽だけではない。10の天体の誕生時の位置も、その人の性質に影響を及ぼしていると考える。それぞれの天体には、それぞれ属性が与えられているが、星座宮には、これまたその属性があるので、それがどの星座宮に入っているかによって、働きが違う。また、生まれた時に東の地平線にあった星座は、上昇宮と呼ばれる。太陽のある星座宮がその人の内側にある本質的傾向を表すのに対して、上昇宮はその人の表面上の傾向を表す。上昇宮が入っている、円の左の起点から反時計回りに、年齢点が12のハウスを通過していくが、そのハウスがどの星座宮にあるか、また、そこにどんな星が入っているかも、その人を見る上で大事なものになる。占星学では予言はしないが、年齢点の通過過程を見れば、抽象的にはいつ頃どんなことがあるかはわかることになる。その他、天頂にある星がその人の目指すものを表すとか、星同士のアスペクトの意味とか、また、それぞれの星座宮も、よく知られている火・地・風・水の4グループ分けだけでなく、活動・安定・変化の3つのグループ分けなど、いろいろと約束事を学ぶ必要がある。

全過程を終えたあと、ディプロムを取って占星心理カウンセラーになる道もある。もともと勧められてコースを始めた私だったが、その道は選ばなかった。練習に、生徒同士で相手を診断する時間もあって、星座宮や星や様々な事柄を組み合わせてその人を見るのは面白かった。パズルのように頭を使う。直観も働かせながらの作業はとても興味深いのだが、仕事にするまでの信念を持つことはできなかった。前提となる決まりごとへのなぜ?はその一つだ。ただ、悩みがあるときに、それを解決する糸口になるということは確かだとは思う。それは、なぜか。ある友達が言っていたが、2時間もこんなに自分のことだけをテーマにして話したことはないと。これはひとつの鍵だと思う。人が抱える問題は、理屈だけでは解決できないことも多い。ゼロから話を始めて本音が出てくるまでには、かなりの時間がかかるだろう。そんな時、ホロスコープという、ある約束事を基にした自分についての情報を前にして、納得や反発を持ちながら考えることは、近道ではある。どんなカウンセリングもそうであるように、本人の気づきを引き出すことが重要だ。一つ大事なことは、いいカウンセラーを選ぶこと。占星は、証明が基本の科学ではなくて、いわばアートである。占星学の約束事を学んだだけでは、いいカウンセリングはできない。鑑定する人の技と洞察力がものを言う。そういう意味でも、アートである。

 

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思い出のバニラアイスクリーム

今週のお題「好きなアイス」

好きなアイスは、いろいろある。バニラアイスベースで、胡桃入り、マカデミアンナッツ入り、メープルシロップ入りなど。モカのアイスクリームも美味しい。スイスの街角では、Gelateriaと呼ばれるアイス屋さんが、いろいろな種類のアイスを店頭に並べて、老若男女に人気である。

子供の頃は、こんなにたくさんのアイスクリームがあるなんて知らなかった。夏といえば、かき氷。いろいろなシロップをかけたかき氷が、日本の蒸し暑い夏にはぴったりだった。メロンの緑、イチゴの赤、それから、小豆のかき氷。そうそう、小豆ミルクだっけ、コンデンスミルクとかけ合わせたのも美味しかった。10代になってからは、ソフトクリームがお気に入りになって、これは夏でなくても食べたものだ。

子供の私の中では、アイスクリームは特別な日の食べ物、何となく高級感と結びついていて、よそ行きの顔をしていた。父に連れられて見学に行った氷川丸の食堂で食べた、脚の長い銀の器に小さく盛られたバニラアイス。四角く上品なスプーンで掬って舌の上に乗せる。とろけるような味だった。父と出かけた日の、思い出のバニラアイスクリーム。

氷川丸は、昭和5年に貨客船として北米航路シアトル線に配線されたとのこと。太平洋戦争で航路休止になるまで、多くの乗客を乗せて活躍したそうだ。利用客には、チャップリンや皇族、柔道の嘉納治五郎などの著名人もいたという。その後、戦争中は病院船として、南方戦線に赴き、戦後は、引き上げ船として大陸から邦人を輸送。その後はいろいろな任務を経て、再び貨客線として、シアトル航路に戻ったのだそうだ。やがて、時代の変化に伴って、1960年には引退。

歴史とともに歩んだこの船は、船舶としての役目を終えたのち、1961年から横浜港の桟橋に横付けされて、見学船となった。山下公園に係留しているそうだ。そうだ、というのは、大きな桟橋から乗船したような記憶があるので。小さかったから、場所をよく覚えていないのだ。覚えているのは、父と一緒に行ったこと、港の景色、船の中を見学したこと、そして、アイスクリームを食べたこと。

父は自由人で、というか、好奇心が強くて、休みになるといろいろな所へ出かけて行った。時々は、私も一緒に連れて。浅草の何かの市へ行った記憶もある。すべて、小さかった頃のことで、はっきりは覚えていない。あの時、どうして父は、私を氷川丸に連れて行ってくれたのだろう。あれから、家族の歴史にもいろいろなことがあり、ずいぶんの時が流れた。父が他界してからも久しい。あの銀の丈高い器に盛られたアイスクリームと、父の白い開襟シャツを懐かしく思い出す。父は、お酒が入ると、よく横浜を舞台にした「港の見える丘」を歌った。カフェでコーヒーを楽しんだり、レコードで洋楽を聴いたり、いわゆるモダンな人だったが、あの年代の多くの日本人たちと同じく、若い時を戦争に翻弄された人生だったのだと思う。

 

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野の花

二つの東京オリンピック

今、東京オリンピックが開催されている。1964年に続き、2回目の東京でのオリンピックになる。だが、東京オリンピックと言っても、この二つには天と地ほどの違いがあると感じる。

1964年のオリンピックは、戦後19年、敗戦の焼け野原から復興した日本が、世界に向かって平和国家としての繁栄を示すものになった。当時は、海外旅行は一般の庶民にとっては、まだまだ夢のようなものだった。観光目的の渡航は、オリンピックの年の4月から、やっとできるようになる。それも、1人年1回500ドルの持ち出し制限付きだったという。まだ固定為替相場で、1ドル360円の時代だった。

そんな時代に、世界の国々からお客さまを迎える祭典は、国を挙げての一大事で、とにかく、オリンピックに向かって全てが整えられていった。初の新幹線が開通したのも1964年。東京と大阪を結ぶ東海道新幹線が開業したのは10月1日である。数年前から販売されはじめていたカラーテレビも、この年を機に売り上げが伸びていったそうだ。当時、我が家にはカラーテレビがあったのだろうか。それは覚えていないのだが、開会式で行進する日本選手団の、ジャケットの赤と、ズホンとスカートの白が鮮やかに目に残っている。行進の最後に入場する選手団の笑顔が、秋晴れの爽やかな青空に映えていた。1964年の東京オリンピックは、10月10日、まさにスポーツにふさわしい季節に開催されたのだ。

一方、今回の東京オリンピックはどうだろう。東京の夏といえば、昔から酷暑で有名だ。気温が高い上に湿気がたまらない。戦前の小説にもあるように、お金持ちは東京の暑さを避けて軽井沢などに避暑に行ったものである。それなのに、わざわざそんな東京にスポーツの大会を招致するなど、普通に考えたらありえない発想だろう。2020年から延期したのだから、せめても秋に切り替えるということはできなかったのか。最近は気候変動で、10月の半ばまでは台風が来るから、10月の末か11月の始めとか。夏になったのは、テレビの放映権の都合もあると聞いた。それでは、アスリート主体も何もあったものではない。4年に一度の機会にすべてを賭けて、練習を重ねてきた選手たちが最善の結果を出せない設定には、彼らへの敬意さえない。主役であるべきアスリートを利用した、IOCのための壮大な興行にも見えてくる。

そもそも、2020年東京オリンピック招致には、いくつかの真実ではない言葉があった。「東京の夏はスポーツに最適の季節」「原発の汚染水は港湾内でブロックされている」「フクシマはアンダーコントロール」。そして、国内に向けては、「福島復興の証のオリンピック」などとアピールしたようだ。しかし、実態は違っていて、復興に回されるべき資材が、オリンピック施設の建設のために東京に集中してしまったという話も聞いた。実際、オリンピック開催で福島の人達を勇気づけたいと言われたところで、未だに仮設住宅で暮らさざるをえない人達には、なんと虚しい言葉だろうか。2011年の大震災と原発事故を経験した日本が、この10年、何をおいても集中してやらなければならなかったのは、次の大震災への備えと原発対策ではなかっただろうか。

そして、このコロナ禍でのオリンピック開催だ。「おもてなし」をキャッチフレーズにした東京オリンピック。それが不可能になった時点で、潔い決断ができなかったものなのか。再延期なら、もちろんアスリートにも次のチャンスがない人も出るかもしれない。ただ、選手村から一歩も出ることができずに、会場との往復だけ。日本の人々と触れ合い、滞在を楽しんでもらうこともできないのだ。どんな印象を持って自国に戻っていくのだろう。また、日本の人たちは、コロナ感染の広がりを恐れているし、医療崩壊も懸念されている。本当なら、オリンピックどころの気持ちではないだろう。「始まってしまったのだから、仕方ない」と言う向きもあるようだが、突き進んだ結果が心配だ。選手たちの健闘と安全、そして、日本の人たちの間に感染爆発が起きないことを祈っている。

1964年の東京オリンピックは、日本にとって、世界に向けて戦後の復興と繁栄をアピールする場となった。当時の首相は、池田勇人。「所得倍増」のキャッチフレーズが有名だが、貧しかった戦後の日本人の生活を豊かにしようと、それなりの信念を持って行動した人だろう。昔の政治家には、有言実行が生き方としてあったように思う。今の日本には、上に立つ人達の間に虚言がまかり通ってしまった感がある。オリンピックを巡るこの間のあれこれを見ていると、日本のトップには、責任を持って大義にあたる人物がいないようだ。1964年のオリンピックは、繁栄していく平和国家として、日本が世界に認知された大会だった。今回のオリンピックが、日本の衰退と負の部分を世界に知らしめる大会にならないことを切に願っている。

 

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