スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

お茶と親戚のおじさんの思い出話

今週のお題「好きなお茶」

海外にいると、日本茶が懐かしくなる。昔は、日本へ帰るたびにお茶をまとめ買いしてきた。日本食品店などでは、日本茶を売ってはいるが、そんなにレパートリーは多くないし。やがていつ頃からか、こちらのスーパーなどでも「グリーンティー」と銘打って、ティーバックが出回るようになった。たいてい他のハーブも入っている。試してみたが、美味しいものはなかった。チューリッヒには一軒、コーヒーや様々なティーを売っている老舗の店がある。そこでは、いつ頃からなのかわからないが、日本茶も売っていて、そこの玄米茶は美味しい。好きなお茶は、香りのいい玄米茶だろうか。日本人の方がやっているお茶屋さんもあった。知らないだけで、今もお茶の輸入を手がけている人はいるのかもしれない。緑茶は身体にいいということで、こちらの健康志向の人たちには人気だ。

お茶にまつわる思い出がある。子供の頃、東京の我が家には、地方からの親戚が時々泊まりに来ていた。東京の大学に入ったお兄さんお姉さんだったり、祖母を訪ねに来てくれた親戚の人だったり、用事があっての上京のついでに挨拶に来てくれた縁戚関係の人だったり。今思うと、母はそれなりに大変だったかもしれないが、嫌な顔一つせずに快くもてなしていた。若い人たちは食べ盛りなので、ご飯をたくさん炊いて、さあどんどんお代わりしなさい、と。年配の人たちが泊まりに来た翌朝は、早くから座敷で話し声や笑い声が聞こえた。みんなでお茶を飲みながら、よもやま話に花を咲かせているのだ。たいてい、昆布の佃煮や梅干しなどをお茶受けにしながら。それから、朝ごはんになる。大人は、朝必ずお茶を飲むものなんだ、と子供心に思った。

その中に一人、信心深い、話好きなおじさんがいて、よく法話のようなものを聞かせてくれた。伯父でも叔父でもないけれど、祖母の讃岐の親戚のおじさんだった。讃岐といえば、弘法大師空海さんの生まれ故郷。四国は言わずと知れた「お遍路さん」の土地である。お遍路さんは、お大師さんと二人で歩く。そのおじさんのお話は面白くて、小学生の私も座敷に座って耳を傾けた。たいてい仏教のお話だった。ところで、あのおじさんの宗派は何だったのだろう。当時の私には知る由もない。いま思うには、真言宗か浄土真宗のどちらかだったのだろう。讃岐の人、弘法大師は真言密教の真言宗を開山。有名な善通寺さんは真言宗のお寺だが、四国には浄土真宗のお寺も多い。おじさんは、いつもお茶を飲みながら、讃岐弁でいろいろなたとえ話を交えて説法をしてくれた。今でも覚えている話がある。それは、おじさんの考えとは違う感想を持ったからだ。法話の内容から、中学生にはなっていたのか、それはもう覚えていない。色恋沙汰にまつわる諸行無常の話だった。おじさんが言うには、相手がどんなに美しく、恋しい恋しいと思っていても、一皮むけば血膿の流れる生身の人間、それを想像すれば未練も断てるだろうと。何だか「今昔物語」みたいだ。その時私が思ったのは、逆にそんな生身の人間だからこそ、その儚さに執着するのではないか、それはそれでいいではないか、と。

おじさんは私を指して「この家でこんなに熱心に話を聞いてくれるのは、Kちゃんだけやなあ」と言ったことがある。大人たちは、少し聞き飽きていたのかもしれない。だが、私が人の話をよく聞く子供だったのは、今振り返っても確かだとは思う。誰かが話し始めれば、必ず静かにしてその人に耳を傾けたものだ。

人の話を聞くことは、世界を広げることだ。自分の意見も言うし、議論も嫌いじゃない。でも、まず相手の話を聞くことは、コミュニケーションの基本だと思う。できたら、熱くて美味しいお茶を入れてゆっくりと。