スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

終戦の日に、島倉千代子さんの「からたち日記」を思う

76年目の8月15日を迎えた。終戦の時に20歳だった人が、今年はすでに96歳。太平洋戦争が始まったのは、1940年12月8日だが、昭和は1945年まで、日中戦争も含めて戦争の時代だった。昭和一桁生まれの人たちには、子供の頃からずっと戦争が背景にあったのだ。

もう20年近く前のことになるが、母と一緒に島倉千代子さんのコンサートに行った。長年連れ添った夫を亡くして気落ちしていた母の、せめてもの慰めになればと思ってのことだった。

幕が開いて、華やかに島倉さんが登場する。初老の女性が多い観客席から拍手が湧き起こる。周りを見渡すと、「東京だよ、おっかさん」など懐かしい歌の数々に、皆さん感慨深げだ。母もそうなのだろう、時々ハンカチを出しては目頭を押さえている。舞台では、ちょうど島倉さんが「からたち日記」を歌っているところだった。私には、この歌が戦中に青春を過ごした女性たちに捧げられたものに思われてならない。母は、日本がまっしぐらに戦争に向かっていく時代に生まれ育った。小学生の頃は歴代の天皇の名をすべて暗唱していたという。戦前の価値観を忠実に受け入れて育ち、終戦を迎えた。青春を謳歌する間もなく、家制度の時代に交わされた親同士の約束の人と結婚して、嫁としての生活が始まる。

母の世代には一生独身を通した人も多いと聞く。たくさんの青年たちが独身のまま南方の海や大陸に散り、帰らぬ人となったのだ。「からたち日記」がどういう経緯で作られたものかは知らない。島倉千代子が歌って大ヒットしたのは1958年だから、戦争とは関係ないのかもしれない。けれども、私には、この歌はまさに出征する青年への乙女の思いを綴ったものに思えてならないのだ。あの時代、若者たちは赤紙一枚で、有無を言わさず兵隊に取られた。夢も何もかも諦めて。学徒出陣の学生たちの思いが、遺稿集「きけ、わだつみの声」に集められている。

「からたち日記」はこう歌う。「心で好きと叫んでも口では言えず、ただあの人と小さな傘をかたむけた」。今の若い人のように「愛している」などと口に出せるわけもなく、ましてや人前で手をつなぐことなど考えられなかった時代。「くちづけすらの思い出も残してくれず、去りゆく影よ」、と2番の歌の後に、セリフ「このまま別れてしまってもいいの? でも、あの人はさみしそうに目を伏せて、それから、思い切るように霧の中に消えていきました」が続く。3番は「からたちの実がみのっても、別れた人はもう帰らない」と始まり、最後に「今日もまた私はひとりこの径を歩くのです。きっとあの人が帰ってきそうな、そんな気がして」というセリフで終わる。この乙女は、きっと万感の思いを込めて見送った兄の友達(私の想像の中で、彼は学徒出陣する)の帰りを戦後何年も待ち続け、そうしていつしか乙女のまま年取っていったに違いない。

復員してきた父に嫁ぎ、戦後の貧しさの中で家庭を持った母。妻にも母にもなれずに一人戦後を生きてきた女性たち。いずれも、「自由な青春」などとは無縁だった昭和の女たちだ。からたちは毎年可憐な花をつける。けれども、一つ一つの花は、一度しか咲くことがない。

戦争が終わって76年。その女性たちも、もうほとんどが母のように鬼籍に入っている。あの時代を知っている人たちが、どんどん少なくなっていく。だからこそ、戦後生まれの子の世代も含めて、少しでもその雰囲気を知っている者たちが、あの時代を語り継いでいかなければならない、と思う。 

 

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