スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

スイスで食べる納豆の話

今週のお題「納豆」

スイスで納豆を手に入れるには、日本食料品店に出向いて冷凍品を買うのが普通である。だいたい3個入りパックで5フランくらいだろうか。今の日本円にすると、700円以上?ということは、ひとつ250円近くになるかな?もしかしたら、もっと高くなっているかもしれない。まれに、料理好きの日本人で手作りする人もいるのかもしれないけれど、私の回りでは知らない。

私は納豆が大好きで、日本にいる時はよく食べていた。納豆は身体にいいと言われている。ネギを刻んで入れるのが好きだ。ネギ類も身体にいい。辛子も少しだけ入れてお醤油をかけて混ぜる。それをあったかいご飯に載せて食べるのは最高だ。ついついご飯が進む。ここで大事なのは、美味しいお米で炊いたご飯である。昔の日本のお米は美味しかった。国内産のお米を優遇するために、輸入は規制されていたと思う。その後、規制が緩和されて、いわゆる外米が入ってきた。昭和の頃は、お米はお米屋さんで買うものだったが、スーパーでも売られ出すようになったのは、いつくらいからだったろうか。

本当は、毎日でも納豆を食べたいところだが、こちらではそうもいかない。美味しいご飯を炊いたときに、だいじにご飯に載せて食べる。日本食料品店では、日本のお米を売っているが、けっこう高い。やはり海外にいると、ましてや配偶者がスイス人となると、毎日ご飯を炊いて食べるわけではない。それに夫は、納豆は人が食べているのを見るのも苦手というので、最初のうちは遠慮していた。こちらは学校給食がないので、子供はお昼ごはんに家に戻ってくる。ウチの子は納豆が好き。だから、晩ごはんではなくて、夫のいないお昼には堂々と食べられた。普段は、イタリア米で日本のお米に似たものを使っていたが、その時はとっておきの日本米を炊いて。あったかいご飯に、納豆、焼き海苔、味噌汁、焼き魚、豆腐料理、こんなメニューは最高だ。そして、お醤油は日本食には必需品。今でこそ、MigrosやCoopなどのスーパーでも手に入るようになったが、来た当時はチューリッヒの日本食品店まで買いに行ったものだ。

食習慣というものは、国によって様々。数年来の日本食ブームで、お醤油を炊きしめた匂いや焼き魚の匂いも違和感なく受け入れられるようになった。今から30数年前、毎日ドイツ語学校に通いながら、午後は日本人観光客相手のお土産物屋さんでパートをしていた頃のエピソードをひとつ。お昼時に地下の小さな台所で簡単な料理をする同僚もいた。すると、ある日、隣のブティックからクレームが来たのだ。臭いからやめてほしいと。地下室から隣のお店に匂いが漏れていたのだった。日本人には懐かしの匂いも、スイスの人にはちょっとこれ何?だったのだろう。お隣は高級ブティック。幸い、匂いは上のお店には届かなかったかもしれないが、地下が、同じように店員さんの休憩室になっていたのかもしれない。それにしても、まだ日本人永住組も今ほど多くはなかった時代を思い出すと、なかなか感慨深いものがある。

 

 

注目の日本人男性二人

月と暁けの明星

注目の、と言っても、ただ私が注目しているということなのだが。それは、山本太郎氏と中田敦彦氏。共に40代、共に芸能界出身の人である。この二人に共通するのは、その行動力と溢れるエネルギー。そして、既成の価値観にこだわらない自由さとでもいうか。と言っても、この二人が身を置く世界はだいぶ違っている。

山本太郎さんを知ったのは、かれこれ10年ほど前、彼が初めて衆議院議員選挙に立候補した時のことだ。太郎さんがタレントや俳優として活躍していた頃のことは全く知らない。フランス映画だったか「かくも長き不在」という映画があったけれど、インターネットが普及するまでは、日本の芸能界の情報などは入って来なかったし。16歳の時にメロリンキューでブレイクして、その後芸能活動を始めたのだという。やがて人気が出て、俳優としても地位を確立していったそうだ。彼のそういった歴史を知ったのは、それこそ、太郎さんが反原発運動に関わるようになって、段々と芸能活動が難しくなっていったと聞いた頃のこと。世間の入り方とは反対みたいだ。最初の印象は、端正な顔立ちで人気もある芸能人らしいのに、偉ぶらない礼儀正しい青年だなあというもの。自分は陽の当たる場所にいたのに、一貫して陽の当たらない場所にいる人たちに寄り添おうとしている人だなあとの印象を受けた。

彼の話によると、芸能の仕事が少なくなっていった選挙に出るまでの1、2年は、被災地などを回っていたようだ。そして、原発問題から社会に目を開かれた彼の眼に映ったのは、この日本社会に広がっている格差や貧困の問題だったという。社会を良くするためには、政治を変えるしかないという信念で、2012年の衆議院選挙に立候補したわけだ。しかし、長い芸能活動の中で、たくさんの有名人の知り合いがいた彼の応援演説に駆け付けたのは、ジュリーこと沢田研二さんのみ。あの時のジュリーは、見かけは往年の若き日とはすっかり変わってはいたけれど、その心意気がかっこよかった。2012年の衆院選は、民主党から自民党に再び政権交代をもたらした選挙。太郎さんは、地盤盤石で石原軍団の応援を受けている上に、自民政権奪還の追い風に乗った石原伸晃対立候補に挑戦。しかし、惜しくも敗れた。そして、翌年の参議院選挙に再び立候補して初当選、政治家としての歩みが始まった。

それからの活躍ぶりはめざましかった。私は、太郎さんを知ってから、彼の真っ直ぐな姿勢とその人間性に惹かれ、ずっと注目していた。何かで読んだのだが、国会議員になりたての頃は、やはりいろいろ大変だったようだ。けれども、猛勉強をしてたくさんのことを学び、国会でも多くの質問趣意書を出している。議員になっても、その地位に胡座をかくだけで何の勉強もせず、ただ議決の際の党の賛成要員としてだけ存在している人も少なくない。今の政権与党に多いケースだ。太郎さんはその正反対。なぜ政治家になったのか。それは地位が欲しいからではない。富と名声ならすでに俳優時代に得ているし。わざわざ茨の道を選んだのは、この国に生きる人たちをこのまま放っておけなかったから。たくさんの困った人たちに出会い、見て見ぬ振りができなかったから。そして、自分も含めて、日本に暮らす皆を救う道は政治の改革にしかないと喝破したから。

まずは無所属として独りで活動を始め、それから請われて、小沢一郎氏の党に合流する。その時のエピソードが面白い。小沢氏の党名は「生活の党」だったが、太郎さんは、自身の政治団体名「山本太郎となかまたち」も付け加えることを要望。その時の小沢氏とのエピソードもユーモラスだった。太郎さんは、いろいろ党名の提案をしたそうだが、その中には「一郎、太郎」というのもあったとか。小沢氏は、太郎さんの奇抜な提案を無碍に否定はしない人だったそうで、ただ、政党名に党首の名前は入れられないからな、と答えたそうな。そして、けっきょくあの長い名前になったそうだ。

山本太郎という人を見ていると、非常に頭のいい人だと思う。これは学歴とか関係ないこと。頭の回転が早いし、先を見通す力がある。そして、その深謀遠慮をユーモアに包んで、でも、いつも真剣勝負だ。ふざけて人を笑わせたりもするのだが、この10年の歩みを見て思うのは、本質的に真面目で誠実な人だということ。何かのSNSに彼の昔の雑誌インタビューを載せていた人がいた。若手俳優としてメキメキと売り出していた頃の女性雑誌の記事だった。その中の言葉がとても印象に残った。それは、「愛ある人でありたい」というものだった。それが、今の彼の基本理念でもあるのだと思う。「あなたを幸せにしたいんだ」というれいわ新選組のキャッチフレーズにそれが滲み出ている。

さて、もう一人の注目の人、中田敦彦さんに移ろう。彼のことを知ったのは、2、3年前のこと。たまたま、YouTubeで「風の谷のナウシカ」の解説をしている人に行き会う。そして、その面白さに引き込まれてしまった。誰だろう、この人は。YouTube大学とあるから、学校の先生?それにしても、話が上手い。まあ、ホワイトボードを背に、身振り手振りの大立ち回り。誰かがシナリオを書いて、先生が説明しているにしては面白すぎる。素人さんにはできない技だ。それで調べてみたら、何と芸人さん。オリエンタルラジオという二人組の芸人として活躍していた人らしい、ということがわかる。何でも、10数年ほど前に一世を風靡したらしい。

知らなかったが、お笑い芸人と呼ばれる人たちが日本のテレビを席巻していた時期があったようだ。私が日本にいた頃は、漫才師や落語家はよく知られていたが、いわゆる「お笑い芸人」というのは、まだまだ新しかったと思う。それこそ、ビートたけしあたりから始まったのではないか。お笑い芸人が何やかんやと騒いでいるバラエティー番組が人気だったらしい。私は、ビートたけし的な人を嘲笑ったり小突いたりして笑いをとる芸は好きじゃなかったし、松本人志という人も出てきていたが、どこか偉そうな上から目線で、好ましい感じがしなかった。それで、日本のお笑い番組からは遠ざかってしまった。落語は芸だけれど、「お笑い芸人」の人たちには、あまり芸のある人がいないように見受けられた。

けれども、中田敦彦という人を知って、そのオリエンタルラジオのコントをYouTubeで探してみた。リズムネタというらしいのだが、これはなかなか面白かった。誰かを傷つけてネタにするのではなく、昔の漫才にリズムのノリを上乗せした感じ。相方の藤森慎吾という人もなかなかで「あっちゃん、すご~い」と、ひたすら相手を持ち上げる芸は、誰にでもできるものではないと思った。この中田敦彦という人の特別なところは、自分語りが多くても嫌味にならないところである。たとえば「PERFECT HUMAN」というパフォーマンスが大ヒットしたらしいのだが、普通ならちょっと気恥ずかしくてできない俺様芸が、けっこうスンナリ受け入れられてしまう。周りに「ナカタ、ナカタ」と言わせて登場、中田敦彦がPERFECT HUMANというわけである。彼は戦略家。企画を立てネタを書くのはいつも彼だという。ただ、いろいろ見てみたけれど、「常識人」藤森慎吾という人が傍にいる支えは大きいのではないか。そういう意味でいいコンビである。コンビというのは難しい。長い年月のうちには軋轢もあったようだ。相方さんがブレイクして、彼が置いてきぼり感を持ったりした時期もあったらしい。

テレビには馴染めず、低空飛行中に手探りで始めたのがYouTubeだったらしい。試行錯誤を重ねて、いまでは登録者500万人を超える教育系トップユーチューバーに上り詰めた。実際、YouTube大学は面白い。彼のモットーは「学ぶって面白い」を普及すること。確かに、自分の経験上も学校の授業はつまらないものが多かった。もし、中田敦彦のような先生だったら、授業も面白くてどんどん知識を吸収できるのではないかと思う。本来、皆んな学びたいのだと思う。ただしかし、ひとつだけ気になることはある。観初めの頃、日本の甥に「中田敦彦って知ってる?」と聞いてみた。すると、彼は若干否定的に「ああ。でもあの人、ホリ何某って人と繋がってるみたいだよ」と言う。甥にとっては、ホリ何某さん的な考え方は受け入れ難いものなのだ。いわば、強者の論理を持つ人。甥は小学生の時に母親を亡くし、その後もいろんな事情で勉強に集中できなかった。そうやって大人になれば、自ずと仕事も限られてくる。思いやりのある気のいい子で、それだけに、声の大きい者が、恵まれない人に対して自己責任論をぶち上げる今の世の中では生きづらい。

けれども私は、中田さんは、この辺はホリ何某さんとは少し違うような気がしている。彼自身も高学歴だし、本人曰く、大学受験までは高級官僚を目指して勉強に励んでいたそうで、野心家でもある。だが、彼の番組を観ていると、あれだけ「ナルシスト」なのに、偉そうに慢心していった芸人たちとは違うものがあるように見受けられる。それは、他者を楽しませて喜んでもらうことが、自分の喜びにもなっていることではないか。あのYouTube大学だって、皆んなに学んでもらいたい、それが、引いてはより良い生き方、より良い社会に繋がると考えているのではないか。大学の先生は、研究者だ。でも、高校までの先生は、すでにある知識を生徒たちに伝えるのが仕事。そう言う意味では、YouTube大学と銘打ってはいるけれど、中田さんの役割は高校の先生だろう。そこでお願いしたいのは、教材選びである。特に社会評論の分野では、強者の側に立った本や考え方だけを紹介するのじゃないよう気をつけていただきたいなとは思う。頭のいい勉強家の人だ、本質を見通せる方だとは思っているが。

山本太郎という政治家、中田敦彦というビジネスマン。共に、今が働き盛りの男たち。右だとか左だとか、上だとか下だとかにこだわらない、自由な発想の新しい男たち。この二人、タイプはだいぶ違う。一方は、自分のためとは言っているが、明らかに民のために人生を捧げることを選んだ人。プライベートな楽しみの暇もなく全国を遊説する毎日。党が大きくなっても、自分が冨む道ではない。一方は、視聴者が増えれば増えるほど、自分も豊かになっていくし、社会的な地位も得ていく。けれども、彼は彼なりのやり方で人々に希望を与え、より良い社会を目指しているように感じる。強者になっても弱者に目を向けられる人だと信じたい。山本太郎、中田敦彦、これからどう動いていくか、これからも目が離せない二人だ。

 

 

 

 

「修証義」幼少時からの疑問が解けた話

ひょんなことから、長年の疑問が解けた。先週のことである。日本武道を教えるこちらの道場で空手のセミナーが開かれて、参加した。と言っても、私が空手をやっているわけではない。あるご縁で開会の挨拶を頼まれたので。日本から空手9段の師範を迎えて、スイスはじめ、ドイツやイタリアからも集まった生徒さんたちが直接指導を受けるというものだった。

空手9段といったら、これは大したものだ。それはもう数えるほどしかおられない。先生は、85歳の小柄な方だったが、指導中の動きは大変機敏で、さすがというしかない。そして、空手の師範というだけでなく、禅寺の住職さんでもあられた。セミナーの後の夕食の席でお隣になったので、あるお経について長年知りたかったことを伺って、疑問が解けた。

小さい頃から、私の頭の中を巡っていた「呪文」がある。「しょうをあきらめしをあきらむるはぶっけいちだいじのいんねんなり。しょうじのなかにしょうじあり」。私が子供の頃、毎月祖父の命日には父がお経をあげるという習慣があった。お仏壇を前にして父がお経を唱え、家族もその後ろに座って唱和するというもの。ちなみに、うちはお寺さんではない。普通の勤め人の家庭だった。また、たいていの日本の家庭がそうであるように、お仏壇と神棚の両方が置かれていた。父が唱えるお経はいくつかあったけれど、その中にあの「呪文」の言葉があって、幼心にそれを妙に覚えていた。障子を開けても開けてもまだ障子があるの?ん?

「先生、実は、子供の頃これこれしかじかだったのですが、このお経は何というのですか」と伺うと、「ああ、それは修証義ですね」と言われる。修証義というのは、曹洞宗のお経だそうだ。そういえば、実家の宗旨はいちおう禅宗だった。禅宗には、臨済宗と曹洞宗、それに黄檗宗があるけれど、うちは曹洞宗のお寺さんに仏事をお願いしていたっけと思い出した。「いっしんちょうらいなんとくえんまんしゃかーにょーらいしんじんしゃーりー」というお経の文句も頭に残っている。

今はインターネットの時代、疑問があればすぐに調べられる。昔は、特に海外にいるとなると、日本の文献を調べるのは難儀なことで、このお経の文句のこともずーっと忘れていた。こうして、たまたま禅寺のご住職と親しく話す機会を得て、この文句が頭の中に浮上。長年の疑問が解決したというわけだ。さっそく家に帰ってからインターネットで調べてみた。修証義は、道元の「正法眼蔵」の中の教えを在家信者向けに編集したものなのだそうだ。そして、私が覚えていた箇所は、次の文言だった。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし」やはり、幼子の記憶である。「しょうじのなかにしょうじあり」というのは、何処にあったのだろう。「生死の中に仏あれば生死なし」という文言とはちょっと違っていた。長年のうちに思い違いをしていたのかもしれない。生き死にの中に『仏』があれば、あるいは、あるのだから、生き死にに違いはないというのは深遠な考えだ。この『仏』が何なのかが鍵かもしれない。

満天の星を見上げる時、今この小さな星に生きている不思議の念に打たれる。我々は何処からきて何処に行くのか。いま此処にある『わたし』とは何なのか。世界は何でできているのか。何がこの宇宙を動かしているのか。科学はそれの根源を知りたくて興った学問だと思う。そして、宗教も。特に仏教の教えは、最新科学とも相容れるもので、私はたいへん興味深いと思っている。逆に言えば、科学が仏教に追いついてきたとも言えるような。

 

 

夢で見た映画女優さんから広がった連想

なんの脈略もないのに、女優の藤村志保さんが夢に出てきた。別に前日に彼女の映画を観たわけでもないし、インターネットで記事を読んだわけでもない。日本にいた頃は、ドラマなどでお見かけして、立ち居振る舞いの上品な美しい人だなと思っていたが、その後、まったく考えたこともなかったのだ。帰省の際に、テレビなどでたまたま見たことはあったかもしれない。でも、それも最近のことではないし、実に不思議なことである。

それで、藤村志保さんについて調べてみた。1939年生まれで、現在84歳。女優の仕事だけでなく、地唄舞もされるし、本も書かれるしで、多才な方のようだ。以下、ウィキぺディアからの情報。4歳の時、父親を戦争で失い、毛糸商を営む母に育てられた。1957年、フェリス女学院高等部を卒業。1961年、大映京都撮影所演技研究所に入所。1962年、「破戒」に出演して各種新人賞を受賞。以降、大映のスターとして主に時代劇で活躍。

まだ5大映画会社が健在で、銀幕のスターがいた時代である。松竹、東宝、大映、東映、日活。ギリギリいい時期に映画界に入った人かもしれない。昔は、監督もスタッフも俳優も映画会社に入社してキャリアを始めていったものだ。スターに成るべくして採用される俳優たちもいたが、大部屋というのがあって、そこから名脇役に成る人もいた。言ってみれば、会社勤めである。けれど、テレビの隆盛に伴って、60年代も後半になると、映画産業は目に見えて衰えていく。大映はなくなったし、数々の時代劇を作っていた東映はヤクザ映画に転換、60年代青春映画の日活はロマンポルノ路線に方針変換した。

東映は、その昔時代劇の大物俳優を輩出した。私の一推しは、なんと言っても東千代之介。端正な顔立ちに、上品な立ち居振る舞い、立ち回りの俊敏さは素晴らしかった。東映は、1950年代半ばに歌舞伎界から東千代之介を迎え、その後中村錦之助も加わり、次々に時代劇の大ヒットを飛ばして行った。しかし、60年代半ば過ぎに、会社が任侠路線に切り替えてから、けっきょく東千代之介は東映を退所する。あの正義感と誠実さを絵に描いたような俳優さんにはヤクザは似合わない。本当に惚れ惚れするような時代劇の人だった。

松竹は、「男はつらいよ」寅さんシリーズに救われたと思う。1969年の一作目が予想以上の大ヒット。一本で終わるつもりが、「続・男はつらいよ」を皮切りに、その後次々とシリーズが続いて行って、1995年の「男はつらいよ・紅の花」まで、実に48作。ギネスブックにも載ったほどだ。最後の頃の渥美清さんは病気で、「紅の花」では、彼の衰弱も見ていてわかるくらいだった。そして、翌年には亡くなっている。松竹にとっては、寅さんシリーズはまさにドル箱。社運を担う作品だった。山田洋次監督も渥美清さんも、やめるにやめられなかったことだろう。山田監督は、続けるための条件として、寅さんシリーズの他にも、毎年必ず自分の作りたい作品を作らせてもらうことを出したと聞いたことがある。「故郷」「同胞」「遥かなる山の呼び声」「幸せの黄色いハンカチ」などが思い浮かぶ。一方、渥美清さんはどういう思いだったのだろう。個性的な顔立ちだし、もう、渥美清イコール寅さんになってしまって、切り離すのは難しいものがあったろう。山田監督が、こんなに長く続くことになるのを知っていたら、さくらの子供をもっと作っておけばよかったと言ったとか、どこかで読んだことがある。確かにそうだ。30年の長きに渡って、いつも同じパターンでは無理が出てくる。寅さんも年取っていくし。それだから、甥の満男の話に重点が移りもするのだが、もし、さくらに子供が3人くらいいれば、もっと着想を広げられただろう。子供の中に、若手の秀逸な喜劇俳優を配してドタバタを任せる。そして、それを渥美清が受け手に回ってフォローするとか。私としては、寅さんを少しずつ成長させてあげてもよかったのではないかなと思う。それにしても、30年近く続いたシリーズの見どころは、社会の変化を映す鏡というところにある。

時代は移り、スター誕生の場は、映画からテレビへ、そして今はインターネットへと変わっていきつつあるようだ。銀幕のスターから小さなスターたちへ。集中から分散の時代へ?

 

ブログ、デジタル時代の物書きプラットフォーム

特別お題「わたしがブログを書く理由

ブログを始めてから、およそ2年半以上になるだろうか。私のペースは、一応一週間に一度を目安に、フレキシブルに書いているので、記事の数もそれほどではない。振り返れば、2020年暮れのコロナ禍の頃に、デジタル元年と称して始めたのだった。世間でブログというものが広がって20年も経ってからの参画である。それ以前から知り合いでやっている人もけっこういて、始めよう始めようと思いながらも、デジタル初心者だし、けっきょくどのプラットフォームがいいか探したりしているうちに、遅くなってしまった。探しただけあって、はてなブログは初心者にも使いやすい。ただ、一つだけ残念なのは、はてなブログにアカウントを持っている人でなければ、フィードバックができないこと。つまり、スターやコメントである。読者数には反映されないけれど、陰ながら応援してます〜と言ってくれるお友達もいる。

さて、ブログを書く理由ということだった。まずは、書くことが好きだから。そして、昔と違って、今の時代、インターネット上にそれを発表する場所があるということ。一まとまりの文を書こうと思えば、ツイッター、今はXか、それでは短すぎる。それに、ああいったSNSはエッセイには向いていない。私が始めた理由は、エッセイを書きたかったから。日々生きていると、いろいろなことを見聞きして思いが湧く。そんな思いを書き留めておきたかった。12歳の頃から日記は書いていた。日記と言っても、毎日書くわけではないし、記録と言うより、思ったことを綴るもの。とてもプライベートなもので、書くことによって自分で悩みと向き合ったりして、自己セラピーのようなものだ。支離滅裂でも構わない。でも、ブログは、私にとっては、外に向けて意識して書く、一種の文章修行である。人に伝わるように構成を考える必要があるし、文体にも気を配る練習になる。そして、なにより、書いたものを誰かに読んでもらえるという励みがあるわけだ。物書きは皆そうだと思うが、エッセイなどは、引き出しにしまい込んでおくために書くわけではない。文章を通して他者への発信をしている。昔は、本当に一握りの選ばれた人にしか、そういった機会がなかった。逆に言えば、今の時代は身の回りに文章が溢れかえっていて、玉石混交の感はある。けれど、それぞれの人の思いや考えを読むのは興味深い。世の中の多様性に触れることにもなる。

面白いのは、発表する文章にしても、なんというか文体がラフになってきているということ。私が若い頃は、話し言葉と書き言葉には違いがあった。けれど、今は話すように書く人が多いようだ。それも、近しい人と話すような言葉遣いで。この変化は、ブログだけでなく、雑誌を読んでいても感じた。いわゆる流行作家などは、ずいぶん砕けた言い回しでコラムを書いている。当時日本を離れて、日本の雑誌も手に入りにくかった頃、久しぶりにそんな文章を見た時には驚いたものだ。我々、昔日本を出てきた同世代の人間は、今でも話し言葉と書き言葉を分けて使っているようだ。たとえば、会って話すときは「だからさあ」とか砕けて話すのだが、そんな間柄でもメールやワッツアップでさえ、書き言葉となると改まる。やはりデジタル文は、言ってみれば印刷された文みたいなものだから、ちょっと襟を正してしまうのかもしれない。

とにかく、私がブログを書く理由は、書くのが好きだから。湧いてくる思いを書き留めておきたいから。書くという作業は頭の機能を活性化するから。今の時代、文筆家でなくても、ブログというプラットフォームでそれを誰かに読んでもらう機会があるから。と、こんなところだろうか。

 

 

映画「バービー」を観て

思いがけず「バービー」を観ることになった。思いがけずというのは、こうである。映画「オッペンハイマー」を観に行った時の映画館の予告編のひとつが「バービー」だった。その時は、なんだかキッチュな映画という印象で、観に行こうとは思わなかったから。ところがである。ある仏教系ユーテューバーの方の番組で、この映画が紹介されていて、その解釈に興味を惹かれた。映画の中で流れるビリー・ジョエルの「何のために生まれてきたの?」という歌が感動的だったという導入から、その視点での映画内容の紹介だった。へえ、ただのバービー人形のミュージカルかと思っていたら、それを聞くとそうではないらしい。そういうことなら、やはりこの目で確かめなくちゃという気になる。善は急げじゃないけれど、まだ上映しているうちにと、数日前に観に行ってきた。

まず、感想を一言で言うと、面白かった。実は、話題作は取り敢えずチェックする息子に言わせれば、軽いというか薄いということだったが、それならば、息子が評価したアカデミー賞を取った略称「エブエブ」だって、私に言わせれば軽いし、たぶん一番言いたかったであろうメッセージに繋げるまでの、あのカンフーの過度に過激なアクションを見続ける苦痛(私には)に比べれば、「バービー」はダンスシーンもたくさんあって楽かった。「バービー」が伝えようとするメッセージも似てはいる。この映画、アメリカで大ヒットしているという。今、アメリカの人たちは生きる意味を探しているのかもしれない。

映画は、バービーランドに住んでいるバービー人形たちの明るく楽しい生活の様子から始まる。毎日素敵な服を着て楽しいパーティーがあって、人生の憂いなど微塵もない。みんな若くて明るくて元気いっぱい。バービーランドにいるのは、姿形は違ってもみんなバービー。そして、バービーランドを仕切っているのはすべて女性のバービーたちで、男性のケンたちは添え物である。言ってみれば、女の子のバービーにはボーイフレンドが必要だからと後から作られたのが、ケン人形。主役のケン(ライアン・ゴズリング)は主役のバービー(マーゴット・ロビー)が好きなのだが、バービーは友達みんなが好き。プラチナブロンドで筋肉のついた身体、ビーチにいるのが主な役目の彼は、今一つ自分の存在意義が感じられないでいる。ある日、楽しいパーティーで、バービーに異変が起きる。いつものように楽しく歌って踊っている最中に、突然彼女の口から我知らず「死」という言葉が飛び出す。その途端、パーティーの場は凍りついてしまった。バービーはかろうじて「死ぬほど踊って楽しみましょということよ」とその場を取り繕う。でも、それ以来、バービーはもう以前の彼女ではなくなってしまう。もしかしたら人形の持ち主に何かあったのかもしれないと、リアルワールドに原因を探しに行くことになった。ケンも付いていく。そして二人は、リアルワールドの人間たちが、バービーランドの自分達とは全く違う憂いもある生活を送っていることを知る。私には、その中のワンシーンが印象的だった。バービーは公園のベンチでお婆さんの隣に座るのだが、その歳取った姿に感動する。リアルワールドの人間たちは歳を取って、そして死んでいくのだ。バービーは、製作会社のマテル社に連れて行かれたのだが、逃げ出して人形の持ち主だった女性と一緒にバービーランドに戻ってくる。けれども、バービーより先に戻っていたケンは、人間界に倣ってバービーランドを男中心のマッチョな世界に変えてしまっていた。紆余曲折は省くが、結局バービーランドはバービーたちの知恵で元に戻る。一時だけランドを支配したケンを演じるライアン・ゴズリングが、いつも添え物でしかなかったケンの悲哀をよく出していた。最後、マーゴット・ロビーのバービーはバービーランドを出て、歳も取るし辛いこともある人間界で暮らす決心をする。

この映画も、観る人によっていろいろな解釈があるだろう。8歳から観られる映画だから、子供たちには、ピンクのお人形の世界がファンタジーいっぱいで、ミュージカル的で、ストーリーも冒険的で面白いかもしれない。また、フェミニズムの観点からの意見を持つ人もいるだろう。私はと言えば、この映画にアメリカ的世界観の変遷を見る思いがした。アメリカンドリームに象徴されるように、アメリカの成功とは、金持ちになること、地位の階段を登っていくこと。物質的に恵まれた生活、悩みなど他の人には露ほども見せず、いつも元気で若々しく、楽しい生活をすること。まさに、バービーランド。1950年代後半、バービーが初めて登場した頃は、アメリカは世界の憧れの国、富と民主主義の象徴だった。それこそ、日本の「一億総中流」じゃないが、厚い中間層が国を支えていた。ところが、今やアメリカには格差や貧困が途方もなく広がっている。正確に言えば、ベトナム戦争あたりからアメリカの凋落は徐々に始まっていた。そして今、アメリカンドリームが象徴する生き方への疑問がさらに広がっている。アメリカ的生き方が限界のある世界観だと気がつき始めた人たち。今、人々はビリー・ジョエルの歌のように、「私たちは何のために生まれてきたの」と問い始めている。物質的な富と満足を追求することだけが幸せなのだろうか。この問いはいつもあったし、精神的な生き方をしてきた人たちは、もちろん今までもアメリカにはいる。けれども、大衆と言われる人たちの中にも、アメリカ的物質文明の価値観への問いが広がっているのだと思う。

主役の二人のキャスティングは成功だったと思う。バービーを演じた女優さんは容姿がいいだけでなく、演技力もある人で、他の作品での活躍も楽しみだ。ケン役の俳優さんが、「ラ・ラ・ランド」の主役の人だというのは、後になるまで気がつかず…。いい役者は、色々な役をこなせるのだなあと思う。とにかく、楽しいエンターテイメント映画でもあった。

 

 

苦手だった食べ物は「お肉」

今週のお題「苦手だったもの」

大人になるまでは、ほとんどお肉を食べなかった。食べるようになったのは、欧州に来てからのこと。まず、留学した時の最初の下宿先が「お肉屋さん」をやっているご夫婦の家だった。毎日食事に肉が出るというのは、当時は豪華なことだったようだ。だから、ご夫婦は自分たちの学生への待遇を誇りに思っていたご様子。でも、それまでほとんど肉を食べなかった私には困ったことになった。今でこそ、ベジタリアンは当たり前、その先をいくヴィーガンも普通になっている。当時の私は、特にベジタリアンを意識していたわけではない。お魚は大好きだった。だが、毎日肉とジャガイモの料理では、肉を食べないわけにはいかない。それで、清濁合わせ飲む食生活になり、今に至っているわけである。

子供の頃は、肉が出るといっても、野菜炒めやカレーにコマ肉が入っている程度だったと思う。時には酢豚とか唐揚げもあったろうか。たまにすき焼きなどになると、兄たちは大喜びだったが、私はその反対の気持ち。料理に入っている肉を除けて兄たちに食べてもらっていたが、母には「お肉を食べないと頭が良くなりませんよ」と叱られた。特に、いっさい食べなかったのは鶏肉。なぜなのか、これははっきりしている。幼い頃、母の田舎に連れられて行った時のことだ。鶏をつぶしていた伯父が、それを私の目の前に差し出した。すごいショックだった。どの肉だって、考えればテーブルに載るまでのことは目を瞑りたい光景だと思うのだが、小さい時に見てしまったものは深く心に残る。人間は食物連鎖の頂点に立っていて、他の生き物の命をいただいて生きている。それでも、10代の頃は、殺生の上に生きることについていろいろ悩み考えたものだ。幸い日本人は、緑の多い島国という自然環境の中、穀類や野菜や魚中心の食事をしていた。明治になって西洋文明が入ってくるまでは、大型動物を食べることはあまりなかったわけだ。食事は、その土地の自然環境と切り離しては考えられない。文明の背景には「風土」がある。

ということで、こちらに来てからは、積極的ではなくても、そういう機会に直面すればお肉も食べるようにはなった。当時、私が住んでいたスイスの村では、魚が手に入るのは金曜日のみ。義理の母が入っていた老人ホームのメニューなどを見ていても、金曜日は魚の日だが、あとは肉料理だった。お年寄りがこんなにお肉を食べていても身体に大丈夫なのかなあ、と思ったけれど、それは長年の食習慣だろう。ただ、最近は、若い人を中心に環境意識が高まっていて、食生活もずいぶんと変わってきている。野菜を中心とした日本食ブームの影響も大きいと思う。都会では鮨ブームも定着の感あり。けれども、鮨は海に囲まれた日本でこその食べ物だ。世界中で鮨を食べるようになったら、それこそ海から魚がいなくなってしまうかもしれない。ところで、世界の食糧事情もそうだけれど、日本のことがちょっと心配。なにしろ、食料自給率が30%程度と聞くから。世界で何かあって、食料が回らなくなったらどうするのだろう。

最後に、お題のテーマからちょっと離れた場所に着地してしまいました。