スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

夢で見た映画女優さんから広がった連想

なんの脈略もないのに、女優の藤村志保さんが夢に出てきた。別に前日に彼女の映画を観たわけでもないし、インターネットで記事を読んだわけでもない。日本にいた頃は、ドラマなどでお見かけして、立ち居振る舞いの上品な美しい人だなと思っていたが、その後、まったく考えたこともなかったのだ。帰省の際に、テレビなどでたまたま見たことはあったかもしれない。でも、それも最近のことではないし、実に不思議なことである。

それで、藤村志保さんについて調べてみた。1939年生まれで、現在84歳。女優の仕事だけでなく、地唄舞もされるし、本も書かれるしで、多才な方のようだ。以下、ウィキぺディアからの情報。4歳の時、父親を戦争で失い、毛糸商を営む母に育てられた。1957年、フェリス女学院高等部を卒業。1961年、大映京都撮影所演技研究所に入所。1962年、「破戒」に出演して各種新人賞を受賞。以降、大映のスターとして主に時代劇で活躍。

まだ5大映画会社が健在で、銀幕のスターがいた時代である。松竹、東宝、大映、東映、日活。ギリギリいい時期に映画界に入った人かもしれない。昔は、監督もスタッフも俳優も映画会社に入社してキャリアを始めていったものだ。スターに成るべくして採用される俳優たちもいたが、大部屋というのがあって、そこから名脇役に成る人もいた。言ってみれば、会社勤めである。けれど、テレビの隆盛に伴って、60年代も後半になると、映画産業は目に見えて衰えていく。大映はなくなったし、数々の時代劇を作っていた東映はヤクザ映画に転換、60年代青春映画の日活はロマンポルノ路線に方針変換した。

東映は、その昔時代劇の大物俳優を輩出した。私の一推しは、なんと言っても東千代之介。端正な顔立ちに、上品な立ち居振る舞い、立ち回りの俊敏さは素晴らしかった。東映は、1950年代半ばに歌舞伎界から東千代之介を迎え、その後中村錦之助も加わり、次々に時代劇の大ヒットを飛ばして行った。しかし、60年代半ば過ぎに、会社が任侠路線に切り替えてから、けっきょく東千代之介は東映を退所する。あの正義感と誠実さを絵に描いたような俳優さんにはヤクザは似合わない。本当に惚れ惚れするような時代劇の人だった。

松竹は、「男はつらいよ」寅さんシリーズに救われたと思う。1969年の一作目が予想以上の大ヒット。一本で終わるつもりが、「続・男はつらいよ」を皮切りに、その後次々とシリーズが続いて行って、1995年の「男はつらいよ・紅の花」まで、実に48作。ギネスブックにも載ったほどだ。最後の頃の渥美清さんは病気で、「紅の花」では、彼の衰弱も見ていてわかるくらいだった。そして、翌年には亡くなっている。松竹にとっては、寅さんシリーズはまさにドル箱。社運を担う作品だった。山田洋次監督も渥美清さんも、やめるにやめられなかったことだろう。山田監督は、続けるための条件として、寅さんシリーズの他にも、毎年必ず自分の作りたい作品を作らせてもらうことを出したと聞いたことがある。「故郷」「同胞」「遥かなる山の呼び声」「幸せの黄色いハンカチ」などが思い浮かぶ。一方、渥美清さんはどういう思いだったのだろう。個性的な顔立ちだし、もう、渥美清イコール寅さんになってしまって、切り離すのは難しいものがあったろう。山田監督が、こんなに長く続くことになるのを知っていたら、さくらの子供をもっと作っておけばよかったと言ったとか、どこかで読んだことがある。確かにそうだ。30年の長きに渡って、いつも同じパターンでは無理が出てくる。寅さんも年取っていくし。それだから、甥の満男の話に重点が移りもするのだが、もし、さくらに子供が3人くらいいれば、もっと着想を広げられただろう。子供の中に、若手の秀逸な喜劇俳優を配してドタバタを任せる。そして、それを渥美清が受け手に回ってフォローするとか。私としては、寅さんを少しずつ成長させてあげてもよかったのではないかなと思う。それにしても、30年近く続いたシリーズの見どころは、社会の変化を映す鏡というところにある。

時代は移り、スター誕生の場は、映画からテレビへ、そして今はインターネットへと変わっていきつつあるようだ。銀幕のスターから小さなスターたちへ。集中から分散の時代へ?