スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「修証義」幼少時からの疑問が解けた話

ひょんなことから、長年の疑問が解けた。先週のことである。日本武道を教えるこちらの道場で空手のセミナーが開かれて、参加した。と言っても、私が空手をやっているわけではない。あるご縁で開会の挨拶を頼まれたので。日本から空手9段の師範を迎えて、スイスはじめ、ドイツやイタリアからも集まった生徒さんたちが直接指導を受けるというものだった。

空手9段といったら、これは大したものだ。それはもう数えるほどしかおられない。先生は、85歳の小柄な方だったが、指導中の動きは大変機敏で、さすがというしかない。そして、空手の師範というだけでなく、禅寺の住職さんでもあられた。セミナーの後の夕食の席でお隣になったので、あるお経について長年知りたかったことを伺って、疑問が解けた。

小さい頃から、私の頭の中を巡っていた「呪文」がある。「しょうをあきらめしをあきらむるはぶっけいちだいじのいんねんなり。しょうじのなかにしょうじあり」。私が子供の頃、毎月祖父の命日には父がお経をあげるという習慣があった。お仏壇を前にして父がお経を唱え、家族もその後ろに座って唱和するというもの。ちなみに、うちはお寺さんではない。普通の勤め人の家庭だった。また、たいていの日本の家庭がそうであるように、お仏壇と神棚の両方が置かれていた。父が唱えるお経はいくつかあったけれど、その中にあの「呪文」の言葉があって、幼心にそれを妙に覚えていた。障子を開けても開けてもまだ障子があるの?ん?

「先生、実は、子供の頃これこれしかじかだったのですが、このお経は何というのですか」と伺うと、「ああ、それは修証義ですね」と言われる。修証義というのは、曹洞宗のお経だそうだ。そういえば、実家の宗旨はいちおう禅宗だった。禅宗には、臨済宗と曹洞宗、それに黄檗宗があるけれど、うちは曹洞宗のお寺さんに仏事をお願いしていたっけと思い出した。「いっしんちょうらいなんとくえんまんしゃかーにょーらいしんじんしゃーりー」というお経の文句も頭に残っている。

今はインターネットの時代、疑問があればすぐに調べられる。昔は、特に海外にいるとなると、日本の文献を調べるのは難儀なことで、このお経の文句のこともずーっと忘れていた。こうして、たまたま禅寺のご住職と親しく話す機会を得て、この文句が頭の中に浮上。長年の疑問が解決したというわけだ。さっそく家に帰ってからインターネットで調べてみた。修証義は、道元の「正法眼蔵」の中の教えを在家信者向けに編集したものなのだそうだ。そして、私が覚えていた箇所は、次の文言だった。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし」やはり、幼子の記憶である。「しょうじのなかにしょうじあり」というのは、何処にあったのだろう。「生死の中に仏あれば生死なし」という文言とはちょっと違っていた。長年のうちに思い違いをしていたのかもしれない。生き死にの中に『仏』があれば、あるいは、あるのだから、生き死にに違いはないというのは深遠な考えだ。この『仏』が何なのかが鍵かもしれない。

満天の星を見上げる時、今この小さな星に生きている不思議の念に打たれる。我々は何処からきて何処に行くのか。いま此処にある『わたし』とは何なのか。世界は何でできているのか。何がこの宇宙を動かしているのか。科学はそれの根源を知りたくて興った学問だと思う。そして、宗教も。特に仏教の教えは、最新科学とも相容れるもので、私はたいへん興味深いと思っている。逆に言えば、科学が仏教に追いついてきたとも言えるような。