今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」
今年も終わろうとしている。個人的には、長年温めていた大きなイベントが実現して、充実した年となった。
けれども、世界を見ると、戦争や災害が相次ぐ心の痛む年だった。ウクライナや中東の戦争の泥沼状態が続くのか、気候変動による地球環境の破壊や異常気象が一層進むのか、あまり明るい見通しと展望がないまま2024年が暮れていく。なにか飛躍的な変革が起こらない限り、先は暗いかもしれない。そして、その変革はテクノロジーではなく、人間の意識の中に起きなければならないのだと思う。
意識改革という言葉は聞く。しかし、人類が生き残るためには、人間の意識革命が起こるしか道はないだろうと思っている。そう、改革ではない、革命である。革命とは、社会の在り方を根本からひっくり返すものだ。今まで人類は、何回かそういった、生活を根本的に変える革命を経験してきた。歴史を学べは、農業革命、産業革命という言葉が出てくる。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス」によれば、それに人類初期の認知革命と現在の情報革命が加わる。現生人類をネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどと分けたものは、ナラティブを作り共有する能力、認知革命だったという。そして、デジタル技術の飛躍的な発展が現在の情報革命をもたらし、さらには、AIの登場が人間社会を根本的に変えていくだろう。しかし、すべては一本の線で繋がっている。つまり、人間の飽くなき欲望である。もっと、もっとと、欲望が人間をさらなる発展へと駆り立てる。欲望無くして発展はないが、飽くことのない欲の肥大が、我々を滅びの道に導いていく可能性は大だ。すべての動物には基本的欲求がある。食欲、性欲なくして個と種の存続はない。生存に必要で適切な欲求は、生き物として必須のことだ。しかし、人間にはさらなる欲がある。たとえば、今の社会で増大する承認欲求。これは誰でも持っているものだが、なかなかに手強いものがある。この欲望が適度であればそれでいいのだが、SNSなどの手段を得て、歪な方向に進んでいく危険も見え出した。日本では、大晦日には除夜の鐘を聞いて煩悩を鎮めるという伝統がある。人間に欲があるのは当然だが、強欲は否定されなければならない。とにかく、反省なき欲望肯定の道を行く限り、我々の未来は危ういだろう。
今の西洋的資本主義社会は、欲望の全面的な肯定と、そのさらなる拡大によって成り立っているようである。しばらく前の日本にあった「清貧」や「慎み」といった言葉を聞かなくなって久しい。もっと欲しい、もっと物質的に豊かに、さらには、もっと目立ちたい、他人を動かす力が欲しい。たまたま、米大統領選でまた勝って注目の人物の妻、メラニア・トランプの暮らしぶりを紹介するユーチューブ番組に行き合った。とんでもなく豪華な住まいにインテリア、高級な衣装宝飾品の数々。自分がいかに美しく見えるかに徹底的にこだわりを持ち、そのために掛ける莫大なお金。彼女は、自分の資産管理に長けた実業家でもあるとの、肯定的な紹介だった。けれども、それが人生の成功であるかのような描き方には、so what? と思う。たしかに、彼女は彼女なりに成功を目指して駆け上り、そのための苦労も承知で頑張ってきたのだろう。それはそれで、一つの生き方としてご苦労さまとは思う。しかし、その物質的成功と暮らし振りを見せつけれても、「それが何か?」と返すしかない。もし、この世の地位と物質的な贅沢を目指すのがアメリカンドリームであるならば、そして、そういう生き方が異論なく肯定されるのであれば、これからの人類に未来はないだろう。資源には限りがあるのだから、貪れば枯渇していくのは当然のこと。そして、誰かが過度に豊かになれば、誰かが過度に貧しくなるのである。物質的成功の価値が、改めて問われる時代になっている。
不思議なことに、これだけ環境問題が報じられているのに、少なくともこのスイスでは、大きな高級車を買う人がかえって増えているらしい。ステイタスシンボルなのだそうだ。たしかに、大きい車が目立つ。住宅もそうである。また、コロナ禍で国内の旅の魅力が見直され、旅行の仕方も変わるだろうと思われたが、コロナが終わってみれば、その前以上に飛行機に乗って遠くの国に出かける人が増えているらしい。その様子を見ていると、世界が壊れるのを予感して生き急いでいるかのようだ。それでも、周りをみれば孫が生まれる人たちも多いし、とても可愛がっている。それは、遺伝子レベルで見れば当然のことなのかもしれない。だからたぶん、彼らは良き未来に思いを馳せて行動しているはずだ。そう期待したい。
2024年もあと1日を残すばかり。2025年はどんな年になるのか。個人的には、今年実現したことをさらに広げていければと希望を持っているけれど、世界についても、良い方向に進むように願っている。