スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

日本国憲法前文について考えてみる

日本は、祝日の連なるゴールデンウイークの真っ只中である。スイスに住む身には、休日はあまり関係ないが、やはり5月3日は心に引っかかる。今日は、今からちょうど76年前に新しい日本国憲法が施行された日だ。それで、ライブラリーに入っている「日本国憲法」を引っ張り出して、もう一度読んでみた。

いま読むと、なんと時代の先端を行っている憲法であることよ、とあらためて感心してしまう。人類の未来と存続を見据えれば、まったく先見の明のある考え方を盛り込んでいる。戦争の惨禍の傷が生々しい時に作られたものであるからこそ、一層のことリアリスティックである。もし、日本が本気でこの憲法の前文のとおりに国の舵取りをしていたならば、どれだけ世界の平和に貢献できて、人類を滅亡の瀬戸際に立たせずに済んでいたかしれない。

日本国憲法 前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(段落) 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(段落) われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。(段落) 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

今の世界は、残念ながら「猿の惑星」状態である。人類は、そういう意味では昔からたいして進歩していないようだ。暴力に暴力を重ねるしかないのか。建設する者がいれば、それを破壊する者がいる。精神の成熟を目指す者がいれば、その足を引っ張って引き摺り下ろそうとする者がいる。暴力の前ではなす術もない。しかし、その状態になる前にやれることはあるのだ。それは、外に対しては外交、内に対しては教育だと思う。歴史を見る限り、人類はいつも争ってきた。これは、動物の本能なのかもしれない。生存競争で勝ち残ってきた種だけが残ったのかもしれない。ヒトは霊長類と言われる。サルも含めた哺乳類の進化の最終形態とする認識からそう呼ばれる。日本語を見ると面白いのは、霊の長と書くこと。ドイツ語ではPrimatだが、辞書を引くと  (1) 1. 教皇首位権 (宗) 2. 首位 ; 優位 (哲) 3. 長子権 (2) 霊長類の動物 とある。ここではドイツ語の語源は深掘りしないが、いずれも上に立つものになる。日本語で「霊の長」と聞くと、言葉の綾にせよ精神的に大変発達している存在という印象を持つ。だが、地球上の生物進化の最終形態が、今のような人類だというのは残念なことである。だからこそ、高度に進化している可能性を持つ地球外生命に救いを求める人たちも一定数いるのだろう。地球が人類の業によって住めなくなるということで、火星などへの移住計画の実現を目指す人たちもいるのだろう。しかし、今のところそれは夢だ。それよりも、なんとかこの地球上での生存に賭ける方が、現実的ではないか。よく、理想を語る人を「お花畑」と揶揄する人間がいる。自分はリアリストだと。この「お花畑」という言葉は、私の耳には新しい。以前はあまり聞いたことがなかった。けれども、少なくとも頭の中に美しい理想なくして、現実を作っていけるだろうか。思うのだが、「花畑」に対峙する言葉を探せば、リアリストではなく「荒地」かしら。「あの人はお花畑ねえ」に対する言葉は、「あの人荒地びとねえ」とでも言えるかな。現実の後追いをすることが、リアリストということではないと思う。イデアリストとリアリストは、私の中では矛盾するものではない。人類が共生していくためにはどうしたらいいのか。共生という理想があるとして、いや、理想ではなく、生き物のベクトルは生きることに向かっているのだから、それしかない。それでは、そのためには何をすればいいのか、と考え行動していくのがリアリストではないだろうか。最初から、人間なんて暴力で争うものと諦めていれば、滅亡しかない。

そういう意味で、日本国憲法前文は、人類生き残りを賭けた先進的な理想を語っている。ここに忘れてはならないのが「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という部分である。その理想を実現していくためには、不断の努力がいるわけだ。そして、現実をしっかり見据えながら、国の舵取りをしていくのが本来の政治家だろう。憲法には理想を掲げていい、いや、掲げるべきだ。それに則ったうえで、リアリストとして個々の政策を提言実行していけばいい。今も学校では「日本国憲法」が教えられているのだろうか。人間は、ほっておけば「業」の道、つまり利己に向かいやすい。水は低きに流れるという。だからこそ、理想と現実認識のバランスが取れた教育が大事なのだ。

昔、「東京砂漠」という歌があったが、「ニッポン砂漠」にならないように、国民は政府が憲法の精神を遵守しているかしっかり見張っていく必要があるだろう。