スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

歌くらべのプレイリスト

今週のお題「わたしのプレイリスト」

さて、もしリストを作るとしたら、ひとつは「歌くらべのプレイリスト」にしてみたい。同じ歌でも別の歌手が歌っていると、全く違う絵が見えてくることがある。それから、同年代で同じ時代の空気を吸いながらも、全く違う雰囲気を醸し出すシンガーソングライターもいる。そんな歌手を二人ずつ並べてみるのだ。すぐに、3組が思い浮かんだ。

まず、竹内まりやと中森明菜の「駅」。これは、同じ歌が歌手の解釈と歌い方によって、これほどまでに違うストーリーを紡ぎだすという例になる。歌詞の主人公は、たぶんまだ20代半ばの女性だろう。それは、2年の月日が遠い日になっているところに伺い知れる。あの年頃の2年3年は長くて、人生も大きく変わっていく可能性があるのだ。偶然のことから、2年前に別れた男性を駅で見かけて心が揺れる若い女性。その心情を歌う竹内まりやの主人公は、すでに2年前の過去を振り切って今を生きている感じだ。最後のくだりのララララなど、前向きにさえ響く。ところが、中森明菜の歌う女性は、この2年間、彼への思いを残したまま新しい人生に踏み出せないでいる。最後も切ない。ああ、いつ彼女は彼を過去の人、甘い感傷の中の影として、自分の今を生きられるようになるのだろうかと心配にさえなる。この二人の違いは、「今になってわかる、私だけ愛していたことも」の歌い方に垣間見える。私だけが彼を愛していたのか、あるいは、彼は私だけを愛していたのか、解釈が難しいところだ。中森明菜風だと前者、竹内まりや風だと後者だと思う。ということは、前者の場合は、別れを告げたのは彼、後者の場合は彼女というふうにも取れる。別れを告げられた側には未練が残るものだ。これは竹内まりやの楽曲だから、解釈は彼女に任せるしかないが、中森明菜の切なさも捨て難い。いずれにしても、この歌は名曲だ。5分の間に見事に一つの物語を語っている。どちらの歌い方もいい。

次は、さだまさし作詞作曲の「秋桜」。本人自身と、山口百恵が歌っている。これも、しみじみと心に残る名曲だ。嫁ぐ娘の母へ心情を歌い上げている。これもまた二人の歌い方で見える世界が少し違ってくる、と私は思う。さだまさしの歌を聴いていると、何より母親の背中が見えてくる。何となく和服を着ているような気もする。母が過ごしたそれまでの人生が見えるようだ。庭には秋桜だけではなくて、柿の木もあるんだろうな。夕方近く、どこからか焚き火の煙が流れてきて、お豆腐屋のラッパの音も聞こえてきそうだ。百恵ちゃんの歌の方は、歌詞の通り娘の側から見た母の姿。母への感謝の気持ちが表れている。

プレイリストの3組目は、中島みゆきと松任谷由実。二人は同世代である。二人とも作詞作曲をして、自分でも歌うが、他の歌手に楽曲を提供してもいる。若い頃の印象では、中島みゆきの歌はどこかリアルで土の匂いがあるのに対して、ユーミンの方は都会派の雰囲気を醸し出していた。本人の生い立ちを知らないから、あくまでも勝手なイメージだが、苦労人の家庭に育った娘と、比較的恵まれた家の娘が描くストーリーというか。二人ともミュージシャンとしては優れているが、歌手としては今ひとつという点では共通している。もちろん、これはあくまでも私の好みの話として。いずれにしても、二人ともあの昭和の時代に明星のように現れて燦然と輝いた女性たちだ。今は大御所として、その楽曲の世界も恋の歌を超えて大きく広がり、人々の心の歌として残る作品の数々を作り続けているようだ。

さて、プレイリストの作成は、いつになることだろうか。頭の中で作ってはみたけれど、今のところは未定としておこう。

 

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雨の日の過ごし方

今週のお題「雨の日の過ごし方」

今年の5月はやけに雨が降る。気温も上がらず肌寒い日が続いている。去年の5月とは大違いだ。去年はお天気が良かったような気がする。コロナの第一波の時だったから、それは助かった。お天気が悪いと気持ちも沈みがちになるからだ。ヨーロッパでコロナ禍が始まって、もう一年以上になる。去年は、3月半ばからひと月ほどロックダウンが続いた。当時は、まだこの新しいウイルスについてまだまだわからないことも多くて、先行きが不透明だった。そんな時に、今年のように雨降りの肌寒い天気が続いていたら、みんなの気持ちももっとめげていたことだろう。一年が過ぎて、このコロナウイルスのこともだいぶわかってきた。何よりも、ワクチンの接種が進んでいて、希望が見えてきたと感じる人も増えているようだ。レストランにとっては、この5月の雨降りは有難くない話だ。というのは、屋外スペースに限り解禁されたのだが、お天気のいい日が少ないとお客も来られないというわけだ。

さて、雨の日の過ごし方だった。コロナ感染が広がってからは、会合もZoomに切り替わったし、特に雨を押して外に出なければならない用事もないので、家で過ごしている。片付けたいものはいろいろあるのだが、片付けは晴れた日の方が捗る。日中暗いと、どうもやる気が起きないのだ。雨の日は、書き物をしたり本を読んだりするのに向いている。いま読んでいるのは、ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」だ。1991年に出版され、各国語に翻訳されてベストセラーになった作品だという。この本のことは知っていたが、手に取る機会がなかった。それがひょんなことから、30年後のこの雨の5月を慰めてくれることになる。もうすぐ上巻が終わるところ。18世紀のデイビット・ヒュームまで来た。面白い。つくづく思うのは、このソフィーのように、14、5歳の時にこんな哲学の先生に出会っていたら、どんなに幸せだったろうにということだ。日本の中学校に、哲学の時間なんてあっただろうか。正確には思い出せないが、なかったように思う。高校には、倫・社という授業はあったと思うが、あまり面白くなかった記憶がある。ノルウェーにそんな科目があるのかどうかはわからないが、ソフィーも学校で授業として哲学を習うわけではない。ある不思議な人物から教えてもらうのだ。哲学講義がファンタジーミステリーのタッチで進んでいく。作者は生徒に哲学を教えるのに、面白い方法を考え出したものだと思う。大人が読んでも、其処此処で拾い聞きした哲学の知識を体系的に整理するのに役にたつ。あと何日か雨が降ったら、読み終わるだろう。

今年の6月はどんな天気になるのだろうか。スイスの6月は比較的晴れる日が多い。昔、日本にいた頃、ジューンブライドという言葉を聞いてもピンとこなかった。だって、日本の6月は梅雨の季節。わざわざ雨の季節を選んで結婚式を挙げるのもご苦労なことだ。けれども、こちらで暮らしてみてわかった。ヨーロッパでは6月は夜も9時頃まで明るくて、何となく開放感のある、私の好みで言えば、一年で一番気持ちのいい季節なのだ。もちろん、緯度によっても違うから、一口でヨーロッパは、と括るのは大雑把にすぎるけれど。この言葉の語源は他にもあるらしいが、この解釈には実感として納得する。それはともかくとしても、早くお日さまの顔が見たいものだ。

 

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英雄について考えてみる

今年はナポレオン・ボナパルトが没してから200年だという。1821年の5月5日に亡くなったということから、その頃テレビなどで盛んに取り上げられていた。ナポレオンと言えば、誰しも英雄という言葉を思い浮かべるだろう。彼は、フランス革命後のヨーロッパの歴史に大きな影響を与えた人物で、その功績も大きい。たとえば、ベートーヴェンは彼を称えて「英雄」という曲を作った。けれども曲が完成してから間もなく、ナポレオンが皇帝に即位したと聞いて、「彼も俗物に過ぎなかったか」とナポレオンへの献辞が書かれた表紙を破り捨てたという逸話があるらしい。

ナポレオンは軍人である。戦争に次ぐ戦争の人生だった。理念はあったのだろう。ナポレオン戦争によって、フランス革命の「自由・平等・博愛」の精神がヨーロッパに広がったと言われ、その功績を讃える声は大きい。ただ、その陰で死んでいった数かぎりない兵士のことを考えると、何だかなあと思ってしまう。権力欲も随分と強い人物だったことは明らかだ。自分が皇帝になって、その位を世襲制にしたことを考えても、「自由・平等・博愛」の精神は?と思ってしまう。歴史上の有名な人物を見ると、その権力欲には驚嘆する。歴史の表舞台は、ほぼ戦いに彩られている。古代で言えば、マケドニアのアレクサンダー大王だってそう。日本では、織田信長もそう。英雄って何だろう。学校で習う歴史では、有名な人物の名前を暗記させられた。たいていは、争いの歴史。

一方、歴史に名を残すこともなく、英雄的行為をして死んでいった人たちも数知れない。例えば、これは小説の話だが、カミュの「ぺスト」の主人公の医師リウーや、彼と共にペストと闘ったタルー。彼らは、自分の住んでいる町に襲いかかった不条理に立ち向かう。私は、こういった人たちをこそ「英雄」と呼びたい。こういう英雄たちは、今もこの現実社会にいて、不条理に屈しそうになりながらも日々闘っているのだと思う。今のコロナの状況下の医療従事者たちもそうだろう。「地上の星」という歌がある。中島みゆきの歌だ。この歌が好きだ。他の人のために黙々と仕事をしている人たち。エッセンシャルワーカーの人たちのことも思う。こういう人たちがいなければ社会は機能しない。

そういえば、「英雄」を作曲したベートーヴェンは、去年が生誕250年だった。ここスイスでも、各地で大々的なコンサートが予定されていたのだが、コロナで軒並み中止になってしまった。ベートーヴェンは偉大な作曲家だったが、苦難の人生を歩んだ。コロナ禍でお祝いも縮小されてお気の毒だ。けれども、彼が作った素晴らしい曲は、後の人々の胸に勇気と希望を与え続けている。「第九」で知られる交響曲中の「喜びの歌」は友愛で繋がる理想の世界を歌っているという。日本では、年末の年中行事になっている。新しい年への希望を込めて。戦争という破壊ではなくて、人々が共に平和に生きようという理想を持って歩んでいくために。当初はナポレオンを称えて「英雄」を作ったベートーヴェンは、自らの人生をもって、本当の英雄の姿を示したと言えるかもしれない。

 

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2021私のオンライン元年

今週のお題「おうち時間2021」

2020年春。ソーシャルディスタンス、コロナ感染の世界的な広がりは人々の物理的な接触を絶った。ヨーロッパの国々はロックダウン、日用品以外の店もレストランも文化スポーツ施設も閉まり、人々は家にこもった。ここスイスでは、初夏になって感染が下火になり、気をつけながらも人々は束の間の夏を楽しんだが…。秋も深まる頃、第二波がやってくる。12月半ばからは再びのロックダウンで、レストランや余暇施設などは閉鎖される。今回は、高校までは対策を立てた上で対面授業は行われた。可能な企業にはリモートワークを義務付け、人々は外出を控えるようになった。スイス連邦内閣が節目節目で感染措置戦略を発表し、3段階に分けて規制が緩和されていくことに。一般の店舗の営業が認められ、さらに4月半ばからはレストランの屋外席が解禁になり、文化スポーツ施設も制限が緩和された。ワクチン接種も希望する高齢者にはほぼ行き渡り、これからは若い人たちにも枠が広げられる。予断は許さないが、6月からは大きなイベントの許可も視野に入れているようだ。戦略の第3弾の具体的実施ついては、あと2週間ほどしたら発表される。

人々が気軽に会うことができなくなって、急速に普及したのがオンラインでの交流だ。コロナの前まではZoomなどは一部の人たちにしか利用されていなくて、その存在さえ知らない人も多かったと思う。スカイプはかなり前から使われていたようだが。私がZoomを初めて使ったのが去年の春。予定されていたセミナーが急遽オンラインに切り替わった。まだ慣れていない人も多かったので、主催者が参加者に懇切丁寧に説明してくれた。それからのZoomの伸び様はどうだろう、世界で爆発的に広がっていったようだ。関わっている文化交流団体でも、リアルな催し物ができなくなって、Zoom講演会などに切り替わったし、日本映画上映会も代替策としてストリーミングに。チューリッヒ歌劇場も過去に上映したオペラをロックダウン中ストリーミングしていた。オンラインイベントの良さは、住んでいる場所に関係なく参加して楽しめるということだ。

オンラインで繋がるためにはインターネットが必要だ。パソコンとインターネットの普及は人類に画期的な変革をもたらした。ちょうど我々の世代は、そもそもコンピューター時代到来の前に社会に出たが、人生の円熟期に革命に遭遇し、新しい時代に投げ込まれた。両方の時代の雰囲気を身を持って知っている最後の世代なのかもしれない。すべてがデジタル化していくことにはどうもしっくりこないものはある。デジタルは曖昧さを許さないが、もともと人間はアナログ的な存在だと思うから。「ビル・ゲイツに会った日」という本が思い出される。発売当時、概要だけ見て気になりながらも読む機会がなかった。どういうわけか、あの画期的な年、1995年を振り返るたびにあの表題が頭に蘇る。便利になった代わりに失ったものもあると思う。たとえば、昔は電話案内というサービスがあったっけ。電話線の向こうには血の通った人間がいて情報を教えてくれた。ところが今は、人間にたどり着くまでに無機質な声に様々導かれなければならない。たぶん、若い人たちは電話での問い合わせなどせずに、全部インターネットで調べるかAIに聞くのかもしれないが。だが、人がどんどんAIに置き換えられていって、例えば銀行などは手数料ばかり取られて、結局は顧客が自分にサーピスしなければならなくなっている、と私には見えてしまう。

さて、それはともかくとして、2021年は私のオンライン元年となるだろう。これからを見据えた時、アクティブに付き合っていこうと決めた。まずはプライベートでもZoomを積極的に活用。たとえば、定期的に友人知人たちとのZoomミーティングに参加。興味深いイベントがあれば、それも躊躇せずに参加しようと思っている。チャットのグループにも入れてもらっている。ある意味、ロックダウン中これはありがたかった。リアルで会うことが叶わない中、文字や写真を通してだが近況を伝えあっているので、しばらく会っていないのにそんな感じがしない。ツイッターはもっぱら日本のニュースを知るためにアカウントを持ってはいるが、積極的に発信もフォローもしていなかったので、ずっと停滞中。だが、今年からはもう少し発信をすることにした。極め付けはクラブハウスかもしれない。私はフェイスブックはしていないので、一足飛びと言えるだろう。仕事柄、声とその表現力と可能性に関心があるので興味を持った。ただ、クラブハウスはベンチャーの若い創業者が始めたらしく、まだ発展途上のようだ。クラブハウス人気は、このコロナ禍とは無縁ではないらしい。直接の人間的な交流と繋がりを求める人が多かったのだろう。ただ、今は上り坂だが、もしかしたらこれから少し問題が出てくることもあるかもしれない。それはもちろんどのSNSでもそうだろう。クラブハウスの場合、実名の表記が必須なのだが、ニックネームも併記を認めているという点が綻びになるような予感も微かにある。クラブハウスのような同時性双方向型の交流は、声が文字表現と違って身体に直結しているという特性から対面のようなものだ。つまり、付き合いに際しては名を名乗るべきもの。名を名乗れば自ずと礼儀もわきまえる。とにかく、すべてのものには光と陰がある。それを心得てオンラインをうまく活用していくことが肝要なのかもしれない。昔スイスに来た頃を思えば、日本とも時空を超えて即座に繋がれるなんて夢のようなことだ。

 

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言葉の魔術

母語以外の言葉を使って生活していると、自然に言葉というものについて思いを巡らすようになる。言葉というものは面白いものだ。どこからか思いが湧く。その思いが頭の中に留まっている限りは、まだ言葉にはなっていない。もちろん、自分自身と対話することもある。その場合は、頭の中でも言葉を使っているだろう。ただ、言葉というものは、それぞれが自分の思いや考えを他者に表現する手段としてある。お互いに分かり合うことが目的だ。異言語間のコミュニケーションでは、双方あるいは片方が母語以外の言葉を使うことになる。そこがなかなか難しいところだ。習得の度合いにもよるが、思ったことを思ったとおりに表現できないもどかしさは、一つの言語の奥深さを考えれば、異語話者には常に付きまとう。母語だったらこのニュアンスをうまく伝えられるのに、隔靴掻痒とはまさにこのことである。そして、時にはお互いに理解したと誤解しあっていることもあるだろう。

日本人は往々にしてはっきりものを言わない。その昔、「男は黙ってサッポロビール」というCMがあった。沈黙は金という格言もあるが、多く語らなければ、相手が想像を巡らして理解しようとすることになる。これは、同じ文化背景を共有する人たちの間では、ある程度通用するかもしれないが、異文化間では無理である。たとえば、長年こちらにいて実感するのは、西欧の文化は己を語る文化、というか発言する文化だということ。それにドイツ語の構造は、曖昧に表現して相手に行間を読んでもらうようにはできていない。日本語社会から来て難しかったのは、いちいちはっきり言わなければ、相手に通じないということだった。日本流に、言わずとも相手に察してもらうというわけにはいかない。だがそれは、明確なコミュニケーションができるということかもしれない。察し合いは、誤解に繋がることもある。そして、この誤解というのは日本語を母語として話す者同士の間でもありうることだ。

あるキャンペーンのフレーズが思い出される。多く語らずに、聞き手に想像させる。説明せずに納得させる。あのキャンペーンは、言葉の魔術をうまく利用した典型的な例だろう。ことの良し悪しは別として、作者はそういう意味では、優秀なコピーライターと言えるかもしれない。それは、20年ほど前の郵政民営化選挙で盛んに連呼された「官から民へ」というフレーズである。日本人の中には、「官」と「民」に対して大きな誤解をしている人たちが少なからずいるように見受けられる。つまり、「官」はお上で、「民」は自分たち民草じゃないかと。だから「官から民へ」は、何だか郵便局がお上の所有から民衆の物になるかのような錯覚を起こさせた、と思う。選挙では当時の小泉首相が圧勝して、郵政事業は民営化された。だが、それはイメージとは裏腹に、郵政が国民の手を離れて一部の企業のものになったことを意味する。一般の民衆心理をくすぐる、誤解の余地ある簡潔で上手いコピーだった。より正確に内容を表現するなら、むしろ「国から私企業へ」だろう。だが、それでは言葉に目的通り人を動かす魔力がない。民主主義国では国民に主権がある。行政府は、権力を持った「お上」ではなくて、いわば国の管理人だ。マンションに例えれば、住人が安心安全に住めるように、管理費をもらって仕事をしているようなもの。つまり「官」営ということは、公務員が国民の財産を委託されて運営していることで、実質的には国民のものだということである。それに対して「民」営化とは、全体の財産だったものが一部の人のものになるということだ。ドイツ語では、その点はっきりしている。郵政民営化は、Post Privatisierung、ずばり、プライベート化である。国の手から離れて、一部の企業の所有になることだ。「官から民へ」のキャッチフレーズのもと、自分たち国民のものになるんだ、と誤解して投票した人もいるのではないかと想像してしまう。そういう人たちにとっては、後の祭りだった。

それにしても、言葉の力は大きい。人を精神の高みに引き上げることもできれば、堕落させることもできる。勇気付けることもできれば、傷つけることもできる。言葉は一種の魔力を持っている。言葉について考えを巡らすのはとても面白い。

 

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HSPの記事をきっかけに考えたことあれこれ

人の気質のひとつにHSPという定義があるのを知った。きっかけはこうだ。アマゾンは、よくお勧めの本の情報を送ってくる。その一冊がHSPのパートナーを持った人の本だった。それで、HSPとは何だろうと調べてみたのだ。まず、この言葉はHighly Sensitive Personの略で、「視覚や聴覚などの感覚が敏感で、非常に感受性が豊かといった特徴を持っている人」のことを指すという。特徴の説明に、なるほどわかるわかると頷きながら読み進めていった。そして、いくつかの思いが胸をよぎった。

このHSPの気質を持つ人は、全体の15パーセントから20パーセントほどだという。日本人は諸外国に比べて若干多い傾向にあると、私が読んだ説明の一つには書かれていた。なるほど。特徴の一つに、人の気持ちを読んで感情移入する力の高さがあるらしい。私がまだ日本にいた昭和の頃、「こうしてあげた方が、相手も嬉しいだろう」「これは、相手に悪いだろう」というような言葉を時々聞いた。相手が言わなくても察する力だ。あるシーンが蘇った。職場でセミナーがあって、講師の著書が会場の後ろに平積みにされている。女子職員たちが、参加者へのお茶を運んでいた。ある職員がちょっとだけ本の上にお盆を置いた時、上司が「ご著書の上にお盆を載せてはいけないよ」と、そっとたしなめた。本は物だが、そこには講師の魂が籠っているという気遣いだ。かつて、相手を思いやる繊細な気遣いは、日本人にとっては美徳で、それは社会でも評価されていた。今はどうなのだろう。社会にアメリカ式の競争原理が持ち込まれて、繊細な人ほど生き辛い世の中になっていやしないか。こちらにも、もちろんそういう人たちはいる。これは、個人的な推測に過ぎないが、かつて、日本に惹かれる人たちの多くは、欧米の自己主張する文化の中で生き辛さを感じている人たちだったのではないだろうか。少なくともある時期までは、その人たちにとって、日本はある意味で幻想のオアシスだったのかもしれない。ただ、今は若い人たちを中心に、漫画やアニメやSushiなどの食べ物を通して日本に惹かれる人たちが増えているのも確かだ。そして、安くなった日本へは渡航がしやすくなって、日本にも外国人観光客がめっきり増えた。日本の社会や文化に関心がある人ばかりでもない。量が増えれば質も変わるのは世の常だ。

また、騒音に敏感だという特徴もあるらしい。沖縄のことを思う。基地の周辺に住む人のことを思う。飛行機の爆音はどんなにか辛いことだろう。基地だけではない。長年住んでいた静かな土地に、公の都合で突然に幹線道路が作られ、立ち退きにはならないが、家がその近くに位置するようになることもあるだろう。その騒音を避けるためには、他の土地に移るしかないが、補償がなければそれもままならない。世の中には、HSPの人へも含めて理不尽なことが溢れている。

HSPの記述を読みながら、なぜか「陸軍」という映画が脳裏に浮かんだ。木下恵介監督、田中絹代主演で、1944年に作られた映画である。陸軍が戦意高揚を目的に作らせた国策映画が、最終的には反戦のメッセージ感じる映画になってしまったという曰く付きの作品だ。あらすじは省くが、私が思い浮かべたのは、三つのシーン。田中絹代演じる母の息子は優しい子に育つ。怖がりなところもあって、男の子たちが橋の上から川に飛び込んでも、彼にはそれができない。戦時下の男子だ。それを不甲斐なく思って練習する場面。もう一つは、出征前夜、母の肩を揉む場面。涙ぐむ母。翌朝「軍国の母」として健気に送り出す母だが、出発の進軍ラッパを聞いて矢も盾もたまらずに家を飛び出して走る。必死で息子を追いかける母の姿には、繊細で心優しい息子の気質を知る母の心情が溢れていた。その未練に満ちたラストシーンが陸軍の不興を買ったのだという。

その他にも、世の中には多様な属性を持った人たちがいる。そういった人々への理解が深まることは、社会の中でみんなが共に生きて行くうえで大切なことだ。そして、その平和な共存のためには、政治の果たす役割も大きいと思う。政治がおかしな方向へ行かないように、人々が関心を持ち続けて見張っていくことは大事なことだろう。政治のやり方によっては、個人のささやかな幸せも簡単に壊されてしまう。頻繁に国民投票のあるスイスに長く暮らしているせいか、日常生活や社会生活が政治と密接に繋がっているという感覚が普通になっている。

 

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スイスのドイツ語事情

スイスには、四つの言語圏がある。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語が公用語になっている。割合的にはドイツ語がおよそ60パーセント、フランス語が30パーセント、イタリア語が10パーセント、そしてロマンシュ語が1パーセントほど。都市で言えば、チューリッヒはドイツ語圏、ジュネーブはフランス語圏、ロカルノはイタリア語圏だ。ロマンシュ語は、グラウビュンデン地方の一部で使われている。

ところが、このスイスで使われているドイツ語が、外国人にはなかなかの曲者だ。スイスドイツ語と呼ばれていて、ドイツ人でさえわからないスイス語という別の言葉。ただし、書き言葉にはドイツ語が使われていて、それは Schriftdeutsch と呼ばれている。スイス人にとっては「読み書きのドイツ語」である。子供達は、学校に上がってからこのドイツ語を習う。テキストは書かれているものなのでもちろんだが、授業時間中は基本的に話し言葉もドイツ語が使われるようだ。そして、教室の外はスイスドイツ語の世界。外国人が苦労するのはこの違いである。ドイツ語学校で習うのはもちろん標準ドイツ語だが、一歩外に出ると、この、学校で習った言葉が聞こえてこない。もちろん、スイス人はドイツ語での読み書きをしているわけだから、我々がドイツ語を使えば、それはわかってくれる。ところが、相手の言うことがこちらにはわからない。長年住んでいれば、耳も慣れて大抵のことはわかってくる。だが、こちらがドイツ語を発話する限り、それは二つの言語を同時に操るに等しい。つまり、インプットとアウトプットの言葉が違うわけだ。そして、さらに困ったことには、地域によって方言があって、だいたいはカントン(州)ごとだが、それぞれがかなり違うのだ。チューリッヒドイツ語、バーゼルドイツ語、ヴァリスドイツ語などなど、まだまだたくさんある。スイス人の集まりがあって、そこに幾つかの州出身の人たちが参加しているとする。すると、それぞれが自分の方言を喋るから、私など外国人にはほんとに悩みの種だ。スイス人が話す標準ドイツ語のテンポは、習い言葉だから比較的ゆっくりだが、自分の言葉となると当然テンポアップするし。スイス人同士でも、わかりにくい方言はあるらしい。

こちらに来たばかりの頃、知り合った先輩格の日本女性にアドバイスをもらった。「あなたね、まずはドイツ語学校に行ってしっかり標準ドイツ語を勉強した方がいいわよ。私は、学校に行かないで夫の親兄弟や村の人たちとスイスドイツ語でやってきちゃったから。あとで学校に行ったけれど、スイス語とドイツ語が混ざっちゃうし、書くのも難しいのよ。」このアドバイスは仕事をする上で役に立った。

ただし、本当に地元の人の輪の中に入り込むには、スイスドイツ語がわかった方がいいだろう。そうすれば、相手はわざわざ標準ドイツ語を話さなくてもいいから、構える必要がなくて親しみが湧くだろうし。それに、書き言葉のドイツ語はスイス人にとっては、あくまでもオフィシャルなもの、学校の言葉という感覚があるのだと思う。それともう一つ、距離的にも文化的にも近いドイツだからこそ、一線を引いておきたいという気持ちもあるのではないか。ドイツ語を話したがらない人もいる。ヨーロッパの中の同じドイツ語圏でも、スイス人とドイツ人はだいぶ気質が違う。これはごく大雑把に言えばだが、押しの強いドイツ人に比べると、スイス人は控えめの感がある。スイス人も、私のような日本人から見れば十分自己主張する人たちなのだが、やはりドイツ人に比べればおとなしめだ。もちろん、控えめなドイツ人もいるし、これはあくまでも一般論としての話ではあるが。

一つ面白い経験がある。まだまだドイツ語もスイス語もそんなにわからなかった頃は、五感をフル活動して内容を理解しようとしていた。なかでも、言葉の持つ音の響きは、手がかりの一つとして大きかったと思う。スイスドイツ語は、私の耳には少し東北弁に似て聞こえた。濁音の訛りがあって朴訥で素朴な感じ。それと、何だかちょっとトーンに愚痴っぽい感じもあって、何かあったのだろうかと気にもなったり。それに比べて、ドイツ人の話す標準ドイツ語は、カッカッとテンポよく飛び出してきて、ずいぶんと自信に溢れて聞こえた。ある日のこと、レストランの後ろに座っている人たちの白熱した議論の声が聞こえてきた。何だろう、政治か社会の重大問題について意見を戦わせているのだろうか。連れ合いに聞くと、ドイツ人のグループで、何とそれはビールの話だった。全てに対して意見を持つ議論好きな国民性なのかもしれない、そう思った。

とにかくそんなわけで、スイスでは学校に行かない限りドイツ語の習得は難しい。日常生活からは自然に学べないのだ。もちろん、外国人に対してドイツ語で話してくれる人もいる。だが、仕事にも使えてスイス人の輪にも入るためには、言ってみれば二ヶ国語の習得が必要。それが我々ドイツ語圏で生活する外国人には悩めるところである。

 

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