スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

スイスのドイツ語事情

スイスには、四つの言語圏がある。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語が公用語になっている。割合的にはドイツ語がおよそ60パーセント、フランス語が30パーセント、イタリア語が10パーセント、そしてロマンシュ語が1パーセントほど。都市で言えば、チューリッヒはドイツ語圏、ジュネーブはフランス語圏、ロカルノはイタリア語圏だ。ロマンシュ語は、グラウビュンデン地方の一部で使われている。

ところが、このスイスで使われているドイツ語が、外国人にはなかなかの曲者だ。スイスドイツ語と呼ばれていて、ドイツ人でさえわからないスイス語という別の言葉。ただし、書き言葉にはドイツ語が使われていて、それは Schriftdeutsch と呼ばれている。スイス人にとっては「読み書きのドイツ語」である。子供達は、学校に上がってからこのドイツ語を習う。テキストは書かれているものなのでもちろんだが、授業時間中は基本的に話し言葉もドイツ語が使われるようだ。そして、教室の外はスイスドイツ語の世界。外国人が苦労するのはこの違いである。ドイツ語学校で習うのはもちろん標準ドイツ語だが、一歩外に出ると、この、学校で習った言葉が聞こえてこない。もちろん、スイス人はドイツ語での読み書きをしているわけだから、我々がドイツ語を使えば、それはわかってくれる。ところが、相手の言うことがこちらにはわからない。長年住んでいれば、耳も慣れて大抵のことはわかってくる。だが、こちらがドイツ語を発話する限り、それは二つの言語を同時に操るに等しい。つまり、インプットとアウトプットの言葉が違うわけだ。そして、さらに困ったことには、地域によって方言があって、だいたいはカントン(州)ごとだが、それぞれがかなり違うのだ。チューリッヒドイツ語、バーゼルドイツ語、ヴァリスドイツ語などなど、まだまだたくさんある。スイス人の集まりがあって、そこに幾つかの州出身の人たちが参加しているとする。すると、それぞれが自分の方言を喋るから、私など外国人にはほんとに悩みの種だ。スイス人が話す標準ドイツ語のテンポは、習い言葉だから比較的ゆっくりだが、自分の言葉となると当然テンポアップするし。スイス人同士でも、わかりにくい方言はあるらしい。

こちらに来たばかりの頃、知り合った先輩格の日本女性にアドバイスをもらった。「あなたね、まずはドイツ語学校に行ってしっかり標準ドイツ語を勉強した方がいいわよ。私は、学校に行かないで夫の親兄弟や村の人たちとスイスドイツ語でやってきちゃったから。あとで学校に行ったけれど、スイス語とドイツ語が混ざっちゃうし、書くのも難しいのよ。」このアドバイスは仕事をする上で役に立った。

ただし、本当に地元の人の輪の中に入り込むには、スイスドイツ語がわかった方がいいだろう。そうすれば、相手はわざわざ標準ドイツ語を話さなくてもいいから、構える必要がなくて親しみが湧くだろうし。それに、書き言葉のドイツ語はスイス人にとっては、あくまでもオフィシャルなもの、学校の言葉という感覚があるのだと思う。それともう一つ、距離的にも文化的にも近いドイツだからこそ、一線を引いておきたいという気持ちもあるのではないか。ドイツ語を話したがらない人もいる。ヨーロッパの中の同じドイツ語圏でも、スイス人とドイツ人はだいぶ気質が違う。これはごく大雑把に言えばだが、押しの強いドイツ人に比べると、スイス人は控えめの感がある。スイス人も、私のような日本人から見れば十分自己主張する人たちなのだが、やはりドイツ人に比べればおとなしめだ。もちろん、控えめなドイツ人もいるし、これはあくまでも一般論としての話ではあるが。

一つ面白い経験がある。まだまだドイツ語もスイス語もそんなにわからなかった頃は、五感をフル活動して内容を理解しようとしていた。なかでも、言葉の持つ音の響きは、手がかりの一つとして大きかったと思う。スイスドイツ語は、私の耳には少し東北弁に似て聞こえた。濁音の訛りがあって朴訥で素朴な感じ。それと、何だかちょっとトーンに愚痴っぽい感じもあって、何かあったのだろうかと気にもなったり。それに比べて、ドイツ人の話す標準ドイツ語は、カッカッとテンポよく飛び出してきて、ずいぶんと自信に溢れて聞こえた。ある日のこと、レストランの後ろに座っている人たちの白熱した議論の声が聞こえてきた。何だろう、政治か社会の重大問題について意見を戦わせているのだろうか。連れ合いに聞くと、ドイツ人のグループで、何とそれはビールの話だった。全てに対して意見を持つ議論好きな国民性なのかもしれない、そう思った。

とにかくそんなわけで、スイスでは学校に行かない限りドイツ語の習得は難しい。日常生活からは自然に学べないのだ。もちろん、外国人に対してドイツ語で話してくれる人もいる。だが、仕事にも使えてスイス人の輪にも入るためには、言ってみれば二ヶ国語の習得が必要。それが我々ドイツ語圏で生活する外国人には悩めるところである。

 

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