スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

HSPの記事をきっかけに考えたことあれこれ

人の気質のひとつにHSPという定義があるのを知った。きっかけはこうだ。アマゾンは、よくお勧めの本の情報を送ってくる。その一冊がHSPのパートナーを持った人の本だった。それで、HSPとは何だろうと調べてみたのだ。まず、この言葉はHighly Sensitive Personの略で、「視覚や聴覚などの感覚が敏感で、非常に感受性が豊かといった特徴を持っている人」のことを指すという。特徴の説明に、なるほどわかるわかると頷きながら読み進めていった。そして、いくつかの思いが胸をよぎった。

このHSPの気質を持つ人は、全体の15パーセントから20パーセントほどだという。日本人は諸外国に比べて若干多い傾向にあると、私が読んだ説明の一つには書かれていた。なるほど。特徴の一つに、人の気持ちを読んで感情移入する力の高さがあるらしい。私がまだ日本にいた昭和の頃、「こうしてあげた方が、相手も嬉しいだろう」「これは、相手に悪いだろう」というような言葉を時々聞いた。相手が言わなくても察する力だ。あるシーンが蘇った。職場でセミナーがあって、講師の著書が会場の後ろに平積みにされている。女子職員たちが、参加者へのお茶を運んでいた。ある職員がちょっとだけ本の上にお盆を置いた時、上司が「ご著書の上にお盆を載せてはいけないよ」と、そっとたしなめた。本は物だが、そこには講師の魂が籠っているという気遣いだ。かつて、相手を思いやる繊細な気遣いは、日本人にとっては美徳で、それは社会でも評価されていた。今はどうなのだろう。社会にアメリカ式の競争原理が持ち込まれて、繊細な人ほど生き辛い世の中になっていやしないか。こちらにも、もちろんそういう人たちはいる。これは、個人的な推測に過ぎないが、かつて、日本に惹かれる人たちの多くは、欧米の自己主張する文化の中で生き辛さを感じている人たちだったのではないだろうか。少なくともある時期までは、その人たちにとって、日本はある意味で幻想のオアシスだったのかもしれない。ただ、今は若い人たちを中心に、漫画やアニメやSushiなどの食べ物を通して日本に惹かれる人たちが増えているのも確かだ。そして、安くなった日本へは渡航がしやすくなって、日本にも外国人観光客がめっきり増えた。日本の社会や文化に関心がある人ばかりでもない。量が増えれば質も変わるのは世の常だ。

また、騒音に敏感だという特徴もあるらしい。沖縄のことを思う。基地の周辺に住む人のことを思う。飛行機の爆音はどんなにか辛いことだろう。基地だけではない。長年住んでいた静かな土地に、公の都合で突然に幹線道路が作られ、立ち退きにはならないが、家がその近くに位置するようになることもあるだろう。その騒音を避けるためには、他の土地に移るしかないが、補償がなければそれもままならない。世の中には、HSPの人へも含めて理不尽なことが溢れている。

HSPの記述を読みながら、なぜか「陸軍」という映画が脳裏に浮かんだ。木下恵介監督、田中絹代主演で、1944年に作られた映画である。陸軍が戦意高揚を目的に作らせた国策映画が、最終的には反戦のメッセージ感じる映画になってしまったという曰く付きの作品だ。あらすじは省くが、私が思い浮かべたのは、三つのシーン。田中絹代演じる母の息子は優しい子に育つ。怖がりなところもあって、男の子たちが橋の上から川に飛び込んでも、彼にはそれができない。戦時下の男子だ。それを不甲斐なく思って練習する場面。もう一つは、出征前夜、母の肩を揉む場面。涙ぐむ母。翌朝「軍国の母」として健気に送り出す母だが、出発の進軍ラッパを聞いて矢も盾もたまらずに家を飛び出して走る。必死で息子を追いかける母の姿には、繊細で心優しい息子の気質を知る母の心情が溢れていた。その未練に満ちたラストシーンが陸軍の不興を買ったのだという。

その他にも、世の中には多様な属性を持った人たちがいる。そういった人々への理解が深まることは、社会の中でみんなが共に生きて行くうえで大切なことだ。そして、その平和な共存のためには、政治の果たす役割も大きいと思う。政治がおかしな方向へ行かないように、人々が関心を持ち続けて見張っていくことは大事なことだろう。政治のやり方によっては、個人のささやかな幸せも簡単に壊されてしまう。頻繁に国民投票のあるスイスに長く暮らしているせいか、日常生活や社会生活が政治と密接に繋がっているという感覚が普通になっている。

 

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