スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

コロナ規制下、ロカルノ訪問で思ったことあれこれ

コロナ禍が広がって以来、初めての遠出をした。ロカルノで親戚の告別式があったのだ。スイスでは、隣国フランスなどとは違って、移動の制限はない。

コロナで、告別式も列席者の数は制限されている。こちらに来てから、お葬式には幾度も列席したが、そういう事情で一番寂しい式だった。この国では、一般的に告別式は教会で行われる。だいたいパイプオルガンの演奏から始まって、牧師あるいは神父さんの話、故人を偲ぶ言葉、賛美歌、祈りなどの内容で、およそ1時間で式は終わる。その後、招待された人たちは、レストランなどで会食をすることになるが、教会の式自体には、故人にお別れを告げたい人は誰でも参列することができる。新聞に死亡告知と式の案内が出されるから。けれども、今はコロナのために、事前に喪主から連絡があって出欠の知らせをする。簡素ではあったが、老齢の親を亡くした遺族の手作り感のある告別式だった。

車で片道3時間以上の行程だったので、1泊2日の予定で出かけた。それで、久々にロカルノの街を散策してみた。店が空いているので、ロカルノ映画祭のオープニング上映のある広場、ピアッツァ・グランデはそれなりに賑わっていた。レストランやカフェバーは閉まっているが、テイクアウトは認められているから、店先に屋台を出して軽食と飲み物を販売しているレストランも多い。ホテルは開いているので、宿泊客に限ってはホテル内のレストランを利用できる。街には、外国からの観光客はほとんど見られなかった。コロナ前には、スイスの観光地は中国人やインド人などのグループ客で賑わっていた。ルツェルンなどの有名観光地は、とくに中国人観光客で文字通り溢れかえっていたものだ。その昔は日本人のグループが多かったが、今はほとんど見られなくなった。団体旅行は為尽くして、個人旅行の時代に移ったということかもしれない。たぶん、理由は一つではないだろうが。いっとき、ロシア人観光客が目立った時期もあった。ある意味で、観光動態にその国の経済力の移り変わりが見られて興味深い。経済力といえば、チューリッヒのある博物館のカフェテリアには、チューリッヒ時間、ニューヨーク時間、東京時間の三つの時計があったが、いつの間にか東京から北京に変わっていた記憶がある。今もまだ時計そのものがあるのかどうかは、久しく訪ねていないのでわからない。

それにしても、ヨーロッパ各国の観光地は静かになっている。一時はちょっと異常なくらいだったから、昔に戻ったという感じだろうか。4年か5年くらい前だったか、何十年ぶりかでベニスを訪ねて肝を潰したことがある。サン・マルコ広場が中国人の団体観光客でビッシリと埋まっていたのだ。それも、ごくラフでカラフルな色合いの格好の人が多かったので、まるで広場に原色の絨毯が敷き詰められたかのような光景。その様とイタリア建築の色合いとの間の大きなギャップには、どうしてもしっくり来ないものがあった。その昔、初めて訪ねた時には広場もゆったりしていて、シックな装いの人々がエスプレッソを片手に話している雰囲気に旅情を感じたものだった。まさに、キャサリーン・ヘプバーンのアメリカ映画「旅情」で描かれていたような街角に、これぞベニスと感激した。もう一度行ってみたいと思ったのは、そのイメージがあったからだ。だが、数年前に訪ねた時には、運河の橋の其処此処にも観光客が溢れていて様変わりしていた。ところで、去年のロックダウンの時には、人が減ってベニスの運河の水がキレイになったと話題になっていたっけ。

何でも度が過ぎると問題が起こる。コロナ前だが、バルセロナでも増えすぎた観光客による「観光公害」に住民の反発が広がった。まず、航空運賃が安くなりすぎて、バスを利用するような気軽さで飛行機が利用されるようになったことも、人の移動に拍車がかかった理由の一つだろう。昔は、遠くに旅するということは、何よりお金もかかったので敷居も高く、人々はそれだけの準備をして旅に出た。訪問先の習慣や文化も事前に勉強してから出発した人も多かったろう。たとえば、外国人にとって日本はそういう国だった。高い文化を持つ憧れの国として、皆それ相応にリスペクトをもって出かけた、と思う。それが、円が安くなって、またインバウンドを当てにして外国人観光客の受け入れに国を挙げて突入した結果、日本文化に何の関心や理解もない人たちも、ただ、まだ行っていないアジアの国だし、安いからちょっと覗いてみようかと旅行するようになった。その変化は、周りを見回して身をもって感じたことだ。

コロナのロックダウンで人の往来が減り、特に飛行機がほとんど飛ばなくなった時には、これを機に発想の転換が起きて、環境問題の改善につながるのではないかとも言われた。さあ、世界はこれからどうなっていくのだろうか。コロナ後の時代がどうなるのか、いろいろな面でまだまだ先が見えない。振り返って、良き方向への転換の時期だったとなればいいが。

 

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古いギターが新しく生活の逸品となったという個人的な話

#新生活が捗る逸品

4月は、日本では新しい始まりの季節だ。官庁や大半の会社では新年度のスタート、学校では新学年のスタートだ。就職や入学で独立して一人暮らしを始める人たちもいることだろう。何を揃えようかといろいろ考えを巡らしたり、買い物に行ったりするのも楽しいことかもしれない。最近は、通販で物を揃える人も増えているようだ。いずれにしても最低限の家財道具や日用品は必要だ。ただ、新生活が捗る品といっても、それはその人の生活スタイルにもよるだろう。

2、3日前にユーテューブでメルカリのCMに行き当たった。自分がいらなくなった物を、誰か使ってくれる人に売るというシステムらしい。何か探している物があって、自分にぴったりであればそれを買うということだ。新品でなくてもいい、物を捨てるのではなくて循環させるというポリシーのようだ。こういうプラットホームで自分にとっての逸品を探すのもひとつの手かもしれない。

そういえば、スイスにもRicardoという似たようなプラットホームがある。最近、連れ合いが1974年製のBMW、R75/5 のオートバイを出品した。長年の友として慈しんできたが、もう乗らないので手放すことに決めた。せめて、このバイクの価値を知って愛用してくれる人に手渡したいのだ。スクラップにせずに循環させたい。これの価値がわかって買ってくれるのは、ある意味BMWマニアだろう。モダンな様々な機能付のオートバイは次々に出てくる。けれども、この古いBMWのエレガンスと魅力がわかる人に乗ってもらいたいということだ。

なぜ、メルカリのCMに行き当たったのか。実は、草彅剛さんがその理由だ。草𦿶さんは、前々からその卓抜した表現力に注目していた。 ついこの間の日本アカデミー賞で主演男優賞に輝き、また今は、NHK大河ドラマの徳川慶喜役の演技が評判になっているという。残念ながら、日本にいないので観ることも叶わず、せめてユーテューブに彼の演技の端々を探していたのだ。そうしたら、このCMが目に入ってきたというわけである。印象的だったのは、メイキングオフの映像。愛用のギターについて語っていた。そのギターは70年前に作られたものだという。彼曰く、このギターを手に取ると時代と時間の流れを感じる。そして、年を取っても、ただ朽ち果てるのではなくて再生している。「僕の人生のテーマでもあるんですよ。人間もそうじゃないですか。ただ朽ち果てていくのではなくて、朽ち果てながらも再生をしている。だから、唯一無二の輝きを発している。ただ、古くなってるだけじゃないっていうか、色あせない魅力がある。だから、このギターを見ながら、こういう人間になりたいって思う。いいシワ刻んで、傷もね。人間は怪我したり病気になったりもするけど、それすらも自分の生き様として刻まれていくみたいな。好きです、そういうの」というようなことを語っていて、とても強い印象を受けた。そして、自分のギターのことを思い出した。

昔々、日本でちょっとだけギターをいじっていたことがあった。こちらに来てから義父の古いギターを受け継いで、しばらくは歌の伴奏にちょこっと弾いたりもしていたが、いつの間にか遠ざかってしまった。小ぶりで傷もある相当古いギターだったが、捨てないで取ってはおいたのだ。去年のロックダウンの頃、久しぶりにギターを弾いてみる気になって手に取ったが、朽ち果てたようにみえた。新しいものを買おうかどうか迷ったが、とにかくギター職人さんに見てもらうことにした。職人さんが言うには、今ではもうほとんど残っていない珍しい品だという。なんでも、19世紀初頭に作られた小ぶりのギターで、ピクニックなど遠出のお供に人気があったのだそうだ。森でキャンプファイヤーを囲みながら、皆で歌っている姿が目に浮かぶ。傷もあるが、あくまでも自分の歌の伴奏のためだ、このギターを使っていこうと決めた。弦を全取替えして、修理できる部分は直し、手入れをしてもらった。今の手頃な値段のギターより、深みのある音を奏でる。

草𦿶さんの言葉を借りれば、朽ち果てながらも再生していく100歳を超えるギター。よし、私もがんばろうという気持ちにさせてくれる。そういう意味では、新しく生活を彩る(捗るではないが)私の逸品と言えるかもしれない。

 

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猫のクロの話 その3

夕方になると、決まって近所の黒猫が我が家の台所の前を横切っていく。今日もそうだった。いつものように急ぐ風情もない。毎日、自分のテリトリーを点検して回っているのだろう。その姿を見て、そうだ、クロの第3話をまだ掲載していなかった、と気がついた。たしか、第1話と第2話は1月の第1週と2週のブログに載せたはず。第3話まであるのでまた載せます、と書きながら、すっかり忘れていた。ということで、今日は短く、猫のクロつぶやき完結編。

 

クロの話 その3

ヨネちゃんのことでは参ったなあ。ボクのこと怒ってるんだ。虎さんが宥めて、いろいろ言って聞かせてたみたいだけど、まだちょっと後を引いてるみたいなんだ。いまだにツンとしてる。ヨネちゃんって、けっこう可愛い顔した女の子なんだけど、なにせ気が強い。それに、飼い主さん家族に猫可愛がりされて育ってきたもんだから、ワガママで、まるで自分のことプリンセスみたいに思っちゃってて、なかなか相手の立場に立って考えてくれない。いつも「正義我にあり」だ。ボカア、嘘なんかついてない、ほんとに家の人が探してたから教えてあげたんだ。でも、誤解だって思っても、やっぱりツンとされると傷ついちゃうなあ。そんなこともあって、無性に『おやじさん』の顔が見たくなっちゃった。

『おやじさん』は相変わらず元気だった。「おお、よく来た。ちょうど旨いものがあるから、食ってけ。お?どうした、なんか今日は元気がないな」って、『おやじさん』にはすべてお見通しだ。それで、ヨネちゃんとのこと、胸の中のモヤモヤを聞いてもらったんだ。誤解されてツンとされると、やっぱりヨネちゃんのことをひどい奴だって思っちゃう。そうするとまた、ハクアイシュギのボクとしてはジコケンオに陥っちゃう。それで、ボクから見たらすごい賢猫の『おやじさん』には、ネガティブな気持ちはもう湧かないんだろうと思って聞いてみた。そしたら、ちょっと空を見上げて考えてから『おやじさん』はこう言った。「いやいや、そんなことはない。ワシだって生きてる猫だ。いろんな思いが湧くさ。それもいつもいい思いばかりとは限らん。ただ、ワシが心がけているのは、湧いた気持ちを観察することだ。心は、見ろ、あの空のように雲がいつも動いている。一点の曇りのない青空であることはまずないぞ。思いが湧く。嫌な思いもある。その時、否定も肯定もせずに、ああひとつ雲が湧いた、と思うことじゃ。ダメだダメだ、湧かせるものかと頑張ってはいかん。湧くものは湧くのだからな。ただ、観察される時、思いはもうお前のものではない。もうひとつの何ものかが問うだろう。どうしてこの思いが湧いたのか、と。問いがあれば自然にお前の心は答えを探す。わからなくてもいい。やがて心の中の雲は留まらずに流れていって、そのうちに消えていくだろう。お前は観察することによって、その思いを手放したのだ。」こいつは修行しかない、と思ったボクは、ここに住ませていろいろ教えて下さいって、弟子入りを願ったんだ。そしたら見事断られた。『おやじさん』曰く「ダ・メ・ダ。いい若いもんがこんな猫里離れた所に住むのは早い。飼い主や他の猫たちと生きていくことで、自分なりにわかってくるさ。それに、ワシは所詮ただの世捨て猫。お前はまだ若いんだ、渡世の義理ってやつも学ばにゃあかん。ま、嫌なことがあったら、原っぱでも飛び回って走れ。身体を動かすんだ。そうしたら気分もよくなる。身体と心が繋がっていることを忘れちゃいかんぞ。さあさあ、この鰯の頭を食ってみな、美味いぞ。ここにはいつでも遊びに来りゃあいいさ。」ほんと、その鰯はとびっきり美味かった。『おやじさん』、また来るよ。

 

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過去を知ることで未来に活かす知恵

いつだったか日瑞両方の血を引く若者と話した時の彼の言葉が頭に残っている。たぶん、最初のコロナ禍のロックダウンの頃だったかもしれない。シニアの外出自粛のことが糸口で、「老人」についての話題になったような気がする。

「自分は、老人は大事だと思う。だって、僕たちの知らない昔のことを経験しているわけだから。なんていう言葉だったかな、ほら、宮崎駿のアニメにも出てきたけど、集落の物知りの老人を指す言葉があるでしょ?」と彼が言った。「ああ、長老?」「そうそう、それ」と彼は頷いた。そして、「年取ってる人が亡くなるってことは、その人の経験そのものも無くなってしまうことでしょ。だから、生きているうちにそれを若い人たちに伝えてほしいと思うんだ。僕たち若い者が学べることがあるはずだもの」と言う。なるほど、年を重ねたからといって賢くなるばかりでもないが、たしかに、昔の長老と呼ばれた人たちは、知識と経験からくる知恵があった。

今の世の中は、情報に関してはかなりインターネットに依存しているから、その点ではかえって若い人の方が、情報量が多かったりするかもしれない。けれども、それを判断するためには、今までに得た知識や経験がものをいう場合もあるだろう。長老とまではいかずとも、高齢になればそれだけ時間的には経験を積んでいるわけだ。「先生」という言葉がある。それは、相手に対する敬いの表現である。「先に生まれた」と書く。一般に、先生という言葉は、自分が教えを請う人に使われる。つまり、ある事柄について自分より知識のある人だ。時間的に言えば、先に生まれた人は、若い人たちが生まれる前のことに立ち会っているわけで、歴史?を体験している。ということは、その経験を伝えることによって、これからの人が学べることもあるはずだろう。であれば、先に生まれた人が後から生まれた人に、やがては歴史になる出来事の体験や、その時代に生きた経験を語っていくのは大事なことなのだと思う。

歴史研究者は、残された史料から事実を積み上げて時代を検証していく。ノンフィクション作家も、史料や証言をたどってその時代に生きた人物を描いていく。歴史は繰り返すと言われるが、過去にあったことを知ることが、今起きている事柄やこれからのことを考える役に立つ。そういう意味で史料を残すということは大切なことだ。最近の日本では、政府関係の会議で議事録が取られていなかったり、公文書の改ざんが行われたりしていたという。官僚や政治家の記憶もごく短期間で消えてしまうらしい。ちょっと考えられないことだが。

日本では、政治家にも「先生」という呼称が使われる。だが、今の政治家に本当にそれに値する人がどのくらいいるのかは、大いに疑問だ。我々の親世代の政治家たちは、たいてい若い時に戦争体験をしているから、自分ごととしてその悲惨さを知っていた。だからこそ、全体の方向性としては、平和で国民生活が豊かな国の建設を考えていたと思う。そういう意味では、過去に学んだ人たちで、なかには「先生」にふさわしい人物もいたことだろう。でも、もうほとんどはすでに鬼籍に入ってしまった。後輩に十分に経験を伝え知恵を授けてから彼岸に渡ってくれただろうか。

それにしても、公文書改ざんの話などを聞くと、なんだかジョージ・オーウェルの「1984年」という小説のことが頭に浮んでしまう。近未来の仮想の国が描かれているのだが、そこの国民は四六時中ビデオカメラで監視されていて、ビックブラザーという顔の見えない独裁者に支配され、人々には思想言論の自由などない。また、真理省という役所があって、そこでは支配者に都合のいいように、現在の状況に合わせて日々歴史の記録が改ざんされている。だから、過去に何があったのかは、本当のところは、もう後の人には誰にもわからない。ジョージ・オーウェルはそんな世界を描いた。過去の記憶がきちんと事実として形に残っていない社会の行く末を考えるとおそろしい。人の記憶は当てにならないから、文書で記録を残しておくことが大事なのだ。

私の子供の頃の大人たち、作家や執筆家、評論家として活躍していた方々何人かを思い浮かべる。あの方たちが生きていて、今の日本社会の状況を見たら何と言うのだろうか。ふと、フランス文学者で、ラブレーやエラスムスの研究で知られる渡辺一夫氏の名前が浮かんだ。氏を先生と仰いだお弟子さんたちの何人がまだご健在だろうか。大江健三郎さんがチューリッヒで初めて講演をされたのは、2000年1月のことだった。定員600人の会場に650人の聴衆が詰めかけて、コンサートホールの舞台の後ろも人で埋まった。講演の中で渡辺一夫とエラスムスに触れておられたのが印象に残っている。精神の自由が奪われ、主流とは違う考え方への不寛容が蔓延する時代には、エラスムスが語られる。シュテファン・ツヴァイクの「エラスムスの勝利と悲劇」が書かれた時代もそうだった。大江氏の「治療塔惑星」などは予見的な作品だと思う。ドイツ語訳も出ている。この方は、常に社会と関わりながら発言と行動をしてきた作家だ。今は80代の半ばになられていると思うが、お元気でいらっしゃるだろうか。

さて、最初の話に戻るが、あの若者の言葉には意を強くした。歴史家やノンフィクション作家ではなくとも、著名人ではなくとも、年を重ねた市井の人間が、書くなり語るなりして経験したことを伝えていくのは、やっぱり意味のあることなのだろうと。私自身も、亡くなった両親からもっともっといろいろな体験を聞いておきたかったなあと思っているこのごろである。

 

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カズオ・イシグロ氏のインタビュー記事を読んで考えたこと

購読している地元の新聞をパラパラと繰っていたら、ある見出しに目を引かれた。アジア系中年男性の写真とともに、大きく「我々は根源的なところで孤独である」と書かれていた。ちょうど、ブログに「孤独について考えてみる」と題して文章に書いたところだったので、よけい目に飛び込んできたのだろう。

それは、カズオ・イシグロ氏へのインタビューだった。氏の新作「クララとお日さま」の紹介である。ドイツ語訳が出版されたことによるものだが、日本語訳もすでに出ているみたいだ。見出しの下に「ノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロが人工知能、個人の責任、そして彼の新しい小説について語る」とある。インタビューを読んで、ぜひこの新作を読んでみたくなった。

「クララには人々と孤独との関係がよくわからないようですが」と言うインタビュアーに対する応答が、この見出しの言葉だった。氏の答えをまとめてみる。ロボットのクララは、ティーンエイジャーのお友だちとして、孤独を慰めるようにプログラミングされている。だが、長らく人間たちと過ごすうちに、人間は非常に根源的なところで孤独なのではないかと思うようになる。巨大で複雑な世界がそれぞれの人間たちを取り囲んでいて、一人一人が自分のまわりに城壁を築いている。それがそれぞれをとても複雑で多面的で愛すべきものにしているのだが、そこに個々人が他者への関係性を築くことの難しさがある。それは、我々は根源的なところで孤独だという私(イシグロ)の確信に繋がる。他者へ橋を掛けるというのは、絶え間ない挑戦だし、それは長年共に暮らしている人たちに対してさえそうだ。人々がこの孤立の感情を和らげるために何をするのか。その全てを観察するのはとても興味深いことだと思う。と、まあ、そんなことを語っていた。

前回のブログにも書いたように、ここスイスではおよそ3人に1人が孤独を感じているという。今は特にコロナで人との接触があまりない。そういう意味での孤独感もあると思う。でも、イシグロ氏がいうような、人間に付きまとう根源的な孤独というものはあるだろう。生まれ出た時に母親の胎内から切り離されて、死ぬ時も独りだ。自我という言葉はひとつだが、この世には無数の自我が存在している。それぞれの自我の観点からすれば、それぞれが世界の中心ではあるけれど、無数の自我があるわけだから、どれもみな同時に等しく世界の一隅にある存在だ。「あなた」と「わたし」が出会う。ある意味、こうしてこの自我たちがこの時間と空間を共有していることは、なかなかに有り難いことかもしれない。そう思うとイシグロ氏の言う城の門を開いて橋を掛けずにはいられなくなる。根源的なところでは孤独であるということを前提としてこそ一層深まる交流があるのではないか。人々が孤立の感情を和らげるために何をするのかを観察するのが興味深いというのは、イシグロ氏の小説家の観察眼だ。その考察が「クララとお日さま」に書かれているのだろう。

もうひとつは、日本の雑誌のインタビュー記事。「カズオ・イシグロ語る『感情優先社会』の危うさ」というタイトルだった。タイトルを見ただけですぐ読んでみる気になった。簡単にまとめると、誰もが感じたいことを感じて、それが真実になってしまう危うさが社会にある。エビデンスではなく、感情や意見が幅をきかせるようになってしまった。科学の世界で行われている手法、最終的にはデータやエビデンスによって事実と向き合い、その上で間違いを修正しながら議論していく姿勢が大事だとイシグロ氏は語る。事実はこうでも私の感情はこうだと、感情を優先させてしまうと議論が成立しない。まずは、あなたの感情は棚上げして、客観的な事実を土台として相手と話しなさいよ、ということだろう。自分と違う世界があるという認識が必要と語っているが、それは納得する。生まれ育った場所や時代を引っ括めて、違う環境で形成された受け止め方を感情的に主張していては、一致点を見つけることは難しい。やはり、データやエビデンスによる事実を共有することが出発点だろう。

日本を離れて長年異文化の中で生活していて思うのは、人間の基本的感情に国による違いはないということだ。喜怒哀楽に関してはそう思う。そうでなければ、ある文化圏の文学作品が翻訳されて、異文化の人たちにも共感を得たりすることはないだろうし、映画も然りだ。ただ、ある行動への受け止め方や感情の表し方には、文化による違いがあると思う。日本国内だって、関東と関西は文化が違うと言われたりしている。その人が育った時代背景によっても違うだろう。だからこそ、感情論では問題解決のための建設的な議論はできない。イシグロ氏も触れていたが、先のアメリカ大統領選を巡っての混乱を見ても、トランプ氏は、自分は負けるはずはないし勝ったと信じているのだから勝ったのだと、データもエビデンスも出さずに、自分の感情だけで言い張っていたように見える。これは一例だが、ここ数年のSNS上で起きている様々な問題は、思い込みが検証なしに一人歩きしているところに起因しているようにも思える。

成熟した社会や文化とは何だろうか。昔、何でもかんでも物事を「私」の好き嫌いで測る同級生の女子がいた。「これ、好き。あれ、嫌い」で、すべて判断する。食べ物や音楽などの好みだったらそれもいいだろう。それが、人や考え方に対してもそうなので、聞いていてちょっとどうかなあと思うところがあった。自分の感性と向き合う成長過程においては、そういう段階も必要だろう。だが、年を重ねてもそうなのであれば、やはり未熟と呼ばざるをえないのではなかろうか。自分の主張を持ちながらも、人の立場も考慮できるようになることが、大人になることではないだろうか。社会もそれと違わないと思う。テクノロジーだけ発達しても、私たちの世界が子供返りしていないといいが。

世界には問題が山積している。ただ、インターネットが普及する前と決定的に違っているのは、ネットを通じてニュースが即時に世界中に共有されるということだ。昔は、世界のどこかで何かが起こっても、そのニュースが伝わるまでにはタイムラグがあったし、地理的に遠ければ、それは違う世界の出来事と言う感覚があった。一般の人は、たいていは自分が手の届く範囲の世界で暮らしていた。しかし、今のように即座にツイッターなどで情報が駆け巡る時代には、この空間を常にザワザワしたものが飛び交っていて、意識的にシャットアウトしないと心の安らぐ暇がないかもしれない。距離をおいてゆっくり考える余裕がなくなっている。熟考しないまま、何らかの発信が行われる。

物事を感じるのは即座のことだ。しかし、考えるためには立ち止まって観察する時間が要る。無機的な技術発展で瞬時に受発信ができるようになった世の中は、有機的存在である人間の本質とはどこか相容れないところがあるように思う。

  

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「我が青春に悔なし」に見る原節子の女優としての本領と、黒澤明と小津安二郎の作風について

最近、石井妙子氏のノンフィクション「原節子の真実」を読んだ。原節子と聞いてまず浮かぶのは小津映画だろう。「東京物語」「晩春」「麦秋」「秋日和」「小早川家の秋」などに出演している。戦後の小津映画を語る時、原節子は欠かせない存在だ。小津安二郎は1963年に亡くなった。そして、原節子も1963年に43歳で映画界を引退し、その後は2015年に亡くなるまで、公の場に出ることなく鎌倉の自宅でひっそりと暮らしたという。そんなこともあってか、原節子の引退は小津の死と関連付けて語られることも多かったようだが、このノンフィクションを読むと、彼女の引退の背景にはもっと深い事情があったように思われる。原節子は、当時の日本映画界では本領を発揮できなかった女優ではなかったのか。イングリット・バーグマンのような女優になりたいと語ったことがあったそうだが、あの時代の日本社会と映画界は、自分の道を毅然と生きる自立した女性像を受け入れるにはまだまだ遠かった。

黒澤明の「我が青春に悔なし」の中の原節子を見た時、これこそが彼女の女優としての本領を発揮する役柄ではないのかと思った。それほど小津映画の中の原節子とこの映画の彼女は違っていた。私は、小津映画で演じる彼女を見る時、どこかに微かな違和感を禁じえなかった。何というか、この人の本質が引き出されていないというもどかしさのような感覚。だからこそ、この黒澤の映画を観た時、同じ女優が監督によって、こんなにも違う表現ができるものなのかという驚きがあった。原節子が本来持っているものは、この自立した強さと能動的なパッションなのだと思った。石井妙子氏によれば、彼女自身、黒澤映画に出演することを望んでいたのだという。黒澤も自分の作品への彼女の更なる起用を熱望していたそうだが、いろいろな事情が絡んで実現しなかったらしい。たとえば、日本初の海外映画祭受賞作となった「羅生門」には、原節子の起用を真っ先に考えていたという。結果的には京マチ子になったが、もしこれが叶っていれば、原節子は国際女優としても大きく羽ばたいていたかもしれない。

黒澤明と小津安二郎は、表現法において対照的な映画作家だ。一方は「動」で、他方は「静」とも言える。それはカメラの回し方にも如実に現れている。黒澤はいろいろなアングルから俳優を捉え、クローズアップも多い。したがって、画面に躍動感が出る。小津の方は、ローアングルにカメラを固定し、登場人物はフレームの中に出入りする。だから、画面は淡々とした感じになる。小津映画によく登場する笠智衆などは、この撮り方にしっくり収まる俳優だと思う。一方、原節子はどうだろうか。当時で言えば大柄な彼女、そしてその華やかな目鼻立ちが、淡々とした日常の立ち居振る舞いの中に、一種の非日常性を醸し出している。原節子がその画面の中に置かれる時、微かなアンバランスが現れると私は感じる。これはもしかしたら、小津の意図なのかもしれない、と考えもする。一見穏やかな日常生活の小世界の外には、嵐が吹き荒れているという感覚、それは永遠に続くものではない、だからこそ愛おしいという思い。従軍の戦争体験もある小津だ。あの淡々としたホームドラマは、日常の脆弱性を知った人間の、日々の何気ない営みへの愛着ではないのか。そう考える時、私の中で小津映画は深みを増す。だが、監督の駒としての女優原節子ではなく、原節子という女優の本質を開花させ、本領を発揮させるという役割は、もしかしたら黒澤によってこそ成され得たのかもしれない、とは「我が青春に悔なし」を見て思ったことである。

この「我が青春に悔なし」は、私にとっては違う意味でも印象に残る映画となった。もう10年以上前のことになるが、チューリッヒ市映画館で黒澤明特集があって、字幕照射の仕事を頼まれた。上映作品の何本かはフィルムを新しくして、字幕はフィルム焼き付けではなく、コンピューターで映写室から照射するようになっていたからだ。その中のひとつに「我が青春に悔なし」があった。映写室の小さな窓から映画を見ながら、俳優のセリフに合わせてコンピューターのドイツ語訳を当てる。かなり緊張を要する作業である。それで、まずはリハーサル、それから本番に入る。同じ映画が日をまたいで何回か上映されるので、総計同じ映画を何回見ただろうか。それで自然と細部に亘っても目が行くようになる。大半は忘れてしまったが、黒澤明の凄さを感じさせられたいくつかのシーンが今も心に残っている。

この映画のストーリーをまとめると、こうだ。満州事変から急速に戦争に向かっていく時代の中、1933年に京都帝大の八木原法学部教授への思想弾圧事件が起こる。これは実際にあった京大滝川事件をモデルにしているという。八木原教授(大河内傳次郎)には、原節子演じる幸枝という令嬢がいて、糸川と野毛(黒澤作品「姿三四郎」で三四郎を演じた藤田進)という二人の父親の教え子に慕われていた。学生達は大学の言論の自由を守る運動を起こすが、警察の介入により排除され、八木原教授は事態収拾のために辞任する。それを機に野毛は大学を去って反戦運動に身を投じるが、糸川は内心は教授の辞任による学生運動の幕引きに安堵し、無事卒業して検事となる。幸枝は自分に思いを寄せる糸川の俗人性と、自分の中にある生への情熱が相反することを知る。そして、信念にひたむきに生きる野毛に強く惹かれていたことに気づく。やがて幸枝は、内に燃え盛るものを満たすべく自立した生き方を目指して、野毛のいる東京へと向かう。あることから二人は再会して愛情を確認し、共に暮らすようになる。だが、野毛はスパイとして特高警察に目を付けられていた。二人の愛の生活には、常に引き離される予感が伴っていた。ある日のこと野毛は検挙され、幸枝も苛酷な尋問を受ける。野毛はスパイの嫌疑を掛けられたまま獄死する。幸枝は遺骨を持って野毛の田舎の両親を訪ねるが、スパイの家として村人達から迫害を受ける理不尽に胸を突かれる。そして、野毛の妻として彼の親に仕え一緒に田と共に生きる決意をする。かつてピアノの鍵盤の上を踊った彼女の白い指は、今や鋤を握る農婦の逞しいそれに変わった。やがて終戦を迎えて農村は一変した。里帰りをした幸枝は、村に戻って女性達の教育に携わる決意を告げる。

黒澤明の脚本家、監督としての凄さを感じたのは、ひとつは次のごく短いシーンだ。検挙の予感に怯えながらも、幸枝は野毛との時間に幸せを感じていた。そんな貴重な、二人だけで過ごすある日のこと。陽を浴びながら草原に腰を下ろす二人のところに天道虫がやってくる。野毛はそれを拾い上げてその点々を眺めながら、自然の精巧さに感嘆の言葉をつぶやく。私はこの短いシーンに黒澤のメッセージを見たような気がした。野毛の世界観をたったそれだけの短い場面で伝える技。検事として、あの時代の法律の中での「正義」にただ従う世俗的な糸川に対して、野毛が見ていたのは、時代を超えた悠久の自然の真実。戦争への一致団結という号令のもとに、生命の真理を追求する精神の自由を奪う国の理不尽さにこそ、野毛は抗ったのではないか。彼は何より、精神の自由が尊重される社会を求めていたのだと思う。けれども、それはあの時代の日本においては許されないものだったのだ。

 

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孤独について考えてみる

このコロナ禍で、人との交流が難しくなっている。先日見たスイステレビの番組で、スイスの人の三人に一人が何らかの「孤独」を感じているという。すべてをコロナに帰することはできないと思うが、一年にわたる様々な「社会的距離」は人々の心に大きく影響はしているだろう。誰かと会って一緒に食事に行ったり、コンサートやイベントを訪ねたりする生活が普通だったのが、一年前を機に一転してしまったわけだから。また、スイスではリモートワークが推奨されて、というか、それができる職種はほぼ義務になって、職場で人と接触することもなくなった人が多い。オンラインの交流とリアルで人と会うことの違いは大きい。ある心理学者が、この自粛生活を巡ってコラムを書いていた。若者たちへの影響についてだ。成長過程にある若者たちは、自分がリアルな場で、人を見たり見られたりすることで、自分自身というものを確立していくから、今の状況はそういう意味でも憂慮されるということだった。また、高齢者の孤独の問題も看過できない。高齢者のホームでは、施設内の人とちょっとした交流はあるだろうが、イベントなどは中止だし、訪問者も受け付けていない。ましてや、一人暮らしの人は余計に寂しいだろう。

ただ、孤独の問題は、コロナに関わりなく常に人の一生に付き纏うものだとは思う。

それは、交流を求めて自分から動きにくくなる年齢になってくると尚のことだろう。ずいぶん前の話になるが、ちょっとしたエピソードがある。毎年、知人友人に年賀状を贈る習慣だが、3年ほど全く知らない同姓同名の人に送っていたという笑い話のようなストーリー。まあ、どうしてそうなったかの説明は省くが、ある日、一人の老婦人から電話が掛かってきた。「私は〇〇と申しますが、私たちは知り合いでしょうか?実は、2年ほど前から〇〇さんという方からカードをいただいているのですが、それはあなたでしょうか。ただ、どう考えてもどなたか思い当たらないのです。それで、3回目にいただいた今回、息子に頼んでそちらの電話番号を調べてもらってお電話差し上げたのです。」話を聞いてハッとした。それは、私が送るべき人と同姓同名の全く違う人物だったのだ。私はお詫びして事情を説明、そしてそれから知らない同士でも打ち解けて、一時間くらいお話しただろうか。聞けば、未亡人のその方は、仕事を辞めてから先のことを考えて、慣れ親しんだ土地を離れ、息子さん一家の住む地域に引っ越してきたのだという。お話では、息子の勧めもあっての決断だったそうだ。ところが、息子さんは時々訪ねて来てはくれるものの、お連れ合いの方、つまり義理の娘さんになるわけだが、ほとんど顔を見せてくれない。そんなことだから、息子も気を使っているのかあまり長く居てくれない、と寂しそうだった。溜まった思いを、全く関係のない私だからこそ打ち明けやすかったのかもしれない。その他、その方の人生のお話も少し伺った。人は誰かに話を聞いてもらいたいことがある。ひょんなことからだったが、お相手ができてよかった。私の住む地域にも、高齢者を訪ねてお話相手をするボランティア活動があるそうだ。

いずれにしても、孤独の問題は老若男女を問わない。ふと、ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」というシャンソンを思い出した。自分にはいつも寄り沿ってくれるものがある。だから一人じゃない、もう寂しくない、私には孤独という友がいるから。日本語訳の歌はそんな歌詞だったと思う。けれども、寂しくないわけがない。人間は社会の中の繋がりで生きる存在だから。このテーマについては、また書いてみようと思う。

 

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