私が住んでいる地方は、11月は霧が多い。霧に覆われた景色を見ているうちに、ある映画の場面が蘇ってきた。
古い病院の玄関のような入り口に、霧の向こうから、一人、また一人と現れて、受付を通って中に入っていく。ここは、死者たちが亡くなった後、上に昇って行くまでに一週間滞在する中間施設だ。是枝裕和作品「ワンダフルライフ」(英語のタイトルは、After Life) の冒頭のシーンである。この意味ありげな画面で、もう最初から映画の世界にグッと引き込まれる。この作品は、是枝監督の劇映画第二作目だ。元々、是枝監督はドキュメンタリー出身だそうだが、「ワンダフルライフ」を観ると頷ける。その後、だんだん作風も変わっていったが、この映画の作り方には、ドキュメンタリー手法がよく出ていると思った。
この中間施設で死者たちは、自分があちらに持っていきたい思い出を、ひとつだけ決めなければならない。持っていけるのはひとつだけ、そして、死者はその思い出と共に生きるのだ。なかなか難しい作業である。当然、見つけられなかったり決めかねたりする人も出てくる。だから、それを探し出すために、カウンセリングがある。見つかったら、その場面をショートムービーに撮る。発想が面白い。その施設には、映画製作チームがいて、あれこれ試行錯誤しながら、できるだけ本人の思い出に近づけるようなシーンを撮影する。この辺りの場面には、是枝監督の映画愛が感じられる。
このカウンセリングの場面が、ドキュメンタリータッチで描かれるのだが、俳優さんたちが実にいい。演じている感じがなくて自然なのだ。まるで、普通の人が本人として語っているようである。もちろん、有名な俳優さんは自然に演じていても、こちらが知っているので、劇だとわかるが。
ここで、この映画のストーリーを詳しく語るつもりはないが、いくつか印象に残った場面を取り出してみたい。たとえば、ある女性の恋物語。彼女は、恋人との逢瀬 の時間を思い出として持っていきたい。だが、カウンセラーが調べていくうちに、彼女の話の整合性が崩れていく。つまり彼は、本当は来なかった。それは彼女の願望だったのだ。また、ある初老の男性は、自分の人生のビデオを見せられて、自分がどう振る舞い、どう見えていたかに驚く。それは、彼が自身で描いていた自分像とは違うものだった。人は、自分が周りにどう写っているかは、なかなかわからないものだ。彼の妻は、彼より早く亡くなってこの施設を通過していったが、妻が持って行った思い出は、彼とのものではなかった。妻は、彼と結婚する前に知り合い、戦死した男性を生涯忘れなかったのである。妻が見ていた夫は、夫自身が思っていたものではなかった。この話は、ちょうどこの映画の核心のひとつになるので、あまり深入りしないでおこう。
ただ、人は自分の生涯を客観的に見せられたとき、どう反応するのかを考えてみたい。その通りだと思うのか、あるいは、そんなはずはないと思うのか。アンディ・ウイリアムスが歌って有名な「マイ・ウェイ」という歌がある。人生の晩年に、あのように思える人は幸せだ。主観的に、私は生ききったと思える人生は、本人にとって素晴らしいものなのだろう。そして、その主観と客観がポジティブな答えとして一致すれば尚のことだ。果たして、人は自分について客観的になれるのだろうか。それぞれが、マイストーリーを紡いでいる。人の記憶は、概して曖昧だ。あの映画のように、思い出の場面をひとつだけしか持っていけないとしたら、そして、それと共に永遠を生きなければならないとしたら、人が死の床で願うのは、果たして客観的な「真実」なのだろうか、それとも、主観的な思い込みにせよ「満足感」なのだろうか。
だいぶ昔に観た映画なので、それこそ、間違って記憶に残っている部分もあるかもしれない。機会があれば、もう一度観たい映画である。