スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

あれから一週間、選挙について考えてみる

衆議院選挙から一週間経った。今回の選挙は、少し驚きの結果だった。インターネットで見る盛り上がりと、実際の有権者の投票行動が噛み合っていないという印象がある。つまり、投票率が思ったほど高くなかったのだ。

選挙前の日本の雰囲気がどうだったのかは、日本に住んでいないので肌感覚ではわからない。リアルタイムでテレビの報道に触れることもないし、直接街頭演説を聞くこともない。だから、情報にはタイムラグがある。ただ、今回は今までと違って、野党共闘も成立し、政権選択選挙と言われていたので、さぞや関心が高いことだろうと想像していた。けれども、結果的には、投票率は56パーセントに満たなかったのだそうだ。そして、これは、戦後3番目に低い数字なのだという。一番低かったのが、前々回の7年前、次が4年前だと、選挙結果についてのサイトに書いてあった。ふと気がついたのは、これらの選挙はすべて、この10年の間に行われたものだということ。この間に何があったのだろう。

たしかに、外から見ていると、この10年の間に日本は変わったと感じる。社会の安定感が失われ、人々に余裕がなくなってきたようだ。戦後の歩みを振り返ると、日本は焼け野原から再出発して、高度成長期を迎え、世界的にも豊かな国として見なされるようになった。日本国憲法の下に、戦前にはなかった国民主権と人権が保証され、「一億総中流」などという言葉に象徴されるように、戦前のような身分の差、著しい貧富の差もなくなった。それで、人々に余裕ができて社会も安定に向かう。「衣食足りて礼節を知る」かもしれない。戦後長らく終身雇用制だったので、働く人の立場も守られ、安心して働くことができた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本で、グループとして成功していく日本的経営の仕方が讃えられたようだ。帰属感が、労働意欲にもつながった面があったかもしれない。一時、トヨタ式経営が注目されていた時期があったが、私がなるほどと思ったのは、有名なトヨタ看板方式のことではない。もうずいぶん昔の話になるが、トヨタの密着取材の番組だったと思う。そこで紹介されていたのは、トヨタでは、現場で働く労働者の一人一人が、改善への自分なりの工夫や意見が出せるということ。それによって、生産性を向上させていくという取り組みだった。その会社に一生を託すと思えば、我が事として関わっていくだろう。自分も会社の一員として大事にされていると思えば、働く意欲も湧くことだろう。

その終身雇用制が、ソニーが皮切りだった思うが、20年ほど前からなくなった。それは、小泉竹中構造改革の時期と重なる。それが更に加速されたのが、この10年だったように見える。能力主義だ、改革だ、効率だといって、人々をただただ生産性の有無で仕分けしていったように見える。痛みを伴う改革というキャッチフレーズだったが、その痛みは誰の痛みだったのか。長い間培われてきた日本的な働き方という梯子を、セーフティーネットも張らずに外してしまったかのようだ。そして、派遣や非正規雇用を進める。日本の教育制度は、スイスのように職業教育を組み込んでいない。だから、10代の時に専門性を身につけ、その職種のプロとして会社を変えても働いていけるようにはできていない。専門性の育成は、会社が担っていたのだと思う。

とにかく、戦前や戦後すぐの貧しい時代ではなく、現代の日本で子供の貧困が社会問題となり、善意ある人々が子供食堂を作って、満足に食べられない子供たちを助けなければならなくなったなんて信じられない。いくつもの仕事を掛け持ちしなければ、満足に暮らしていけない社会になったなんて信じられない。専門的な分析は、政治・経済の学者や社会学者に任せるが、これでは、多くの国民に余裕がなくなって、政治に目を向けるどころではないのかもしれない。本当は、だからこそ、社会をそんな風にしてしまった政治を変えるために、投票が大事なはずなのだけれど。

だが、投票率の低さに関しての一番の問題は、そこではない。もし、メディアがきちんと今の状況を報道していれば、余裕のない人々も、わざわざ自分から情報を取りに行かなくても済むだろう。自ら情報を探すのは時間がかかる。けれども、とくにテレビなどが、選挙があること、何が争点となっているかをきちんと放送していれば、自然に目や耳に入ってくるだろう。そして、選挙前の時期に、今までを振り返ってメディアが現政権に点数をつけたり報道したりしていれば、注目もするだろう。社会全体が、選挙に行かなくてはという雰囲気になっていれば、人は大勢に流れるものだから、関心も高まることだろう。

昔の日本のメディアを知っている者にとっては、今のいわゆる大手メディアのジャーナリストは報道に対する腰が引けているように感じられてならない。何々がありましたと、出来事をただ伝えるだけでは、ただの広報機関にすぎない。ジャーナリズムの役割は、批判精神を持って、その出来事の背景や経過をきちんと分析して、時には、視聴者の参考のために、自社の見解も伝えるものなのだと思う。

投票率をあげるには、選挙を一つの国民的行事というか、お祭りにするのも、一つの手かもしれない。国民のみんなで盛り上がって、一緒にこの国を考えましょうというふうに。けれども、政権の継続を問われる与党は、好まないだろう。なぜなら、ハレの場になってしまえば、皆が関心を持つし、隠したいことも隠せなくなってしまう。なるべく、今までのことに目を向けないでほしいというのが、本音かもしれない。とくに、今回の選挙では、本来なら厳しく問われなければならないことが山積していたはずだ。もうひとつ不思議だったのが、投票時間の繰上げがあった投票所が、前回に比べてもかなりの数で増えたというニュース。仕事が忙しくて、ぎりぎりに駆け込んでくる人だっているのではないだろうか。なんだか、なるべく来てほしくないという思いを感じ取ってしまうのは、考えすぎだろうか。そうでなければ、投票の権利を保証するために、それこそ行政指導しなければならない問題ではなかろうか。

いずれにしても、特に国政選挙は、これからの国のあり方を決める大切な選挙である。一人一人の生活に直結する。気づいていなくても、政治は個人の幸せさえ左右する。幸せは気の持ちようだけではない。国会議員は、法律を作る仕事をするわけだが、悪法を作る場合だってあり得るのだ。だからこそ、立候補者とその所属する政党をよく見極めることが大事だ。

憲法にしてもそうだ。長くなるので、ここでは詳しくは触れないが、今まで日本人が曲がりなりにも平和に暮らしてこられたのは、憲法が守り神になっていたところもあると思う。世界には、公正な選挙のない独裁国家も多々ある。そんな中で日本は、日本国憲法によって人権が保証されてきた。それがどうなっていくか、結果論になるが、今回の衆院選は、そういう意味でも分かれ道となる選挙になったようだ。選挙前は争点にもなっていなかったのに、数合わせが出来るとなって、急に持ち上がってきた改憲論議。選挙権を持ちながらも、それを放棄した人には、やはり次回は自覚を持って、未来に生きる日本人たち、自分の孫や子たちへの責任を果たしてほしいものだと願う。

ただ、投票に行くと言っても、わからないまま誰かに適当に入れるのは困りものだ。迷った時の道標となるものは何だろう。選挙の前は、皆いいことばかり言う。やはり公約だけでなく、その人物や属する政党が、過去にどんな言動をしてきたかをよく見極める必要がある。嘘や隠蔽を繰り返してこなかったか、国民の声に耳を傾けてきたか。党利党略や私利私欲ではなく、国民のための政治をするつもりなのかどうかは、きちんと見ておきたい。

 

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