スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

「希望」という名の希望

「希望」という歌があった。「希望という名のあなたを訪ねて、遠い国へとまた汽車に乗る」で始まる歌だ。なぜにまた急にこの歌のことが頭に浮かんだのか。昨今のニュースを見聞きしていて、希望と反対の気持ちを持ってしまったせいかもしれない。環境問題と災害、戦争、経済不安などなど、そんなニュースばかりが流れてくる。

この歌は、シャンソン歌手の岸洋子が1970年にシングルリリースしたものだという。1970年というと、日本では70年安保の時代だった。そう言えば、大阪万博もあった。1964年の東京オリンピックは戦後の復興を果たした印、そしてその6年後の大阪万博は高度経済成長の証だった。当時、日本は上り坂にあったのだ。

この歌を聴いた時は、「希望」という題なのに、やけに暗い曲だなと思った。そうか、希望は絶望の中にこそ芽生えるものだからか。幸せの中にある人は、あえて「希望」を語ることもないだろう。人は、難しい状況の中にある時こそ「希望」の明かりを灯そうとする。「希望」は生きる力となる。たとえば、フランクルの「夜と霧」にあるように、体力的なことは別とすれば、あの苛酷な収容所でも生き延びられた人は、なんらかの希望を持っていた人だという。あの絶望的な状況でも、いつかは愛する人たちと再会するという希望を持ち続けた人たちがいた。もうこれで終わり、と思った時、人はすべての力を失うのだろう。

年を重ねてくると、当然残された時間は短くなってくる。ただそれに焦燥するのかどうかは、コップの水をどう見るかと一緒で、もうこれしか残っていないと思うか、まだこれだけ残っていると思うかの違いでもある。たとえば、満杯だった水がいつの間にか半分もなくなり、4分の1ほどになっている。それがコップを見ての事実だとしても、その4分の1に希望を持つことはできる。この残っている水を味わって飲みたいという「希望」を持つことが希望になる。最近「根拠のない自信でもいいから自信を持て」という考え方を聞く。確かに一理はあるかもしれない。豚もおだてりゃ木に登るという諺があるが、褒められることによって力が発揮されることもあるように、「希望」を持つことによって湧いてくる力もある。「希望」は生きる力となるだろうという希望が、奇跡の触媒となり得るかもしれない。そして、それは死さえも乗り越えられるのかもしれない。と、これはまあ、希望である。

岸洋子のちょっと暗い「希望」の歌を聴きながら、考えが遠くへ飛んでいった。