村上春樹氏の新刊が出たという。題名は「街とその不確かな壁」。連想ゲームではないが、その題名に触発されたのか、ふと１０年ほど前にチューリッヒの映画館で観たオーストリア/ドイツの映画を思い出した。
原題はDie Wand、日本語では「壁」である。Julian Roman Pölsler ユリアン・ペルスラー監督の２０１２年の作品だ。出演は、Martina Gedeck マルティナ・ゲデック。というか、ほとんど彼女しか出てこない。映画は、オーストリアの高地を舞台に、ある女性のモノローグで進行していく。オーストリアの作家Marlen Haushofer マリアン・ハウスホーファーの小説の映画化作品。
私にとっては、ゾクっとするような怖い映画だった。今思い出しても、自分があの透明な壁に閉じ込められて暮らさざるを得なくなったらと考えると、深い恐ろしさに襲われる。記憶を辿ってストーリーをザッと言うと、次のような話だ。ある都会暮らしの女性が、知り合いの老夫婦の車で雄大な自然に囲まれた山荘というか山小屋を訪れる。老夫婦は、また戻ってくるからと彼女を残して町に降りるが、翌朝になっても帰ってこない。一人にされて心配になった彼女は町に通じる道を探しに行くが、途中で透明な壁にぶつかる。どの方向に行っても壁にぶつかってしまう。山荘の周りの広大な土地が透明な壁で囲まれているのだ。その壁はあまりにも強固で、車でさえも跳ね除ける。どんなに足掻いてもそこから出ることができないと知った彼女は深い絶望に沈む。残されたのは、夫婦が飼っていた犬と何頭かの家畜のみだ。いまや彼女の世界に人間は誰もいない。気持ちを分かち合えるのは犬だけである。孤独の絶望の中で、彼女は書くという行為に救いと慰めを求める。外の世界との交流ができない今、やがて彼女は自給自足の生活を強いられる。都会人であった彼女だが、畑を耕し狩りをするようになる。映画は、美しい自然の四季を描く。星空が印象的だった。だが、気持ちを分かち合い語り合う人間のいない世界のなんと孤独なことよ。壁の外に遠く人を見かけることもある。だが、救いを求めようにも、彼らはただ写真のように静止している。動かないのだ。山に来たのは夏だったのが、やがて雪が降り、また春が来て花が咲き、何回か季節が巡っていく。一度だけ壁の中で人間に出会うが、その闖入者にたった一人の友であった犬を殺されてしまい、怒りに駆られた彼女はその男を銃で撃つ。彼女は自然児になっていた。書く作業が心の支えだったが、やがてその紙も尽きていく。彼女がその後どうなったのか、壁はいつしか消えてくれたのか、その先は語られない。
自然の風景には見惚れたが、鑑賞後なんとも言えない粟立ちが肌に残った。人間の孤独について思いを巡らす。世界にたった一人自分しかいないと感じる恐怖。人間は社会的動物と言われる。生物学的には群れの中で生きる動物だ。言い換えれば、人間は社会的存在である。常に他者を必要としている。真の孤独は、自分で選ぶひとり時間とは違う。この女性は、都会の喧騒から離れて、しばらく自分だけの時間を過ごしに大自然の中にやって来た。だが、それを楽しめるのは、やがて社会の中に戻る所があってこそだ。しかし、どう足掻いても壁の中から出ることができない強制された孤独は違う。そんな中で、自然と共に暮らすことに折り合いを見つけた女性だが、果たして彼女は、発狂せずに死ぬまでああやって暮らしていけるのだろうか。ボーボワールに「人はすべて死す」という小説があって、昔々読んだことがある。不死の命を得て、世界から人間たちがいなくなってもただひとり孤独に生き続けなければならない男の話だった。初めは永遠の命を望んだにもかかわらず、やがてはその孤独に苛まれる、そんな話だったと記憶している。また、題は忘れたが、トム・ハンクス主演で、無人島に流された男の映画を観たことがある。男は孤独に耐えかねて、ぼろ布で人形を作って友とするが、その人形が波に流されてしまい、水を掻き分け気も狂わんばかりに取り戻そうとする。それが叶わなかったときの男の深い絶望の表情に心が痛んだ。
孤独は、人間にとって永遠のテーマだと思う。新聞を読んでも、孤独感を感じている若者たちの記事が載っているし、老人についての記事もある。老人の場合、孤独は寿命さえ縮めるようだ。また、若者たちはこのSNSの時代で、かえって孤独に苛まれることもあるのではないだろうか。一番下に、以前書いた関連のブログ記事を貼っておく。
