スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

映画「オッペンハイマー」を観て

話題の映画「オッペンハイマー」が上映中である。原爆の父と呼ばれる人物についての映画を観るのは、ちょっと複雑な気持ちがあった。でも、この夏の話題作でもあるし、つい観てみる気になった。チューリッヒに出て行く用事もあったし。

監督が「インターステラ」のクリストファー・ノーランというくらいで、俳優も含めて予備知識も何もなしに映画館に行ったら、なんと3時間近くの長い映画だった。また、構成が複雑で、話の進行が時系列に沿っていないので、事情を飲み込むまではちょっと戸惑う。特に、英語でドイツ語字幕となると、私には尚更だ。普段は英語を使っていないし、アメリカ英語になると全部は聞き取れないから、どうしても字幕を追うことになる。だが、日本語の字幕なら一瞬で読めるのに、ドイツ語だとやはりそうはいかないので、それがまどろっこしい。

話の構成としては、マッカーシズムが吹き荒れた時代に行われた聴聞会を軸に、マンハッタン計画に関わった物理学者としてのオッペンハイマーとその私生活が、過去と現在を行き来しながら描かれる。マンハッタン計画チームの中に、ソ連のスパイがいたことがわかったのだが、家族や恋人に共産党員がいた彼にも疑いが掛けられたのだ。若き日のオッペンハイマーは、純粋に原子や宇宙を探求する魅力にのめり込んでいく理論物理学の研究者として描かれる。やがて、ナチスドイツによる戦争が勃発、ナチスが先に原子爆弾を開発してしまうのではないかとの恐れから、優秀な彼は、軍からマンハッタン計画のチーム作りとその長を命じられる。興味深いのは、目的が大量無差別破壊兵器であるのに、研究者としての熱を持って没頭していくところだ。チームメンバーもそうである。彼らにとっては、これは新しいものを作り出す研究で、成功を目指してそれにのめり込むのは、研究者の性なのかもしれない。そんな彼に、アインシュタインは警告する。君のやっていることは、世界を根本的に変えてしまうのだぞ、君はプロメテウスにも匹敵することをやろうとしているのだぞと。ついに原爆が完成する。砂漠で行われた原爆実験の映像は強いインパクトだ。これが使われての惨状を知っている後世の人間として、その成功を喜ぶ研究者たちの姿を見るのは非常に忍びないものがある。特に、広島・長崎にその原爆を落とされた日本人としては。実験成功に歓喜する仲間や軍関係者を見ながら、喜びと恐れの表情を見せるオッペンハイマーを演じた、キリアン・マーフィーの演技がなかなかいい。彼の顔がどんどん痩けていくのだが、減量でもしたのだろうか。メイクの力も大きい。中頃までは、この映画あとどのくらい残っているのだろうと、時々時計を見ていたのだが、聴聞会の攻防が進んでいって、また、その場面だけ白黒で描かれる上院での公聴会が展開していくと、なんだかサスペンス調になって引き込まれていった。

なぜ今、この映画「オッペンハイマー」が作られたのだろうか。ロシアとウクライナの戦争を意識しているのだろうか。でも、戦争が始まったのは去年の2月末だし、これだけの大作は製作の準備期間も入れると、そんなに短期間では作れないだろう。ただ、現在の世界への警告だとすれば、原爆の悲劇の描き方は足りない。原爆投下の「成功」で、オッペンハイマーは一躍時の人となる。講演会場でも万来の拍手で迎えられる。だが、彼は次第に良心の呵責に苛まれていく。会場で、原爆に苦しむ人々の幻影を見るのだが、それはまだまだ綺麗事の映像だ。大変な地獄は描かれていない。もし、この映画が人類存亡への警告のメッセージを発したかったのなら、実際の広島の映像を取り入れてもよかったろう。今ひとつこの映画の意図が読めなかった。ただ、こちらのテレビでもずいぶん宣伝されていた。私が観に行ったのも、それに釣られたというのもある。この映画、日本ではまだ公開予定がないそうだ。日本人にとっては、映画でのトルーマン大統領の言葉も含めて、複雑な気持ちになる映画であることは確かだ。

この映画を観て思うのは、新しい技術の開発というのは、予想もつかない展開をしていくものだということ。研究者にとっては、新しい発見や技術の開発は、大変魅力的でのめり込ませる魔力を持っている。現在を見れば、AIの開発が飛躍的な段階に入って、様々な分野で取り入れられようとしている。でも、便利さと共に、危惧の念も広がっている。AIは、我々人類を全く新しいフェーズに連れていくことになるだろう。ネガティブな部分が表れてきても、その時はもう対処できなくなっている可能性も高い。技術革新は、いつも諸刃の剣、科学者や技術者の後ろには、哲学者や歴史家が必要だ。