スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

エリザベス女王即位70年祭典に思うこと

エリザベス女王が即位して70年、英国ではここ数日に渡って盛大な祝賀の催しが続いている。その様子は、こちらのテレビや新聞でも伝えられた。また、ユーテューブにもたくさんの映像がアップされている。イギリスのことなのに、多くの人が関心を持っているようだ。私もその一人である。自分が生まれた時にはすでにこの世界に存在していて、物心ついた頃から知っている有名な人だ。96歳の今も、人生で自分に与えられた大きな課題をこなしている姿には敬服する。イギリス王室にはスキャンダルが多々あったが、エリザベス女王だけは、それとは無縁に人々の尊敬を集め、多くのイギリス人の一つの心の支えとして存在しているようだ。それは、ロイヤルファミリー存続の是非を超えたところにあるように思う。なんというか、それは、自分が選んだわけではないのに、人生で遭遇した使命を重く受け止めて、それに誠実に生きた人間への尊敬と信頼なのではないだろうか。エリザベス女王は、周りの事情によって運命が激変した人である。もし、エドワード8世が「世紀の恋」で退位しなければ、その弟である父親が国王になることもなく、当然その世嗣ぎとして、自身が女王になることもなかった。言ってみれば、直系でない他の英国王族のように、重い責任を持つこともなく、王族としての特典だけを享受できたわけだ。70年前の戴冠式の映像を見たが、あの王冠は、その責任を象徴するように大変に重いのだそうだ。覚悟をした瞬間だったのだろう。人間の覚悟の力は大きい。あるヨガの先生の言葉を思い出す。「人生にあれもこれもを求めるのではなく、人生が今あなたに何を問うているのかを考えてみること」。だいぶ昔のことなので、言葉はうろ覚えだが、だいたいこんな文脈だったと思う。エリザベス女王の生き方を見て、そんなことを思い出した。

それにしても、この世界には様々な人間たちが生きているものだと思う。その社会的な地位とはまったく関係なく、高潔な人もいれば無頼漢もいる。自分を犠牲にしてまでも社会の為に尽くす人もいれば、利己的な動機のみで行動する人間もいる。

たとえば、スイス人医師で、カンボジアに病院を作り長年現地の人たちの治療に携わっていたリヒナーという人がいる。その方は難病を得て、数年前に治療のためにスイスに戻り亡くなった。本当は、もっと早く戻ってきたかったのだと思う。だが、後継者が見つからなければ現地の人を見捨てることになる。詳しい事情はわからないが、内面の葛藤はあったのではないだろうか。日本人医師の中村哲氏のことも考える。アフガニスタンの住民の生活改善に尽力しながら、現地で銃弾に倒れた。ドイツ語では、職業のことをBerufという。Berufungと関係のある言葉だ。Berufungにはいろいろな意味があるが、能力と意向によって示される人生の課題、使命というのもその一つである。お金を稼ぐことだけが仕事ではない。先に挙げた医師たちは、人生の使命としてその仕事を全うしたのだと思う。

一方、地位だけ高くても無頼漢はいる。世界を見渡すと、独裁的権力者に多い。たとえば、本来の政治家の使命は、国が安定する政策を実現して、国民を幸せにすることだろう。だが、権力を握っている連中で、そんな政治家がどのくらいいるだろうか。国の最高責任者でも、自分たちの利益を第一義に、平気で国民を戦争に巻き込んでいく輩もいる。こういう人間たちは、言わば、暴力に頼って言うことを聞かせるならず者とかわりない。人間社会の破壊者だが、涼しい顔して権力の座を手放そうとしない。

昨日、たまたまスイステレビの哲学番組「星の時間」をみた。インクルーシブ社会と活動家がテーマだった。印象深かったのは、環境問題活動家の若い女性のインタビューだ。頑張ってもなかなか前進せず、孤独な闘いだと感じているようだ。利己的に生きられたらどんなに楽だろうと思っても、自分の裡なる使命感がそれをさせない。環境に配慮することなく自分の楽しみに生きる同世代の人たちを見ていたら虚しくもなるだろう。見ていてちょっと辛くなった。幸せでいてほしい。

最近は「好きなことだけしなさい。好きな人とだけ関わりなさい」と言うスピリチャル系の人もいるようだ。ただ、これを精神的に成熟しないうちに実践するとどうだろうか。人生はそう単純ではない。一見楽ではない使命を果たそうとする時にこそ、人間としての深み、人生の喜びに到達するチャンスがあり得るかもしれない。

エリザベス女王の即位70年祭典から、あれこれ思いが広がっていったところである。