スイス山里COSMOSNOMADO

アルプスの山を眺め空を見上げながら心に映る風景を綴ります

映画「華麗なるギャツビー」

 

 

アメリカの作家、F・スコット・フィッツジェラルドの1925年の作品「グレート・ギャツビー」は、2回映画化されている。一つは、1974年のロバート・レッドフォード主演で、もう一つは、2013年のレオナルド・ディカプリオ主演の作品。映画の邦題は、いずれも「華麗なるギャツビー」になっている。

フィッツジェラルドの小説の邦訳名は「グレート・ギャツビー」「偉大なるギャツビー」「華麗なるギャツビィ」など様々ある。どの翻訳だったか覚えていないが、昔々読んで印象に残った。特に、ギャツビーの想い人のデイジーのセリフが妙に頭に残って、時代と女性について考えさせられたものだ。それは、デイジーが小さい一人娘を見ながら「可愛いおバカさん」に育てたいと言う場面。ちょうどその頃、サマセット・モームの「クリスマスの休暇」を読んでいて、その中に出てくるパリ亡命ロシア貴族の娘、オルガ公女との対比を感じたからかもしれない。彼女は近寄る男たちに自分が美しいと持て囃されるとしたら、それは若さゆえのことと知っていた。ただ、本が手元にないので、これは私の記憶の中の思い込みなのかは検証できないのだが。いずれにしても「可愛いおバカさん」は、可愛いうちに金持ちの男を手に入れなければならない。可愛い時期を過ぎて「おバカさん」だけになってしまったら悲劇である。金持ちの娘デイジーは、ギャツビーを振って大金持ちのトム・ブキャナンと結婚した。関係が破局してもお金は手に入るだろうから、まあそういう選択もあるのかもしれない。1974年の映画の中には、「金持ちの娘はね、貧乏な若者とは結婚できないものなの」と泣きながらギャツビーに言い訳する場面がある。貧しかったギャツビーは、再会してデイジーを取り戻すために、闇の仕事までして大金持ちにのし上がった。彼はデイジーの軽薄な物欲を感じていたのか否か。けれど恋に落ちた彼は、まさにヒット曲「Wenn a Man Loves a Woman」の歌詞のように、彼女を愛したのだろう。

簡単にあらすじを追ってみよう。語り手のニックは、第一次世界大戦後に故郷の中西部に戻って来る。そして、やがてニューヨークで働くためにロングアイランドに居を構える。隣家は大邸宅で、謎の人物ギャツビーが住んでいるのだが、そこでは夜毎に豪華なパーティーが催されていた。対岸には、親戚にあたるデイジーが、大金持ちのトム・ブキャナンと結婚して住んでいて、久しぶりに再会する。そこで知り合ったジョーダンというデイジーの親友の女性を中立ちとして、やがてニックはギャツビーと出会うことになる。実は、ギャツビーはデイジーの元恋人で、彼女との過去を取り戻し愛を得るために、あの乱痴気騒ぎの宴を開いていたのだ。いつか彼女が評判を聞きつけてパーティーに現れるように。ギャツビーがどのようにして財を成したのか、噂は飛び交うが本当のところは誰にもわからない。ニックは、彼とデイジーの再会を手助けして、仲を取り持つ。戦争中に将校だったギャツビーは、ニューヨーク社交界の花形だった金持ちの娘デイジーと出会って恋に落ちる。結婚まで約束するが、彼女は戦争に行った彼の帰りを待てずに、大金持ちの息子のトムと結婚してしまった。しかし、ギャツビーは過去を取り戻す決意だ。トムは妻の他に愛人がいて、デイジーは幸せではない。ギャツビーと再会して心が燃えるものの、最終的には離婚には踏み切れない。夫のトム、それにニックとジョーダンも入れた5人の集まりで、ギャツビーに決断を迫られて半狂乱になったデイジーは部屋を飛び出し、ギャツビーは後を追う。そして、車に乗った二人は事故でトムの愛人を轢き殺してしまうのだが、運転していたのはデイジーだった。けれども、ギャツビーは彼女を庇い、結果的には愛人の夫に銃殺されてしまう。彼の葬式にはニックとゴシップ記事を書くリポーターの他は誰も来なかった。事件後に夫と共に居を移したデイジーからは、何の音沙汰もなかった。ニックだけが彼を悼み、ギャツビーがある意味で偉大な心情の持ち主だったことを噛み締めていた。

1974年の映画は、ずいぶん昔に観た。数年前に2013年の作品を観て、印象が少し違ったので、いつかレットフォード版の方を観返してみたいと思っていた。小説がそうであるように、両方ともニック・キャラウェイという青年が狂言回しを務めている。主人公のギャツビーとデイジーについても、彼が見聞きして知っている範囲内の物語として語られる。ただ、2013年の方は、ニック自身の人生が1974年版に比べると、もう少し前に出ていた。一般に文学作品の映画化は、その小説を元にしていても、脚本と監督によって原作とはニュアンスが違って来るものだ。また、誰が演じるかによっても主人公のキャラクターに違いが出る。私としては、小説に忠実に見るならば、デイジー役はミア・ファローに軍配を上げたい。彼女には、デイジーの持つ精神的脆さと、世俗的強かさがよく出ていた。それが逆に、レッドフォード演じるギャツビーの、ある意味高貴な一途さを際立たせていたと思う。ミア・ファローのシャンペンの飲み方とか、上目遣いの表情とか、シャツへ頬を擦り寄せて泣くシーンにも、デイジーの通俗性が現れていた。キャリー・マリガンの方は、可愛らしい儚さと苦労知らずの無垢な印象の方が勝っていて、今度はそれが逆に、ギャツビー役のディカプリオの紳士然としながらも、隠しきれない出自と野心の強さを感じさせた。ギャツビーは闇社会と繋がって財をなしたわけだが、その雰囲気はディカプリオの方がよく出ている。1974年版では、最後にギャツビーの父親が出てくる。父親がニックに語る息子の思い出が切ない。彼が少年の頃書き込みをしていた本を見せながら言うのだ。成すべき課題:話し方の訓練、声と身のこなし方、独創性の勉強、タバコをやめること、週に貯金5ドル、のちに3ドルに直してある。そして、両親に優しくすること、と。たぶん、貧しい出自からアメリカンドリームを実現するために努力を重ねてきたのだろう。レッドフォードのギャツビーを見ていると、野心というより、大きな夢を抱いた真面目な若者が、盲目の恋に取り憑かれて行き着いた先の悲劇という感じがするのだ。

 「Wenn a Man Loves a Woman」は、それこそ1974年版の映画に相応しい歌だと思う。Michael Boltonの歌声が有名だが、あの歌は心に迫る。男女の出会いは縁。それが良縁か悪縁かで運命は決まる。原作を別にして、レッドフォードのギャツビーが出会ったのが、ミア・ファローのデイジーじゃなかったら、彼の人生はどうなっていたのだろうか、などと詮ないことを考えてしまう。観返しての感想。映画としては、私は1974年版の方が好きだ。